「先輩、見ませんでした?」
「見てない」
「いつもの出迎えもないし、どっか出かけてんのかな~…」
能井が不思議そうに首を捻る。
能井ちゃん、とスカートを揺らして駆け寄るの姿が思い浮かぶが、そういえば確かに今回は姿が見えなかった。能井ばかりに尻尾を振っているのは癪だが、じゃれつく子犬のようで心はのことを気に入っている。
「見かけたら、おまえが探してたって言っとくよ」
「はいっ、お願いします。先輩!」
ズンズンと遠ざかっていく能井の背中を見つめながら、心は眉根を寄せた。
心には思い当たる節がある。
ホールに行ったことを、は綺麗さっぱり忘れてしまっていた。煙が何かしたに違いないが、問い詰めたとしても以前のようにはぐらかされるのは目に見えている。誰にも負けるつもりはないが、煙を相手にするのはさすがに分が悪い。
煙は今日、外出していない。もおそらく屋敷内にいるはずだ。
「……まさか」
心はハッと目を見開き、息を呑んだ。
果たして、屋敷の拷問室にの姿はあった。の左手から伸びた糸の先には、ぐったりとした男がいた。その顔に見覚えはない。心と能井とは、まったく関係のない仕事なのだろう。
「……」
「心さん? どうしたんですか、こんなところに」
がきょとんとした顔で心を見る。
いつものようにヒラヒラした服を着ているせいで、この血で汚れた部屋とはひどくチグハグに見えた。
「それはこっちの台詞だ。いつから、またこんな仕事してンだ」
「……煙さんが、わたしに任せてくれたんです。邪魔しないでください」
が表情を険しくし、心を睨みつけた。いつもは視線すら合わせないくせに、随分と強気で反抗的である。
心はの肩を掴んだ。思わず、その手に力がこもる。
「手を、引かせたんじゃなかったのか」
の顔が痛みに歪んだが、心は手の力を抜くことができなかった。
がこの屋敷にやってきたのは、四年前のことだ。
痩せっぽちで、青白い顔をして、無口で無愛想だった。はじめは煙の後ろに隠れてばかりで、能井とさえも目を合わせず口も利かなかった。
次第に煙ファミリーの名前を覚えるようになり、健康的な身体つきになって、少女らしく頬もふっくらとしていった。はにかんだような笑みを見せるころにはすでに「能井ちゃん」と、能井の後ろをついて回るようになった。
──そして、その年のブルーナイトで、は煙のパートナーになった。
世間に公表されることはなかったが、ファミリーが騒然となったことを心はよく覚えている。何せは、二回りほども年の離れた少女だというのに、煙の婚約者でもあったのだ。
「煙さんと結婚したら、能井ちゃんと親戚になれるね」
そんなふうに笑うは、一年後にはもういなかった。
継母を手にかけたのと同じ方法で、煙に言われるがまま魔法を使ううちに、彼女は精神を病んだ。泣いたり、不眠に悩んだり、情緒不安定だったのは半年くらいだっただろうか。
のこころが煙のパートナーであることを拒むようになって、まるで人形のようになっていった。屋敷にきた当初よりもひどかった。
能井は煙を責めに責めたし、心だって何も言わずとも内心では煙を非難していた。ファミリー内でもに対して同情や憐憫の目が向けられるようになり、ついに煙はとのパートナーを解除した。二年前のことである。
「煙サン、話が違う」
「まさかお前は、俺がただのお人好しだとでも思っていたのか? はファミリーの一員だ、ボスの俺の好きにさせてもらう」
煙が心の腕を掴んだ。ギロ、と煙の鋭い視線が心を射抜く。
「手を離せ、心」
心は渋々、煙に従った。
煙の言うことはもっともだ。そもそも、自身がこの仕事を受け入れているのなら、心には何も言うことなどできやしない。
「…………」
が不安げに心を見つめる。その視線を遮るように、煙がの肩を抱いた。
「心のことは気にするな。アレは心配性なだけだ」
さっさと出て行け、と煙に視線だけで促され、心は後ろ髪を引かれながらも部屋を後にした。
もう十年以上ファミリーに身を置いているのだから、組織というものを心は理解している。煙には逆らえない。たとえ、従兄弟である能井だって口ではどう言おうとも、最終的にはボスである煙に従うのだ。所詮、心も能井も煙の掃除屋に過ぎない。
「だからって、納得できるわけねーだろ……」
心はぐっと拳を握りしめる。
ホールに連れて行ったことが間違いか否か、心には正直言って判断がつかなかった。ただ、その結果がこれだとするならば、間違いだと認めざるを得ない。
「忘れちまっていいのかよ」
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
記憶や経験というものは、己に刻まれていくものだ。心は、ホールで魔法使いの血を引くと知られ父親を殺されたことも、死ぬ思いをしながら返り討ちにしたやったことも、自分の糧になったと信じている。
──煙さんは、嫌なことは忘れたほうがいいって言うんです。でもこの気持ちを忘れてしまったら、きっともうそれはわたしではない。
の言葉が脳裏を過ぎる。心のせいで、が懸念していた通りになってしまった。
いまのは、心の知るではない。心の顔を見て恥ずかしそうに目を伏せることもないし、心に触れられて頬を赤らめることもない。
ドクンッ。
心は左胸のあたりをギュッと握る。
に対する感情が、ただの庇護欲なのかそれとも別物なのかは、心自身もわからない。ただ、のことを思うと、興奮や高揚感とは別に心臓が強く脈打つのだ。
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいる。の部屋のドアがひとりでに開いて、また勝手に静かに閉まる。
「消さん、アンタだろ」
心は静まり返った廊下に向かって話しかけた。
「困りましたね……今回、あなたの記憶を消すようには言われていないんですよ。心」
すーっ、と何もなかった場所に姿が現れる。煙ファミリー結成時からの古参メンバーで、姿を消すことができる魔法使いだ。正直、“消す”ということを考えるまで、その存在を忘れていた。
姿だけでなく、記憶も消せることは、心も初耳だった。しかし、不思議はない。
「そりゃ好都合だ。消さん、いつからこんなことしてる? さすがにやり過ぎだと思わないのか?」
「私は私の仕事をしているだけですよ」
消が淡々と答える。
心は小さくため息を吐いた。初めから、消の良心に訴えるつもりなどない。殺しを生業にする者にそんなものは必要ないのだ。心だって持ち合わせてはいない。
の部屋のドアをそっと開ける。少女趣味の部屋は心には居心地が悪く、あまり中に入ったことはない。中を見回し、天蓋付きベッドにが眠っているのを確認して、心はドアを閉めた。
振り返れば、まだそこには消が立っていた。思わずびくっと肩が跳ねる。気配をまったく感じなかった。
「心、何故そんなにも彼女に肩入れするのです? はもう、煙さんのパートナーではないし、婚約者でもない。ただのファミリーの一員ですよ」
「……ああ、わかってるよ」
「わかっているのなら良いのです。くれぐれも、煙さんの妨げになる真似は慎むように」
そう釘を刺すと、消が廊下の先に消えていく。
心は壁に背を預け、天井を仰いだ。そう、わかっているのだ。は心にとって特別な存在ではない。それでもこんなふうに気になるのは、が能井を慕っているからなのだろうか。
ふと、心の耳が音を捉えた。寝入っていたはずのの部屋から聞こえた気がして、心はそっとドアを押し開けた。
「ぃ……やぁ…………ッ」
シーツに埋もれながら、が魘されている。
「!」
部屋に一歩足を踏み入れて、心は躊躇する。
眠っている女の部屋に勝手に入るなんて、心の理に反する。しかし、苦しげなの声に、心は思い切ってベッドに駆け寄った。
ぎゅう、とシーツを握りしめて、が背を丸めている。額に汗を滲ませ、苦悶の表情を浮かべていた。
「」
肩を掴んで軽く揺さぶるが、目覚める気配がない。
「、起きろ!」
しんとした部屋に、心の声が響いた。薄らと開かれたの瞳は、涙に濡れていた。瞬きと共に涙粒が落ちて、の白い頬を伝っていく。
ぼんやりとした様子で、が自分の両手に見つめる。
「おかあ、さん……」
「大丈夫か? 魘されてたぞ」
「……しん、さん?」
がおもむろに身体を起こし、あたりを見回した。
「また、夢……あのときの夢です。はじめて、人を殺した……」
独り言のように呟いて、が再び手のひらに視線を落とした。その指先が震えている。
心は、その光景を見たことはない。しかし、昼間の拷問と同様に、糸で身動きをとれないようにして、針で命を奪っただろうことは想像に容易い。
の針と糸は、服を作るためだけに使われるべきだった。心は、そう思わずにはいられない。けれど、もう遅い。
「後悔はしてないンだろ? ぶっ殺してやりてェって思った、そのときの気持ちを思い出せ。おまえはこの手で、それをやり遂げたンだ。すげーよ」
幼子をあやすようにの頭を撫でながら、心は震えるの手を握った。唖然としたように心を見つめていたが、ふっと小さく笑った。
「変なの。褒められることじゃないのに、心さんがそう言ってくれると、安心できる」
が心の手を握り返した。いまさら、心は照れ臭くなってくる。
よくよく見れば、の格好はいつもと違って、タンクトップとホットパンツという極シンプルで手足の露出も多い。
「わたしは、間違ってなかった。そう思ってもいいんですか?」
の濡れた瞳が、じっと心を見つめる。
継母にひどい扱いをされて、耐えに耐えた末にやり返しただけのことだ。心にはそうとしか思えない。ふつうの感覚であれば、親殺しを糾弾するのだろうか。それとも、仕方がないことだったと同情でもするのだろうか。
「ああ、おまえは間違ってなんかいない。少なくとも、俺はそー思うよ」
よかった、とが目を伏せる。睫毛の先が濡れていた。