心も能井も戻ってこない。
 ソワソワして落ち着かないを見かねてか、藤田が「さん、あっちのVIP席に行きませんか?」と声をかけてくれた。
 断ろうかとも思ったが、恵比寿に急かすように背中を押されては頷いた。能井の様子を見に行きたかったが待つように言っただろうと心に呆れられるのは目に見えていたし、何で来たのだと怒られでもしたら立ち直れそうになかった。
 は適当に料理をよそって、藤田の後をついていく。

ちゃん」

 ふいに、手首を掴まれて振り返る。知らない男だった。
 おまえのパートナーになりたい奴もいる、と心の言葉が頭を過ぎる。まさかその一人だというのだろうか。マスクで顔が見えないせいもあって、は警戒心をあらわにする。

「うわ! ちょっとアンタ、何して……!」

 藤田が血相を変えて、男の手を払い除けた。自由になったの手を握って、藤田が足早に歩き出す。
 「フジタ、イガイトヤル」と恵比寿が含み笑いをしながら呟く。はちら、と後ろを振り返るが男の姿は人混みに紛れて見つけられなかった。


 煙ファミリーに用意されたVIP席には、すでに煙の姿があった。
 を一瞥すると、ソファの隣に座るように促す。山積みになったプレゼントを紐解いていたようで、抱えた箱にはキノコが見えた。煙とお近づきになりたい者からの贈り物だろう。
 それをぞんざいな仕草で床に置いて、煙がグラスを手にした。

「心と能井はどうした?」
「能井ちゃん、お手洗いに行ったきり戻っていないんです」
「まだ0時前だぞ……」

 煙が呆れた顔でグラスを傾ける。
 恵比寿がと煙の間に身を割り込もうとするが、煙に片手で追い払われる。その手がの肩を抱き寄せた。

「心配です」
「まあ、心配いらんだろ。どうせケロっと戻ってくる」

 そうかもしれないが、少しは心配するふりくらいしてほしいものだ。
 小さくため息を吐いて、は皿の料理に口をつける。試食もしたのだから美味しいとわかっているはずなのに、ほとんど味がしなかった。

 不穏な空気を察知してか「そ、そういえば!」と、藤田が明るく口を開いた。

「心さんと能井さんはどういう経緯でパートナーになったんですか?」
「聞きたいのか、そんなこと」

 ちら、と煙が藤田を横目で見やる。藤田がシャキッと背筋を伸ばした。

「興味あります」

 煙の視線が、藤田からへと移る。
 グラスを空にした煙が「、何か飲み物とキノコ料理を頼む」と言った。は頷いて、立ち上がる。

「仕方ない。話してやるか……」

 やれやれ、と言ったふうに呟く煙の声を聞きながら、はパーティ会場へと戻った。
 心と能井がどういうふう出会い、パートナーになったのか、は知らない。興味はあったが、煙の言外に席を外してほしいと含まれていたので、の耳にはあまり入れたくないのだろう。

「……何がきっかけで記憶が戻るかわからんからな」

 もちろん、煙がそう独りごちたこともは知らない。




 少し時間を空けて戻ったほうがいいと判断して、は料理を選ぶふりをしながら、会場をウロウロする。
 やはり心と能井の姿は見つからなくて、の不安が募っていく。

 二人は腕利きの掃除屋だ。それでも、幾度も命の危機に瀕している。今回も"そう"かもしれないのだ。
 煙が二人を信用しているのはわかる。だって信用はしているが、心配は尽きることがない。

「能井ちゃん……」

 心には悪いが、一度様子を見に行こう。はそう決心して、踵を返した。くるりと振り向いた先に誰かが立っていたせいで、は目の前の胸板に鼻先をぶつけてしまう。

「きゃっ……ご、ごめんなさい」

 鼻を押さえながら、は顔をあげる。
 相手を確認した瞬間に、は小さく息を呑み、反射的に飛び退いて距離をとった。

「あ、ごめんよ。ちゃん」

 先ほどの手首を掴んだ男だった。いやに馴れ馴れしい。

「あの……」
「やっと二人で話せるね」

 男が嬉々としての手を掴んだ。振り解こうにも、男の手の力が強い。

「……すみません、どちら様ですか」

 の声音は硬い。
 男が大仰な仕草で「えっ、僕がわからない?」と驚く。

「そっかあ、四年ぶりだし仕方ないかな。いきなり君のお店がキノコまみれになって、びっくりしたよ。まさか本当に煙ファミリーの一員になっていたとはね」

 ぶつぶつと呟く男がマスクを脱いだが、それでもなおには誰だかわからない。戸惑うに対し男がにこりと笑った。

「本当にわからない? 君の幼なじみだよ」
「幼なじみ……」
「ま、そんなことは置いておいて。よく無事だったね、。煙の元から、僕が救い出してあげる」

 男が恍惚とした表情を浮かべて、決め台詞とばかりに高らかに宣言する。はわけがわからずに、眉根をぎゅっと寄せた。
 そんなの顔を見つめながら、男が一層嬉しそうに笑んだ。

「大丈夫、もう何も心配いらないよ」

 男がポケットから小瓶を取り出し、床に叩きつけた。は咄嗟に跳び退こうとしたが、手を掴まれて動けなかった。立ち上った黒煙がを包む。

「さあ帰ろう。魔法は解ける時間だ、シンデレラ」

 ポーン、と0時を告げる時計の音が響いた。







 ──僕がもっと強くなって、ちゃんをお家から助けてあげる。
 涙を滲ませながらそう告げたのは、近所に住む男の子だったはずだが、もはや名前も顔も思い出すことはできない。彼はが継母に受ける仕打ちを知っていたのだろう。
 幼心に、彼が少なからず自分に好意を持っているのだとは気づいていた。

 そんな言葉を信じたわけじゃなかった。その言葉で、の傷が癒えることはなかったし、希望を抱いたわけでもなかった。ただ単純に嬉しかったのだ。
 は、男の子の頬を伝う涙を見つめながら、ただ微笑んだ。「待ってる」なんて、答えることはできなかった。


 幼なじみ、というのはどうやら本当らしい。
 はそう思いながら、おもむろに瞼を押し上げる。身体が気怠い。

ちゃん? もう目が覚めたのか。やっぱり、安物は質が悪い……」

 小さな舌打ちが聞こえる。はぼんやりと、顔をあげた。男の顔がぼやけて見えたが、段々とはっきりするにつれて、は状況を理解した。
 周囲に視線を走らせ、それから自分の胸元を確認する。服装が変わっている以外は、特に何の違和感もない。

「残念だけど、まだ契約は完了してないよ。ああ心配しないで、ちゃんの裸は見てないよ。金で雇った女に身を清めさせたから」
「…………」
「もうすぐ、ようやく君を取り戻せる」
「勝手過ぎます。わたしは、わたしの意思で煙さんの傍にいます」

 は男を睨みつけた。
 煙の元から救い出すだなんて、思い違いにも程がある。まだケムリの効果が続いているのか、身体が重い。しかし、幸いにも手足を縛られているわけではなかったため、はふらつきながらも椅子から立ち上がる。

「ここまで来て、逃すと思うのかい?」

 男がの腕を掴んだ。はじっと男を見つめ返した。

 こんな失態が煙に知れたら、呆れられるだろうか。心や能井に怒られるだろうか。
 は、煙の元にいなかったことを悔やむ。

「ン? ンンー? 見覚えのある顔だと思ったら、煙のお人形チャンじゃねェか」

 と男は、びくりと身体を震わせて振り返る。気配も何も感じさせずに、背後に悪魔の姿があった。

「そんなことはどうでもいい、早く契約を!」
「オイオイ、誰に向かって口を利いてンだァ?」
「ヒッ」

 少し凄まれただけで、男が後ずさる。
 はその様子を冷めた目で見つめた。本当に、こんな男相手に無理やり契約を結ばされそうになるだなんて、自分が許せない。

「契約はしません。絶対に」

 きっぱりと告げて、は男の手を払い除けた。
 悪魔の長い爪が、の顎先を持ち上げた。「それより、オマエ……オレが作ったマスクはどうした?」と、悪魔が不機嫌そうに問いかける。

「な……チ、チダルマの手製!?」

 男が慄くように言って、壁際まで後退する。はもはや男に見向きもせず、悪魔をじっと見あげた。

「チダルマ……」
「ほー? そうか、オマエこのチダルマ様を忘れているな? ま、オマエの記憶は、どうせ穴だらけのハリボテだ」

 煙には悪魔の知り合いも多い。悪魔の言葉の意味を考える気になれないのは、男のケムリのせいだろうか。

 いつの間にか、悪魔の手にはの部屋にあるはずのマスクがあった。悪魔は何だってできるから、別段不思議ではない。
 鬼のような形相をしたマスクは、誰かに対する怨みつらみが込められているように思える。やはり可愛くない。

「お人形にこの顔だからいいんだよ」

 がマスクをかぶるのは、久方ぶりである。正直嫌だったが、ただの魔法使いが悪魔に逆らえるわけもない。

「ホラ、どうだ? ちょ~~イカすだろ?」

 悪魔が満足げに笑う。男は首が取れそうなほどに頷くだけで、声を出すこともままならないようだった。「似合ってるくらい言えねェのかよ、つまんねー男だな」と、悪魔が吐き捨てた。



アイネクライネ、望みはどこに