黒い家に向かった煙を名残惜しげに見送っていた鳥太が、諦めたように肩を落としトボトボと近づいてくる。椅子に座ったはぼんやりとその様子を見つめた。
鳥太が深いため息を吐きながら、の横に腰を下ろす。「ねえ」と、顔を近づけてくる鳥太に遠慮などなければ、距離感も狂っている。はわずかに身を反らし、顔がぼやけるほどの距離から遠ざかる。
「いままでどこにいたの? なんで悪魔と一緒だったのさ?」
「……それは、」
は言い淀み、視線を逸らす。これまでの経緯を話せば、己の失態も知られざるを得ない。
鳥太の手が伸びて、の顔からマスクを剥いだ。
「がマスクしてるトコ、久しぶりに見た」
「だって、可愛くないんだもん……」
「煙がそれ聞いてショック受けてたよね」
ププ、と笑った鳥太が、の服を指さした。
「その服、懐かしいネ! ってば、そればっかり着てたよね~」
はハッとして立ち上がり「着替えなきゃ」と、狼狽する。
こういうフリルやリボンがついた可愛らしい服装が好きだったわけじゃない。ただ、煙がを思い、のために、服を選んでプレゼントしてくれたことが、とてつもなく嬉しかったのだ。
部屋に戻ろうとするの腕を鳥太が掴んで引き止める。
「いーじゃん別に。ていうかさ、オレのこと慰めてくれてもよくない? あの二階堂とかいう女に、煙がとられちゃったんだよ!」
きいーっと、ハンカチを噛みしめるような仕草をして、鳥太が喚く。
鳥太は煙が大好きだ。四年前も、にとてもよくしてくれていたのに、が煙のパートナーになると聞いた途端に、あの手この手で阻止しようとしてブルーナイトの前に監禁されたのだ。
「鳥太くん……」
は手を広げて、鳥太を胸に抱きしめた。マスクの嘴が胸元に当たって少しくすぐったい。
いつも煙に邪険に扱われながらもめげることなく、好意をあけすけにする鳥太には、尊敬の念を覚える。は嫌われたり拒絶されたりすることが怖くて、想いを口にすることができない。
鳥太の腕が、縋るようにぎゅっとに巻きついた。さめざめと泣く鳥太の背を、は優しく撫でてやる。
「パートナーじゃなくても、鳥太くんは煙さんとずっと一緒にいられるよ」
「そんなの当たり前だろ」
「……そ、そう」
「オレは煙のパートナーになりたいんだよ。四年前も、今年も、ポッと出の女にその座を奪われちゃってさ」
「ポッと出で失礼しましたね」
はむっと唇を尖らせる。慰める必要なんてなかった、と思いながらは鳥太から離れた。
薄情者やらなんやらと、思いつく限りの言葉で鳥太が罵倒しているが、は聞こえないふりをする。開け放たれたままの窓に近づき、黒い家を見あげた。
「やはり、記憶が戻ったようですね。」
ふいに背後から声がかけられ、は振り向いた。
包帯を巻きつけたようなマスクをした男が、腕組みをして立っている。「アレ? 消だ」と、鳥太が呟いた。
すぐにはピンとこなかったが、消といえば煙ファミリーの古参である。はどきりとして、思わず後ずさった。何度、消に杖を向けられたか、知れない。
は慌てて鳥太の背に身を隠した。
「……安心してください、いまは何もしませんよ。煙さんに指示を仰ぎます」
は顔だけ覗かせ、消を窺う。鳥太が不思議そうに小首を傾げた。
「記憶?」
ふう、と消がため息を吐いた時、ドアが壊れそうな勢いで開かれた。
能井の姿を確認したかと思えば、の視界が遮られる。「わっ、心くんってば大胆」と、鳥太の笑いを含む声が聞こえた。心の腕の中なのだと気づいても、は身じろぎすらできなかった。
「はー……無事でよかったぜ」
安堵のため息がこめかみに触れる。
途端に涙腺が緩んで、の涙が心のTシャツに染み込まれていった。
持ち上げた瞼がひどく重たかった。
ぼんやりとしたまま視線を動かして、見慣れた自室であると認識する。は緩慢な動きで身体を起こして、ふと左手の不自由さに気づく。
「……心さん」
呟いた声が、かすかに掠れていた。は、心の手の大きさと暖かさに、安堵の息を漏らした。
ベッドに伏せたその顔にかけられたままの眼鏡が、ずれてしまっている。は右手を伸ばして、心の眼鏡をそっと外してやる。手の塞がった心に代わって眼鏡をかけたことを思い出して、指先が震えた。
ブルーナイトは終わった。心は、能井とパートナー契約を結んだのだ。
ほっとするのに、モヤモヤする。は胸を押さえた。何故こんな気持ちになるのか、いまならはっきりとわかる。
──きっと、何度記憶を消されようとも、この気持ちは変わらない。
「、起きてる?」
ひょい、とドアの隙間から、能井が顔を覗かせた。「ゲッ、ひでー顔じゃん」と、顔をしかめた能井にふーっとケムリを吹きかけられる。
瞼の重みがスッと引いていく。
「悪い、。オレたちこれから仕事なンだ」
「えっ……昨日の今日で?」
「そーなんだよ! オレたちをこき使いやがってムカつくぜ」
能井が息巻いて、大きく舌打ちした。
ブルーナイトの間に仕事が溜まってしまったのだろう。
「センパイ! 仕事ですよ」
バシっ、と能井に背を叩かれた心が顔をあげた。繋がったままの手に力がこもるのがわかって、は反射的に背筋を伸ばした。
淡いブルーの瞳が、ゆっくりとを捉えた。
「…………おはよ」
小さく欠伸をした心の目尻に涙が滲む。
「おはようございます、心さん」
「思ったより元気そうだな」
心がやわらかく微笑む。
は思わず言葉を失って、小さく頷くことしかできなかった。視線を落とした先で、心の手が慌ただしく離れる。
「おわっ! わ、悪い」
「あ……ううん、謝らないでください。だって、その…………すごく、安心したから」
「そ、そうか。つーか能井、テメェは力加減を考えろ。背骨折れるわ!」
照れ隠しなのか、心がふいと顔を背ける。「まぁまぁ、そんときゃオレが治しますって」と、能井が悪びれる様子もなく笑った。
立ち上がる心を、はベッドに座ったまま見つめた。心と目が合うことはなかったが、先ほどまで繋がっていた大きな手がの頭を優しく撫ぜた。
「行ってくる」
マスクを被ってしまえば、いつもの見慣れた心である。はベッドボードに置いた眼鏡に気づいて、手を伸ばした。
「心さん、眼鏡……」
急に動いたせいか身体がふらついた。シーツに崩れ落ちそうになったの身体を、心の腕が抱き留める。
「大丈夫か?」
「う、うん……ありがとう」
の手から眼鏡を受け取り、心が身を離す。そのまま背を向けるかと思えば、と視線を合わせるように背を屈めた。マスクのせいで、表情はよくわからない。
けれど、その視線がに向けられていることは確かだ。
「……心さん?」
する、と心の指先が輪郭をなぞるように、頬に触れる。は恥ずかしさに目を伏せた。
「先輩、行きますよ!」
能井がドアの側で叫ぶように言った。心の手は、何も言わないまま離れていく。は咄嗟にその手を掴んでいた。
「いってらっしゃい」
マスクの下で、小さく笑った気配がした。
軽い朝食を終えて、煙のもとを訪ねる。
部屋に入ると、窓辺に佇む煙の姿が見えた。は緊張しながら「煙さん」と、小さく声をかけた。けれど、すぐに振り向くことはなく、煙の腕の中からキクラゲがひょいと顔を覗かせた。
「……、記憶が戻ったらしいな」
足元に駆け寄ってきたキクラゲに手を伸ばした時、ようやく煙が口を開いた。はハッとして顔をあげたが、しかし煙の視線は窓の向こうを捉えている。
「はい、」
声が震えた。
触れる直前に止まったの手を見て、キクラゲが不満そうに、あるいは不思議そうに首を傾げている。
「煙さん。わたしは、また記憶を消されるんですか?」
煙がなぜかギョッとした顔で振り返った。はじっと煙を見つめた。
「わたしの記憶が煙さんにとって不都合なら、それで構いません」
「待て。記憶のことはまあいい、それよりもブルーナイトで何があったのかを話せ」
ぐ、と煙の眉間に皺が刻まれる。
鳴き声を上げて擦り寄ってきたキクラゲをひと撫でして、は頷いた。
マスクはのために誂えられただけあって、しっくりと馴染むようだった。けれど、似合っていると言われるのは癪なので、男が褒め言葉のひとつも口にできなかったのは、にとって都合がいい。
怯えきった男が「け、契約を」と、震える声で告げた。は緩慢な仕草で男を振り返った。ひ、と男が喉の奥で引き攣った声を漏らす。
「……助けに来るには、遅すぎましたね」
は左手を持ち上げる。指先から放たれた黒煙が、糸に姿を変えて男を拘束する。
「お? 何だ何だ、痴話喧嘩かァ?」
チダルマが愉快そうに笑う。
あまりにも長い時を生きるせいで娯楽に飢えているらしい。本来ならば、パートナーの契約を結ぶはずの悪魔のくせ、チダルマはニヤニヤと傍観するだけだ。
「さようなら。きっともう、二度と会うことはないでしょう」
「ちゃ……」
「わたしのことなんて、忘れたほうがいい。それができないのなら、わたしはあなたを消すしかありません」
男の顔が絶望に染まる。けれど、それにの心が揺れることなんてなかった。
は、煙ファミリーの一員だ。
言葉を待つが本気なのだと理解したのか、男が項垂れるように小さく頷いた。は男の手に箒を握らせると、開けた窓から放り出した。
「大丈夫。運がよかったら、助かります」
悲鳴が遠ざかって、男の姿が見えなくなる。
「おお、コワイコワイ」
わざとらしく言って、チダルマが窓を閉めた。振り向いたチダルマと目を合わせる気にならなくて、は顔を伏せた。
「フーン、オマエ記憶が戻ったナ?」
くつくつと喉を鳴らすように、チダルマが可笑しそうに笑っての顔を覗き込んだ。はマスクの下で、苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
チダルマの言う通りだった。
魔法によって消されたはずの記憶が、すべて戻っていた。は三年前ではなく四年前に屋敷に来ていたし、その年のブルーナイトで煙とパートナーになっていた。
二年前に婚約破棄しただけではない。パートナーを、チダルマの手によって解消したのだ。
「オレのことまで忘れようとするからだぜ? 煙も意地が悪い、とオレはこ~んに仲良しなのに」
ぐい、とチダルマに肩を抱き寄せられる。が何かを言う前に、目の前がふっと暗くなって、身体から力が抜ける。
「あーあ、病み上がりで魔法なんて使うから」
ちっとも心配そうではないチダルマの呟きを最後に、の意識は途切れた。