の左手の指先から、シュルシュルと糸が伸びていく。それはまるで蜘蛛の糸のように人に巻きついて、あっという間にドレスのようなシルエットを形作った。手足は動かせないのに、ドレスを纏っているかのように首から上は自由だ。
「やめてちょうだい! 私ゃ、あんたを本当の娘だと思って……!」
──ああ、ちゃんちゃらおかしい。
三日三晩寝ずに働かせた上に、少しうとうとしただけで、商売道具である手を踏んづける。それが娘にすることなら、狂っているとしか言いようがない。
「っ、お願いだよ、やめておくれ!」
はゆっくりと右手を持ち上げた。指先から、黒い煙が立ちのぼる。それは無数の針へと姿を変えた。そして、怯える女に向かっていく。
「さようなら、お母さん」
顔は綺麗なままだったが、巻きついていた糸の下は蜂の巣となっていた。
ハッ、と息を呑んで飛び起きたは、シーツを掴むとベッドから転げ落ちながら部屋の隅に蹲った。シーツを頭からかぶって、バクバクとうるさい心臓を両手で押さえつける。
ここは煙の屋敷だ。
走らせた視線でそれを確認し、あれは夢だと理解しているというのに、呼吸は荒くなるばかりで、冷や汗も止まらない。の手は、馬鹿みたいに震えていた。シーツの中で出来る限り身を小さくして、誰かから隠れるように息を潜める。
「さん?」
コンコン、と小さなノック音には飛び上がった。その拍子に棚にぶつかって、物が落ちて派手な音を立てた。
「さん!?」
慌てた様子でドアが開かれる。はシーツの隙間から、その姿を確認した。
「……藤田、くん」
「うわっ! 何やってるんですか、そんなところで。朝飯、みんな食べ終わっちゃいましたよ」
藤田がに向かって手を差し出す。シーツを引っ剥がす粗暴さがないことに安堵しながら、はその手を掴んだ。
「あれっ。さん、着替えも済んでないじゃないですか」
足元に落ちたシーツを拾い上げて、藤田がの肩に掛けてくれる。
タンクトップとホットパンツというにしてはいつになくラフな格好だが、寝るときはこうなのだ。とても人前に出る格好ではないと気づいて、はシーツを掴んで身体を覆い隠す。腕も足も出過ぎである。さらに言えば、寝癖だって直していないし、顔を洗ってすらいない。
「オレ、外で待ってますね!」
そそくさと部屋を出ていく藤田の頬が、わずかに赤い。
待っている必要などないのに、廊下には藤田が立っていた。律儀な男だ。煙も能井も、わりと自分勝手で奔放なので、こんなふうに気遣われるとかえって悪い気がしてしまう。は藤田に小さく頭を下げた。
「お待たせしてごめんなさい」
「そんなに待ってませんよ。それより、どうしたんです? お化けでも出ました?」
藤田が手を揺らして、お化けの真似をしてみせる。わざと戯けてくれているのだ。
先ほど目にしたの様子は、尋常ではなかっただろう。
「……ある意味、お化けというか亡霊みたいなものかもしれません」
「へ?」
「夢を、見るんです。継母を手にかけた夢。後悔なんてしていないのに、首を絞められたような気分になって、わたしは魔法を使うのが怖くなります」
「…………」
さっと藤田の顔が青ざめる。藤田の感覚がふつうなのだ。煙や能井、心などは人を殺めることに抵抗などない。
「さんの魔法って、そんな恐ろしいものでしたっけ……?」
煙ファミリーの下っ端である藤田が、の魔法を知らなくても不思議ではない。煙は、を針子として屋敷に置いていると言うが、それは建前に過ぎない。煙から服を仕立ててほしいと言われたことは、一度だってない。
は立ちどまり、藤田を振り返った。ふわ、とスカートの裾が広がる。
藤田に向けて、手のひらを差し出す。
「針と、糸」
指先から出た煙が、右手は針に、左手は糸に変わる。マスクをしていても、藤田が目を丸くするのがわかった。
「物は使いよう、ですから」
は針と糸を消すと、にこりと笑った。
「まあ確かに、針も凶器になりますよね……」
「でしょう? あ、そういえば……恵比寿さん、でしたっけ。お洋服を作ってあげたいんです、採寸したいので今度わたしの部屋に来ていただいてもいいですか?」
「あ、ああ、恵比寿ですね。能井さんに傷を治してもらったら、連れて行きますよ」
会食の場に連れてこられた恵比寿の服装を思い出し、は眉を八の字にする。いくら怪我で前後不覚であろうと、片乳が飛び出た状態だなんてあんまりだった。
藤田と約束を交わして、は食堂に向かった。
食事を終えても、はすぐに席を立つ気にはなれなかった。頬杖をついて、ぼんやりする。
「よォ。調子悪そうだな」
「きゃっ! し、心さん?」
ポンと頭を叩かれて、は肩を跳ね上げた。
Tシャツから覗く筋骨隆々とした両腕は、つぎはぎだらけだ。何度も目にしたことがあるというのに、はいちいちギョッとしてしまう。屋敷の外周を走ってきたのか、心が首筋の汗をタオルで拭う。
その顔に眼鏡はない。はさっと目を伏せた。
「夢見が悪かっただけです」
「夢見ねぇ……おまえ、そういう繊細なところあるよなあ」
「どこもかしこも繊細でしょう。意外そうに言わないでください」
む、とは唇を尖らせる。「はいはい」と、心が適当な相槌を打ちながら、椅子を引いて隣に腰を下ろした。
「煙さんの役に立ちたいんです。だけど、わたしの魔法はそんなためにあるんじゃないとも思ってしまう。だって、ずっと、誰かのために服を作るだけだったから」
は弱い。
この屋敷に来た頃は、継母にそうしたように、糸で相手の身体の自由を奪っては針で蜂の巣にした。けれども、繰り返すうちに眠れなくなって、誰かを殺めた後は涙が止まらなくなった。
見かねた煙が仕事から外してくれたが、同時には屋敷の居候になったのだ。には、煙の望むようには、魔法を使うことができない。
「ま、誰にだって忘れちまいたい記憶ってのはあるだろうよ」
そう言う心の眼差しは、過去を思い出すようにどこか遠くを見ているようだった。は心の事情を詳しく知っているわけではないし、ホールに行ったこともない。
「煙さんは、嫌なことは忘れたほうがいいって言うんです。でもこの気持ちを忘れてしまったら、きっともうそれはわたしではない」
「それでいいさ。俺だって、ホールでの記憶は胸糞悪いモンだが、ああいう経験はしておくべきだったと思ってる。それに……煙さんの操り人形になるおまえなんて、見たくねェしな。俺は俺の意思で、殺しをやってンだし」
「……能井ちゃんも、心さんに憧れて掃除屋になったんですよね」
ふぅ、とは細く息を吐き出す。
「わたしも能井ちゃんみたいになりたかったです」
「能井!? やめとけ、あんなのが二人いたらまいるぜ」
「えっ、どうして? 心さんも、能井ちゃんのことが好きでしょう?」
「す……馬鹿っ、アイツはただのパートナーだよ!」
ガタンっ、と荒々しく音を立てながら、心が席を立つ。は心の赤い耳を見つめ、首を傾げる。
強くて美しい能井以上に、素敵な女性をは知らない。
「心先輩っ、オレの話ですか!?」
ドアを壊しかねない勢いで、能井が食堂に入ってくる。「うわっ」と、心が驚きの声を上げた。はきょとんと能井を見つめる。鍛え上げられた肉体と豊満な胸元がタンクトップ姿によって、惜しみなく晒されている。
は自身の身体を見下ろして、その貧弱さに小さくため息を吐いた。
「トレーニングしてたら腹が減っちゃって。ちょうどよかった、先輩! ケーキでも食べます?」
「……いらん!」
「え~~…んじゃは? って、食堂にいるってことは、まだ朝メシ食べたばっかか」
能井がひょい、との顎に手を掛けて、顔を覗き込んでくる。じっとルビー色の瞳に見つめられて、は恥ずかしさから目を伏せた。
「藤田からの様子がおかしかったって聞いたけど、顔色は悪くなさそうだな。何かあったらすぐ言えよな?」
「うん……ありがとう、能井ちゃん」
同性だからなのか、能井はが屋敷に来た頃から何かと気にかけてくれる。もしかしたら、がまだ屋敷にいられるのは、能井のおかげかもしれない。
腰を浮かしていた心が座り直し、ふと何かに気づいたかのようにを振り向いた。
「なァ、。屋敷に缶詰ってのも気が滅入るだろ。一度、ホールに行ってみるか?」
「ハアァーっ!?」と、驚く能井の声が大きくて、は咄嗟に両耳を手で塞いだ。心が顔をしかめて能井を小突くなか、は言われたことを脳内でもう一度繰り返す。
ホールに? ろくに屋敷を出たこともないのに?
「心さん。わたし、行ってみたいです」
無理だ、と思う自分がいたのにも関わらず、の口からは言葉が飛び出していた。にっ、と心が笑って、の頭を乱暴な仕草で撫でた。