色々あったせいで、結局恵比寿に服を渡しそびれてしまった。
恵比寿を探して屋敷をウロウロするが、藤田の姿も見当たらない。どうしようかと思っていたところに「能井さんなら、ボスの研究室ですよ」と、ファミリーの使用人が声をかけてくれた。
「研究室……」
は滅多に足を踏み入れない場所だ。煙の屋敷は広く、もすべての部屋を把握してはいない。少し迷ってしまったが、ようやく目的の場所を見つけてはそっと中を覗き込んだ。
キクラゲを抱く煙の姿が見えた。
「煙さん、入ってもいいですか?」
「か。どうした?」
煙に招かれ、はスカートを揺らして傍に寄った。キョロキョロとあたりを見回すが、マスクをつけた能井と心の姿はあれど、藤田も恵比寿もいないようだ。
「恵比寿ちゃんも一緒かと思ったんだけど……」
「恵比寿? イジけた藤田と一緒にいると思うけどなァ」
首を捻った能井が「、煙の傍じゃなくてこっちに来いヨ」と、の肩を抱き寄せた。煙がむ、と眉根を寄せるのがわかった。
「藤田くん、いじけてたの? どうして?」
「誰も藤田のパートナーになりたくねーンだと」
「そ、そうなの……」
自身もパートナーがいないは、なんと言っていいかわからなかった。
パートナーがいない魔法使いだって、別段珍しくはない。にも、恵比寿にもいない。引く手数多の煙に至っては、理想のパートナーを追い求めて、これまで一度も契約を交わしていない。
カチャカチャと機械をいじる心を、ちらりとは見あげる。
能井と心は、理想的なパートナーだ。
「ただ今、北上中ってか」
心が呟き、能井がひょいとその手元を覗き込んだ。
キノコがついているから、煙が作り出した機械なのだろう。心の言葉から察するに、発信器を追っているようだ。
恵比寿がいないのなら、がここにいても仕方がない。煙に断りを入れて退出しようと、は煙のほうへ顔を向けた。
「ボスー」
は口を開くタイミングを逸して、唇を結んだ。
「恵比寿さんの魔法の成分がわかりましたよ~~」
小瓶を手にした煙の部下が近づいてくる。ガッ、と配管に躓いて、その手から小瓶が離れて宙を舞った。「エッ?」と、煙が目を丸くする。
「ん?」
小瓶が能井の後頭部に当たって、バリンと割れる。近くにいたを、能井が突き飛ばした。咄嗟のことで加減ができなかったのか、勢いよく弾き飛ばされたの身体を心が受け止める。
衝撃に瞑った目を開いたときには、能井が黒いケムリに包まれていた。
「能井ちゃん!」
「おいっ、恵比寿の魔法はどんなものなんだ!?」
「えーッ、エットエットーォ……」
部下が焦った様子で資料を捲る間にも、能井の身体が変化していく。
「マズイぜ、もう何かの変化が始まってやがる!」
心がを背に庇う。「恵比寿はどこだ!?」と、珍しく煙がひどく焦った様子で叫んだ。
見る見るうちに、能井の身体は魔法による変化を終えた。
2mを超える巨体がさらに大きくなり、トゲ付きの尻尾が生えている。皮膚が鱗に覆われ、マスクの口元から覗く歯はひどく鋭い。
「ヒイィー……!」
四本指の大きな爪が、傍にいた部下の身体を引き裂いた。パッと散った鮮血が、や心のほうへも飛んでくる。
「能井ちゃんっ」
「クソッ……、離れろ!」
能井に近づこうとしたを、心が腕を掴んで引き寄せた。
トカゲになった能井が手当たり次第にあたりを破壊する。研究室はめちゃくちゃだ。逃げ惑う煙の部下たちを、鋭い爪が切り裂いていく。
「これが……恵比寿の魔法か…………」
煙が呆然と呟いた。
「煙さん、しっかりして! 能井ちゃんが……!」
「あっ、能井!」
能井が研究室を飛び出していく。煙が血だまりから、部下が持ってきた資料を拾い上げた。パラパラとそれに目を通すとため息を吐く。
「“黒い粉”の成分が混じってやがる」
「何だと? 厄介なコトになったな……」
は心の手を払い、廊下に飛び出した。すでに能井の姿はない。床には血の跡が点々と続いており、能井の行き先がわかる。
「」
心がの手を掴んだ。は不安げに心を見あげ、その手を縋るように握り返す。
「心さん、能井ちゃんを助けてあげて」
の瞳から、堪えていた涙が溢れて落ちた。
能井が通った跡には、血飛沫で壁が汚れていたり、窓が割れていたり、煙の部下が床に転がっていたりした。「屋敷がめちゃくちゃだ」と、煙が憤慨しながら足元に転がる部下の生死を確認する。
「死んでるな」
「……早いとこ何とかしねェと」
キクラゲが首を傾げて、遺体を見つめている。ケムリを吐く気配はない。
「どこかに追い詰めないことには話にならんな。このままじゃ屋敷中を破壊し尽くしかねん」
立ち上がった煙が、唸るように言った。
廊下を曲がった先からガシャン、と何かが割れるような音が聞こえる。躍り出た先で、割れた窓に事切れた部下がひとりぶら下がっていた。能井が振り向く。
「ぐ、ガ……」
「能井!」
振るわれた尻尾がこちらに届くことはなかった。
能井が踵を返した。「追うぞ!」と、心が駆け出す。手を掴まれたままのは、引きずられるように走る。足の長さも違うせいで、まったく速さについていけない。
トカゲ姿の能井は、ドタバタと廊下の調度品を壊していく。煙が頭を抱えている。
「……この先の厨房に追い込むぞ!」
煙が叫んだ。
厨房の片隅にその姿はあった。
怯えた様子でうずくまる能井が、近くたちに気がついてハッと息を呑む。
「能井、安心しろ。俺だ」
「能井ちゃん……」
ゆらりと立ち上がった能井は、対峙する心の身長をゆうに超えていた。“黒い粉“には凶暴化する副作用があり、能井の暴走はそのせいである。
殺しても構わない、と告げる煙に、は非難がましい目を向ける。
「ハッキリ言って、殺せる自信がねェな……」
心が腰元のネイルハンマーを手にした。
「に……げて……オレ…………自分を……止めら……れ……ねェ……」
能井が低く唸る。振るわれた爪が、心のマスクを切り裂いた。心の頬に深い爪痕が三本走る。
その場に踏み止まった心が「こいッ!!」と、構えをとった。
素早く伸びた尻尾が心の首に巻きついて、身体を壁に叩きつけた。手にしていたハンマーが床に転がる。心の身体が持ち上がり、足が宙に浮いていた。
ギリギリと首を締め付けられ、心が苦しげな声をあげる。
「やめて、能井ちゃん!」
は堪らず、能井に抱きついた。
「、………………」
能井の意識がに向けられ、巻きつく尾がほんのわずかに緩んだようだった。ズドン、と心の右手が能井の喉を貫く。
「先輩の力を思い知ったかよ……」
心がにやりと口角を上げた。
「うッ」
「きゃっ」
力尽きたと思われた能井が、最後に右手を薙いだ。その爪は心の腹部を抉り、の肩口を掠めて弾き飛ばした。心と能井が倒れ、作業台が真っ二つに割れる。
「あ~あ……大丈夫か、」
「わたしは大丈夫です。それより……心さんっ、能井ちゃんっ!」
煙に助け起こされたは、慌てて心に駆け寄った。首に巻きついたままの尾を解けば、心がむくりと身を起こした。
脇腹から腸が飛び出ている。はギョッとするが、心もまたギョッとしている。
「おまえ、怪我してんじゃねェか!」
「な、何言ってるんですか。心さんに比べたら、こんなの怪我のうちに入りません!」
最後に掠めた爪の傷など、心の頬よりも浅い。
「恵比寿がいないとなると、あそこに行くしかない……仕方ない。心、能井を担げるか」
「煙さん! 心さんは重傷……」
よっと、と軽い掛け声と共に、心が能井を担ぎ上げる。ぼたぼた、と傷口から血が滴り落ちた。
「あ、悪ィ。、胸ポケットから眼鏡を頼む」
は言われるがまま、心に眼鏡を掛けてやる。あまりの至近距離に、眼鏡のつるを摘む指先が震えた。「アリガト」と、微笑んだその顔を、とてもじゃないがは直視することができなかった。
煙がどこか不機嫌そうに「行くぞ」と告げた。
煙しか知らないエレベーターに乗って辿り着いた部屋には、鳥型のマスクを被った上半身裸の男がいた。煙に飛びついたその男を、は知っていた。
「鳥太くん……」
「アレッ、じゃん! 何だよォまだ煙と一緒にいるのかよー」
「えっと、」
悔しそうな鳥太に対し、はどう答えるべきか迷って言い淀む。
「まあいいや。お茶でもいれるね!」
悠長にお茶を飲んでいる場合ではないだろう。
事情を聞いた鳥太が「大丈夫、オレに任せてよ」と、あっけらかんと告げた。鳥太は“魔法を解く”魔法使いだと言う。
魔法陣に横たえた能井の首の傷が、早くも治りかけていることに気づいて「もうすぐ起きちまうぞ」と、心が顔をあげた。鳥太は変わらぬ調子で、材料をすり鉢に混ぜていく。
「あとひとつ重要なのが……能井ちゃんの一番大事な人の臓物!! とってもロマンチックだろ!」
鳥太が人差し指を立てて、楽しそうに笑う。臓物がロマンチックとは、やはりファミリーの幹部ともなると感覚がずれている。
「能井の一番大事な人って誰だ?」
「俺とおまえか、の可能性もあるだろうが、ちょうど臓物が出てるおまえがくれてやれ!」
は煙を見て、それから心に視線を移した。能井の一番大事な人は、きっと心だろうとは思う。
「失礼してちょっともらいます」と、鳥太が心の飛び出た腸を切り取る。相変わらず、心は平然とした顔をしている。切り取ったそれを混ぜてできあがった悪魔人形を、鳥太が能井に食べさせる。
「心くんは能井ちゃんの胸に手を当てて、一番イイ思い出を思い浮かべてね」
「一番良い思い出!?」
心が戸惑いながら、能井の胸に手を置いた。鳥太の手のひらから放たれたケムリは、トリの形となって能井の口へと入っていった。はじっとその様子を見守る。
シュウウゥと音を立てながら、能井がトカゲから元の姿に戻っていく。
やはり、能井の一番大事な人は心だった。煙が悔しそうにしているが、は納得する。
「能井ちゃん!」
目を開けた能井ががばりと身を起こす。トカゲ化した際に服が破れて、上裸の状態だ。は能井にぎゅっと抱きついた。むにゅりと潰れる乳房の感触がある。
「? ゲッ、どうしたんですか、先輩! その傷!」
「……おまえ、何も覚えてないのか?」
心が指先で眉間を押さえる。「すぐ治しますよ」と、能井がにこやかに笑う。先の騒動など微塵も覚えていない様子である。
「まず、から治してやってくれ」
顔を背けながら、心がジャケットを能井に手渡す。袖を通した能井が、に向き直る。
「も怪我したのか? 先輩と煙がついてながら、仕方ねぇなァ。ホラ見せてみろ」
じわじわと滲み出る血はすぐにきれいになるため、一見どこにも怪我などしていない。
は襟元のボタンを外し、肩を露出させる。血の滲む爪痕に、能井のケムリが吹きかけられる。「これでヨシ」と、能井の指先が傷ひとつない肩を撫でた。
「ありがとう、能井ちゃん」
心のほうがよほどひどい怪我なのに、を優先させるなんて。
少し納得のいかない気持ちで心を見れば、ふらついている。足元には血溜まりができていて、さすがの心といえど出血多量なのだろう。
「心さん、大丈夫ですか? 能井ちゃん、心さんも……」
「馬鹿っ、おまえ、ちゃんとボタンを閉めろ!」
は慌てて心を支えるが、思わぬ叱責を受けてしまう。呆然と見あげた心の顔が赤い。胸元が見えているわけではなかったが、は急に恥ずかしくなって焦りながらボタンを閉める。
もたつくを見かねて、能井がボタンを止めてくれた。
「先輩、いま治しますね」
すう、と息を吸い込んで、能井がケムリを吐き出す。頬の傷まできれいに治ったことを確認して、はほっと胸を撫で下ろした。