ベッドに括り付けられた恵比寿が、唸り声を上げている。皮が剥がれた顔にはガーゼが貼られており、滲んだ血が痛々しい。早く能井の魔法で癒してほしいと思うが、約束の時間を過ぎても、能井と心は現れない。
いつものこととはいえ、煙は相当お冠である。
「遅い!!」
煙に能井たちを連れてくるように命令され、藤田が部屋を飛び出していく。
恵比寿を怒鳴りつける煙の腕を、はそうっと引いた。怒りに満ちた煙の顔がに向けられるが、怯むことなくにこりと笑う。
「煙さん、すぐに来ますよ」
「……」
一瞬毒気を抜かれたように目を丸くした煙だが、すぐに不機嫌そう眉根を寄せる。
「気は変わんのか」
「え?」
「ホールに行きたいと言ってただろう」
心にはああ言ったが、煙の許可を貰わずにホールに行ったと知れたら、最悪数日はキノコにされるかもしれない。
は顔を曇らせる。煙はがホールに行くことを、快く思っていない。
「だめですか?」
「ホールなんぞに行ってどうする。お前はここにいればいい」
鉤爪のような手袋で傷つけぬように注意を払いながら、煙がの頬を撫でた。はじっと煙を見つめる。
「ヴーッ……ヴーーーッ」
「うるさいぞ恵比寿!!」
煙の手が離れる。は、スカートの裾をギュッと握りしめた。
能井の口から吐き出された黒煙が、恵比寿を覆い隠す。ケムリが晴れた後は、恵比寿の傷は元通りである。が思っていた以上に、幼い顔立ちをしていた。
「記憶がはっきりするのは、まだしばらくかかるけどな」
「煙さん、次の仕事もう始めていいんだろ?」
ぐいっ、とを引き寄せて、心が尋ねる。「あァ」と、煙がグラスにワインを注ぎながら答えると、マスク越しでも心の高揚が伝わってきた。
能井も心も、戦闘狂なのだ。煙が呆れた顔をする。
「も連れていくぜ」
「…………仕方ない。ただし、には擦り傷ひとつ負わせるな。いいな? 心、能井。これは命令だ」
グラス手にした煙が、渋々と言った様子で頷く。はパッと顔を輝かせて、煙を見た。
「ウルセーな、エラソーに命令してンじゃねえ! オレがいるんだ、怪我なんかさせるわけねぇだろバーカっ!」
能井が煙に罵声を浴びせる。
ピキ、と煙の額に青筋が浮かび上がった。は慌てて煙に駆け寄る。怒りに震える拳に手を重ねて、は笑顔で煙を見つめた。
「煙さん、ありがとうございます。行ってきますね」
煙は怒りをため息に代えて吐き出したようだった。無言でにマスクを被せる。
心が指からケムリを出すと、心臓が描かれたドアが現れる。「行くぞ、。能井」と、心が振り返る。
「ホールへ」
ドアの向こうへ足を踏み入れると、そこは景色が一変していた。は能井の後ろにくっつきながら、周囲を見回す。
ホール。心にとって、胸糞の悪い記憶がある場所。
はちらりと心を伺いみるが「あ! あの店で何度か食い逃げしたことあるぞ」と、呑気に呟いている。町並みに視線を戻したは、ぎゅうっと能井の腕に抱きついた。
「の、の、能井ちゃん……あれ、何?」
「ン? あっ! 先輩、誰かが襲われてます」
襲われているのはひとりのようだ。そこに、何人も群がって──貪っている。
ピチャピチャ、グチュグチュと耳障りな音が聞こえる。顔を上げてこちらを振り返ったのは、どう見てもまともな人間ではなかった。ひっ、とは小さな悲鳴をあげて、能井に抱きつく。
「オイ! アリャ一体なんだ!」
「見たとこゾンビ?」
ホールに住んでいた心でさえも知らないのなら、たちが知る由もない。震えるの背を撫でながら、能井が不思議そうに小首を傾げる。藤田だけが、と同じように怯えて悲鳴をあげている。
ゾンビがゆらりとおぼつかない足取りで近づいてくる。
「、オレの後ろに」
言われた通り、は能井の背に回る。「ンガァ!」と心に襲い掛かろうとしたゾンビを、能井が拳ひとつで粉砕する。別方向からきたゾンビも、心によって同様に粉々だ。
心のマスクが、ゾンビによる血で汚れている。
「見ろ! さっき食われてた奴までゾンビになってる」
「先輩、ホールにはいつもゾンビが?」
能井がの無事を確認しながら、心に問いかける。いや、と心が首を振ったので、はほっと胸を撫で下ろす。常にゾンビが徘徊している場所なんて危険すぎる。
「でもあり得る話だ。この町は俺たちの魔法の影響で色々なことが起こる」
ホールにやってくる魔法使いは、この町の人間を実験体にしているらしい。無論、能井や煙のようなエリート魔法使いには、そんな必要はない。にも縁のない場所だ。
けれど、ホールに足を運ぶ魔法使いは、決して少なくはない。藤田だってそのひとりなのだ。
心が腰を屈め、の顔を覗き込んだ。
「つまりとっても“ファンタジー”な町ってことだ」
「“ホラー”の間違いでしょ。出直しましょう」
藤田が恵比寿を抱えながら、心に反論する。しかし、時はすでに遅かったようだ。「あっ、囲まれた!」と、藤田が絶望に満ちた声を上げる。
前後から迫るゾンビによって逃げ場がない。
不安はあるけれど、は能井と心を信頼している。煙が命令と言ったのだ。に危険がないように、必ず守ってくれる。は心のジャケットの裾を、ひどく控えめに指先で掴んだ。
「心さん、」
「ちゃんと近くにいろよ。まあ多少汚れるかもしれんが、我慢してくれ」
「はい、大丈夫です」
は頷いて、笑う。
能井がウキウキとした様子で拳を握りしめた。マスクをしていても、能井と心の瞳が好戦的に輝くのがわかった。
「アンタらねェッ!!」
藤田が、信じられないとばかりに叫んだ。
能井が屈強な肉体を生かして、素手でそのままゾンビに向かっていく。金槌を手にした心が、を背に庇いながらもゾンビをめちゃくちゃに粉砕する。時おり弾けた血肉が飛んでの服を汚したが、魔法のおかげで数分で元通りだ。
恵比寿を抱えた藤田だけが、右往左往していた。
次から次へと湧いてくるあらかた片づけ終えた頃には、明け方が近づいてきているようだった。崩れたゾンビたちを踏みながら歩くのは、気味が悪い。
す、と差し出された手に気づいて、は立ち止まる。ネイルハンマーを握っていないほうの心の手だ。は戸惑いながら、その手を取った。
能井と手を繋いだり、抱きついたり、触れ合うのは日常茶飯事だが、心が相手となるとどうしても身構えてしまう。「滑って転んだりされたら、困るからな」と、心がどこかぶっきらぼうに言った。マスクのせいで表情がわからない。
能井はいまだに時おり現れるゾンビを素手でぶっ倒しながら、ズンズンと先に進んでいく。実に頼もしい後ろ姿である。
「おい、待て能井」
「あっ。先輩、この先に人が集まってるみたいです」
「何?」
能井の言う通り、この先の開けた場所にはゾンビではない人の集まりが見えた。ホールの人は魔法が使えない。けれど、こうして見る限りでは、と何ら変わらないように思えた。
ぐう、と鳴ったお腹の音に「いや、うまそーな匂いがするんで」と、能井が恥ずかしそうに後頭部を掻く。
「ま、こんだけ動いてりゃ腹も減るわな。よし……行くぞ、能井」
繋いでいた手を離して、心があやすようにの頭を撫でた。いつもよりも、随分とやさしい仕草だった。
「ウマソーだなァ、それ……俺たちにもくれよ」
血塗れの金槌を持った心と、2mを超える屈強な能井が現れ、あたりが騒然とする。おまけに顔を隠すマスクは、凶悪で物騒な雰囲気である。
あっ、と藤田が指を刺した。
「心さん、ソイツだ! あのトカゲだ!!」
トカゲ頭の男は、能井と同じくらいに大柄だ。会食の場で、変身魔法で見た姿とまさに瓜二つだ。
「ぎゃああァッ。恵比寿がゾンビに食われてるゥ」
「なんだよ! 治したばっかなのによォ」
目を離した隙に、恵比寿がゾンビに噛まれている。は思わず、近くにいた心にしがみついた。目を丸くした心が、の背をポンポンと叩く。
「あっち行ってろ。すぐに終わらせる」
ナイフを手にしたトカゲ男が、心に向かってくる。は心の邪魔にならないよう、距離をとった。手にしたネイルハンマーで軽くいなし、膝蹴りをきれいに決めた。トカゲ男が地面に倒れる。
トカゲ男は魔法が効かなければ魔法使いは弱いと考えているようだが、心と能井は仕事のほとんどを素手とネイルハンマーのみで終わらせることもある。
トカゲ男に駆け寄ろうとした仲間の女の前に、能井が立ちはだかる。血を吐くほどの攻撃を受けてなお、能井が楽しそうに笑う。戦闘狂である能井にとって、強い相手と戦えることは何よりの喜びなのだろう。
しかし、能井がたった2、3発拳を振るうだけで女は吹き飛ばされて意識を失った。
「ニッ、ニカイドウ!!」
仲間をやられたトカゲ男が怒り任せにナイフを振るうが、ネイルハンマーに弾かれ心には一撃も届かない。
ドスッ、と鈍い音を立てて、心のネイルハンマーがトカゲ男のこめかみにめり込んだ。トカゲ男は鮮血を吹きながら、どさりと地に沈んだ。「まったく! つまんねー仕事だった」と、倒れたトカゲ男を見下ろしながら心が吐き捨てる。
はほっと息を吐く。心の元へ駆け寄ろうとして、空に光った稲妻にびくりと身を竦ませる。一瞬空に向けた意識を心に戻して、は瞠目した。
「心さんっ……!」
心の胸に、ナイフが刺さる。
の悲鳴じみた声に気づいて、ゾンビ化した恵比寿を治療しようとしていた能井が振り向く。
倒れていたはずのトカゲ男が立ち上がり、大きく口を開けて心の顔に噛みつくのを、は大きく見開いた瞳で見ていた。