の話を黙って聞いていた煙が、脚を組み替える。
 ふう、と小さく息を吐いて、はカップに手を伸ばした。淹れてから一度も口にしていなかった紅茶は、すでにぬるい。
 煙の膝に乗っていたキクラゲが、つまらないとばかりに飛び降りて、どこかへ行ってしまう。それを寂しげな表情で見送った煙が、席を立った。部屋に入った時と同じように窓辺に寄ると、外を眺める。

「記憶が戻ったのはチダルマのせいか……」
「ごめんなさい。わたしの不注意でこんなことになって」
「いや、お前に席を外させたのはオレだ」

 煙が振り向く。
 逆光で、煙の表情がよく見えない。は目を細めた。

「潮時だったのかも知れんな。お前は、ファミリーにいるべきじゃない」

 ガツンと鈍器で頭を殴られたような気がした。
 煙の言うことは最もだ。煙のために魔法を使えないのなら、は煙ファミリーの益になりやしない。煙がただの好意や同情でに手を差し伸べるわけがないのだ。
 じわりと滲んだ涙を見られたくなくて、は俯いた。

「なぜ泣く? オレが怖くないのか?」
「……どうして、」
「オレがお前に何をさせ、その結果どうなったのか。今ならわかっているはずだ」
「わたし、ここにいたいです」

 そう口にした途端、もうファミリーにはいられないという現実を突きつけられた気がして、涙が溢れてきた。ぽたぽたと落ちた涙が、紅茶に吸い込まれていく。

、」

 煙の声音は動揺しているように聞こえた。けれど、顔をあげてその表情を確認することが、にはできない。
 涙が止まらなくて、せめて嗚咽が漏れぬようにと、は唇を噛み締める。

 いつか、鳥太が言っていた。
 煙はと自分を重ねてるんだよ。煙もさ、家族の愛情ってヤツを知らないだろ? だから、に家族を作ってやりたいのさ。

 にとって、煙も能井も、心や鳥太たちファミリーのみんなは家族同然だ。しかし、は煙と家族にはなれなかった。
 部屋を出たとばかり思っていたキクラゲが、いつの間にかの足元に擦り寄ってくる。

「ニャ?」

 つぶらな瞳がを見あげる。
 キクラゲのように、もっと特別な魔法を使えたらよかった。そうしたら、煙はきっと、傍に置いてくれたはずだ。

 カツ、と足音が近づいてくる。キクラゲを見下ろすの視界に、煙の靴が映り込んだ。それでもなお顔をあげられずにいれば、煙が膝をついた。おもむろに、煙がの顔に手を伸ばした。
 指先が頬の涙を拭う。その仕草はやさしかった。

「ごめんなさい。煙さんを、困らせてばっかり」

 涙で歪んで、煙の顔がよく見えない。

 煙を恐ろしいと思ったことはない。
 与えられた仕事は確かに恐ろしく、おぞましくもあった。しかし、煙の立場を考えれば、欠かせぬ仕事であると理解していた。だからこそ、は嫌だと言い出せなかったのだ。

 ぐ、と親指の腹が目尻に押しつけられる。細く長いため息を、煙が吐き出した。

「……ファミリーに置いてやろう」
「煙さん」
「ただし、仕事はしてもらうぞ」

 立ち上がった煙が、背を向けた。
 は飛びつくようにその背に抱きついた。

「ありがとう、煙さん。わたし、煙さんのために頑張ります」

 煙からの返事はなかった。けれど、腕を振り解かれることもなかった。はもう一度お礼を言って、煙の部屋をあとにした。






「きついところはありませんか?」

 顔を覗き込むと、ぼんやりとした瞳がに向けられる。確かめるように腕を持ち上げたりして、二階堂がひとつ頷いた。

 煙が言った“仕事”は、針子だった。
 言われた通りのデザインで仕上げたが、すらりと背が高くスタイルの良い二階堂ならば、もっと似合う服装があっただろうと思うと少し残念である。

「煙さん、着替えが終わりましたよ」
「そうか」

 キクラゲを抱いた煙が近づき、二階堂にマスクを装着させる。チダルマが作ったらしいが、と比べると随分と可愛らしい。

「さて、行くぞ」

 煙がいつものように、に向かって腕を差し出した。ただそれだけのことが嬉しくて、は頬を緩ませながら腕を絡めた。



 ソファに座っていた能井が億劫そうに「今日はなんの発表会だ?」と口を開いた。
 仕事で忙しくしていたはずだが、屋敷に戻ってきていたのか。も二階堂の衣装制作にかかりきりだったため、二人を出迎えることができなかったようだ。

 立ち上がった心と入れ替わるように、は能井の隣に腰を下ろした。

「能井ちゃん、屋敷に戻っていたんだね。おかえりなさい」
「オウ。も元気そーで安心したよ」

 は能井と最後に会ったのが泣き腫らした顔だったことを思い出し、はにかんだ。それと同時に、心が手を握っていてくれた光景が脳裏を過ぎる。ちらりと視線を心に向けて、はすぐに俯いた。
 頬に熱が集まってくるのがわかる。

「改めて紹介しよう。オレのパートナーの二階堂。時を操る魔法使いだ」

 煙に促され、二階堂が室内に入ってくる。「よろしく」とにこりともせずに告げるその姿は、人形めいて見えた。

「オニューノマスクダ!!」

 何が気に食わないのか、恵比寿が怒ったように叫ぶ。

「その子けっこう大人しくなったな。あんなに抵抗してたのに」
「心と能井は合意の上での契約だからわからんかもしれんが、あの悪魔の契約書には相手を支配できる力もあるのだ」

 げっ、と驚く心に対し、能井は「へエ~」と呑気な反応だ。
 もし、あの時意識が戻らなかったら、も今頃は幼なじみとやらの男の隣で、同じような顔をしていたのかもしれない。そう思うと、背筋が冷たくなる。

「オレは反対です!!」

 ふいに、黙り込んでいた藤田が声を上げた。二階堂の危険性を必死の形相で説いていたが、煙に一蹴されて肩を落とす。

 は俯かせた顔をあげて、二階堂を見やった。
 これまでずっとホールにいたから、煙の情報網を掻い潜れたのだろうか。契約してしまった以上、二階堂は煙に逆らうことはできないため、危険などあるわけがない。
 ただ、仲間のトカゲ男が彼女を助けにくる可能性はある。

 心の胸にナイフを突き立て、噛みついたあのトカゲ男──

「顔色が悪いな」

 どかりとソファに座った心が、顔を覗き込んでくる。ハッとして、は笑みを作った。

「すこし、寝不足なだけです」
「そうか?」

 何でもないふうを装っているが、心の心配が伝わってくる。
 そんな不器用なやさしさが好きだ。そのやさしさに、はずっと甘えてきた。何も言わなくても気遣ってくれるし、助けてくれる。

「心さん」

 はそっと、名前を噛み締めるように呼んだ。
 能井に退室を促して、心がに向き直った。部屋には、と心のふたりきりである。

「ずっと、言わなくちゃって思っていたんです。でも、この心地よい関係が壊れてしまうのが怖くて、口にできなかった」
? なにを……」
「心さんが好きです。きっと、何度記憶を消されたって、また心さんを好きになるくらいに」

 あまりの緊張に声が震えてしまう。
 目を伏せたくなる気持ちをぐっと堪えて、は心を見つめた。

 マスクをしていても、心が驚いているのがわかる。

「心さん、お願い、何か言って……」

 不安になって、思わず瞳が潤む。
 瞠目したまま石のように固まっていた心が、ハッと息を呑んだ。動揺を隠せない様子の心が、ふいにこめかみをぐっと押さえた。

「……思い出した」
「え?」
「クソッ、煙さんめ……俺の記憶も消しやがッて」
「心さんの? 思い出したって、」

 消が消していたのは、の記憶だけではなかったのか。
 顔を覗き込もうとした瞬間、は心に抱きすくめられ、言葉を失った。

「俺もだよ」

 心の声が、耳朶に触れる。

、お前が好きだ」

 鼓膜を震わせた声の意味を、やけに時間をかけて理解する。ぶわっと涙が溢れて、は顔をあげられずにぎゅうと心に抱きついた。
 心の鼓動が心なしか速いような気がする。

 つぎはぎの指がの頬に触れて、そうっと持ち上げた。
 いまなら、その腕がつぎはぎの理由がわかる。ホールでは魔法使いは爪弾き者なのだ。とは言え、腕をバラバラにしてケムリを出せるようにするなんて、ぶっ飛んでいるとしか言いようがない。だから心は、煙の掃除屋なのだ。

 淡いブルーの瞳が、をやさしく見つめる。顔が見たい。は心のマスクに指先を引っかけた。

「心先輩! ホールの奴らが逃げ……」

 部屋に飛び込んできた能井が「アレ?」と、素っ頓狂な声を上げる。

「あ~~…邪魔しちゃいました?」

 能井が気まずげに頭を掻く。は慌てて首を横に振ったが、心は右手を振っていた。
 勢いよく飛んでいったネイルハンマーが能井のすぐ横に突き刺さる。「しェんぱい~……」と、能井は涙目である。

「…………で、ホールの奴らがなンだって?」

 わずかにずれたマスクを直しながら、心が立ち上がった。くしゃ、との頭を撫でる手は、やはりやさしかった。










 腕に抱いたキクラゲを撫でながら、煙は窓の外を見つめる。
 記憶をすべて取り戻したがなおファミリーを選ぶとは、正直思っていなかった。後ろ暗い世界に足を踏み入れさせておきながら、には相応しくないと知っていた。もう随分と前から、を手放すべきだと思ってはいた。

「まさか泣かれるとはな」

 ここにいたい、と言ってくれたことは、素直に嬉しい。
 いくら大事にしようとしても、どんなに愛情を持ってしても、誰かを何かを愛するということは煙には難しい。
 腕を抜け出したキクラゲが、気まぐれにどこかへ出かけていく。思えば、が屋敷を離れたことなどほとんどない。まるで刷り込みのように、は煙を慕ってくれる。

「オレもつくづく甘い」
「……仕方ありませんよ。はファミリーの人間ですからね」

 身内に甘いのは昔からです、と消が小さく苦笑を漏らす。

「心と能井の記憶はこのままで?」
「構わん。と関わっていれば、いずれ戻るかもしれんな」
「ええ……部分的な記憶の消去は、魔力が弱いものですからね。些細なきっかけで思い出してしまうでしょう」

 煙は消を振り返った。
 を思えば、に関する記憶を綺麗さっぱり消して、ファミリーとは無縁にするべきなのかもしれなかった。

「それにしても、は本当に心が好きですねえ」
「何ッ?」

 が心を──「絶対に認めんぞ」と、憤慨する煙のことなど露知らず、煙ファミリーの日常にはと心の仲睦まじい姿があるのだった。



フェアリーテールの葬列