ホールから戻ったの顔色を見て「ホールなんぞロクでもないところだっただろう」と、煙が一笑した。
は何も言えなかった。ホールは、にとって恐ろしい場所だった。恐ろしい思いをした。心の胸に突き刺さったナイフ、心の顔を飲み込んだトカゲ男の口──思い出すだけで、心臓を掴まれたような気持ちになる。心は無事で、ピンピンしているとわかっていても、だ。
は部屋にこもって、ただひたすら針を動かす。気持ちを落ち着けるには針仕事が一番だと、は心得ていた。
心と能井には、ホールから戻ってから一度も顔を合わせていない。
できあがった服を鏡の前で合わせてみる。フリルもレースも、リボンもふんだんに使ったのに、気分が上がることはなかった。
やはり、は能井のようにはなれないのだ、とホールに行ったことで思い知らされた。こんな自分が、煙のパートナーになれるわけがない。屋敷に置いてもらっていることに感謝して、こうして服を作ることが似合いなのだ。
身の丈を理解していなかった。心のことが好きだなんて、おこがましいにも程がある。
「、新しい服ができたのか」
「……煙さん」
煙の顔を見るのも、ホールから戻ってきた時ぶりだ。
「わっ! え、煙さん、その子は……」
「キクラゲだ」
は煙の腕の中を覗き込む。愛くるしい瞳がを見上げてきて、思わず頬が緩んでしまう。桃色の毛がキュートさを増している。
「可愛いですね」
「そうだろう? キクラゲは、死者に生命を与える魔法使いだ」
「えッ」
もしかして、煙のパートナーになるのだろうか。はキクラゲを複雑な気持ちで見つめた。
「勘違いするな。キクラゲをパートナーにする気はない」
「煙さん……」
は煙を見あげた。
煙が長年自分にふさわしいパートナーを探していたことは、もちろん知っている。本当に存在するかもわからない、時を操る魔法使いをずっと探していた。いまも探し求めている。
元々は、煙御用達の仕立て屋で働かされていた。できあがった服の試着に訪れた煙が、偶然にも変わり果てた継母と、残された針仕事を一心不乱に行うを見つけた。諸々をキノコに変えて処理して、そのままを屋敷まで連れ帰ったのだ。
そして、婚約者という肩書をくれた。次のブルーナイトでパートナーになろうと言ってくれた。「おまえの魔法には価値がある」と、確かに煙が告げた。
──けれど、の弱さがすべてをなかったことにしてしまった。
「わたしは、もう煙さんのパートナーにしてほしいなんて言いません。今までごめんなさい。わたしなんかが煙さんのパートナーになれるわけがないのに」
の瞳から涙が溢れて落ちた。煙がギョッとしたのがわかるが、涙を止めることはできなかった。
「ごめんなさい」
「……、おまえに頼みたい仕事がある」
小さく息を呑んで、は煙を見あげた。
そう告げた煙の声音は、何かを押し殺すようであり、低く唸るようだった。を見下ろす煙の瞳は、これまで見たことのない感情を含んでいるように感じた。
「わたしにできることなら」
先日、完成したばかりの服に袖を通す。
いつも以上にフリフリしていて、なぜ自分はこんなデザインにしてしまったのか、自身にもよくわからなかった。完成度は高いものの、ちょっと悪趣味である。
ヘッドトレスを装着し、くるりとその場で回ってみる。
「変なところなし」
最後に上から下まで確認して、は頷いた。部屋を後にして、食堂に向かう。
何かにとり憑かれたように、部屋に缶詰になって服の製作に励んだからか、廊下を歩くのも久しぶりに感じるほどだ。煙ファミリーの使用人たちに「おはようございます」とは笑いかける。
「おはようございます、さん。お元気になられたのですね」
使用人のひとりがほっとしたように言ったが、には意味がわからなかった。忙しそうなので足を止めてまで理由を聞くことができず、は首を捻った。
「風邪を引いてたわけでもないのに……」
食堂に入ると、心が席を立つところだった。「先輩、早過ぎますよー」と、能井が悔しげにぼやいている。
心臓のマスクを脱いでしまえば、ハンマーを振り回すあの掃除屋と同一人物であるか疑わしいほどに、爽やかな顔立ちだ。眼鏡のせいか柔和ささえある。は能井ほどではないにしろ、長身である心を仰ぎ見た。空のような青い瞳が眼鏡の向こうにはある。
「おはようございます」
「おはよう。なんつーか、今日はいつにも増してスゲー服だな」
「やっぱりそう思います?」
は苦笑をこぼし、「でもせっかく作ったんだから、着てあげないと」と、スカートの裾を摘む。心に会釈をすると、は能井の隣に座った。
「能井ちゃん、おはよう」
「おう、おはよー」
能井がの上から下まで視線を走らせた。
「それが全部手作りってのが、これまたすげーンだよなァ」
「能井ちゃんにも作ってあげるよ」
「それはカンベン。動きにくくてしょうがねーし、オレの趣味じゃない」
「能井ちゃんなら、何でも似合うのに」
ふと気づけば、食堂の入り口で立ち止まった心がぽかんとしている。は首を傾げて心を見やった。
「心さん?」
「いや……ま、元気ならいーわ」
ひら、と軽く手を振って、心が食堂を出ていく。
先ほど、廊下ですれ違った使用人も、まるでに元気がなかったような言い方をしていた。服を作っていただけだが、心配をかけてしまったのだろうか。
「心先輩はさ、をホールに連れていくべきじゃなかったんじゃないか、って悩んでたンだよ。煙のヤツ、散々嫌味言いやがって、許せねーぜ」
能井が憤慨した様子で、サラダにフォークを突き刺した。
聞き捨てならない単語が含まれていたため、は運ばれてきた食事に手を伸ばすことができなかった。
「ホール?」
サラダを口いっぱいに含んだ能井が、怪訝そうに眉をひそめた。
「能井、いまさらその話を掘り返すな」
「げっ、煙……」
キクラゲを抱いた煙が、いつの間にか食堂の入り口に立っていた。
あからさまに嫌そうに顔を歪めた能井は、残っていたサラダをかき込んでさっさと退席してしまった。は能井の背を見送ってから、席を立って煙の傍に寄った。
「おはようございます、煙さん。キクラゲ」
はキクラゲに微笑みかけ、ふわふわの耳を撫でた。キクラゲは満更でもない様子である。
「」
名を呼ばれ、は顔をあげた。煙の瞳がじっとを見つめる。
す、との頬を煙の指先が撫ぜる。名前を呼んだというのに、煙がそれ以上口を開く気配はなかった。煙の手が、輪郭をなぞって首元へと降りていく。
頸窩で煙の指が止まる。は黙って、煙を見つめた。
キクラゲが煙の腕から抜け出し、同時にから手が離れる。は「煙さん?」と、首を傾げた。
「……俺はおまえを手放すべきなのかもしれんな」
「え? ごめんなさい、いま何て……?」
「気にするな。それより、早く飯を食え。冷めるぞ」
煙が直々に椅子を引いてくれるので、は恐縮しながら腰を下ろした。ぽん、と煙が最後に労るように肩を叩いていく。
煙は食堂を去ったが、キクラゲはテーブルの上にちょこんと座っていた。
「煙さん、何だか様子が変じゃなかった?」
キクラゲに問うても、可愛らしく首を傾げるだけだった。
しばらく食堂でキクラゲと遊んであげたが、満足したのか、飽きたのかフラッとどこかへ行ってしまった。
は廊下の先に心を見つけて、足を止める。
壁に寄りかかっていた心が「よォ」と、右手を上げる。を待っていたらしい。
「心さん」
心がゆったりとした足取りで近づいてくる。
マスクをかぶっているから、これから仕事だろうか。相変わらず、黒いスーツは所々血で汚れ、染みになってしまっている。服を作ってあげたいところだが、能井のように断られるのが関の山だ。
「……悪かったな」
心がそっと、の頭に手を乗せた。は不思議に瞳を瞬く。
「どうして、心さんが謝るんですか?」
「いや……俺はホールに行くことで、おまえの視野が広がるかと思ったンだが」
「ま、待ってください」
は思わず、心の言葉を遮った。妙な胸騒ぎがして、は胸元を両手で押さえた。
ホールなんて、には縁がない場所だ。
「わたし、ホールになんて行っていません」
マスクをしていても、心が驚いたのがわかった。