煙には敵が多い。だからこそ、煙の掃除屋である能井と心の仕事も必然的に多くなり、二人は仕事で屋敷をよく長期間空けている。能井に会えない日々を指折り数えるのは、もうとうの昔にやめてしまった。寂しいとは思う。
「さん、能井さんと心さんがお帰りになりましたよ」
「えっ。いま、行きます!」
鏡の前で可笑しなところがないか確認する。ヘッドドレスのサイドについたリボンが歪んでいたので結び直し、少しばかり跳ねた前髪をさっと手櫛で整え、は部屋を飛び出す。
煙の屋敷は広い。廊下を駆けるを見ては、煙ファミリーの使用人たちが「玄関に」「ホールに」「あちらの廊下に」と能井の場所を知らせてくれる。走るうちに息が上がって、が自身の体力不足を自覚した頃、ようやく前方に巨体を捉える。
「能井ちゃん!」
の声にいち早く反応したのは、心だった。心臓を模したマスクが振り返る。
「お、久しぶり……」
「おかえりなさい、能井ちゃん」
「だな……って、俺は無視かよ」
「お~~! ! 元気してたか?」
心の脇を通り過ぎて、は能井に飛びつく勢いで抱きついた。との身長差は50cmほど、体重も倍以上ある能井がよろけるわけもなく、軽々と抱きとめてくれる。
能井がマスクを取ると、美しい銀の髪がふわっと広がった。ルビー色の瞳がを見つめる。
「ただいま」
逞しい能井の腕が、ぎゅっと絶妙な力加減でを包む。マスクをしている姿は巨漢にしか見えないし、戦闘狂でもあるが、能井がを傷つけることはない。
能井のジャージは血と汗で汚れているが、は厭うことなく胸に顔を埋める。
「能井ちゃんの服、作ってあげたいのに」
「いや、オレはこれでイイんだよ。そりゃの服はすげーけど、動きづらいからなぁ」
の作った服は防御力こそないものの、汚れても破れても時間が経てば修復される。煙ファミリーにも作るは作るのだが、能井のように不評だ。煙だけは定期的に着てくれる。
はあ、と心がため息を吐いた。
「おまえらも飽きないね……」
「あ、そんなこと言って先輩! ホントは羨ましいんでしょ~」
「んなわけあるか」
ガッ、と心が能井の後頭部を殴りつける。衝撃がにまで伝わった。
は能井の腕の中から、心を非難がましく見上げる。視線に気づいた心が、マスクの下で笑う気配がする。そうして、おもむろに伸びた手がの髪を乱暴に撫でた。いつもハンマーを握るその手は、大きくて無骨だ。指の先までつぎはぎされた理由を、は知らない。
「行くぞ、能井。煙さんが待ってる」
「はい先輩。じゃ、またあとでな!」
の頭をやさしくひと撫でして、能井が踵を返す。は乱れた髪を直しながら、赤くなった頬に手を当てた。
鏡の前で、はくるりと回ってみる。普段は自分で作った服を身につけるだが、煙と会う予定があれば彼がプレゼントしてくれた服を着る。はっきり言っての好みではないが、それだけで煙が喜ぶことを知っているし、こういう機会がなければ袖を通すこともない。
胸元は開いていないが、背中がパックリして落ち着かない。繊細なレースがあしらわれているデザインは大人っぽい。はもっとフリフリでゴテゴテの服が好きだ。正確には好きというよりも、幾重ものフリルが身を守ってくれるような、妙な安心感を覚えるのだ。
どう考えても似合わないフリルとリボンがついたヘッドドレスを外して、ドレスとともに贈られたピアスを耳に装着する。煙が選んでくれただけあって、によく似合っているような気がした。
けれど、いつもと違う服装は、身包みを剥がされたような心細さがある。
曇った顔の女を見つけて、は無理やり口角をあげた。
しかし、見れば見るほど平凡な顔立ちをしている。体つきだって平凡かそれ以下だ。右腕を折り曲げて、力こぶを作ってみるが、ほとんど盛り上がっていなかった。
「、何をしている?」
「あっ……」
煙がの部屋にノックもせずに入ってくるのは、いつものことである。変なところを見られてしまった、とは照れ笑いを零した。
「貧弱さを確認していました」
「……お前はそれでいい」
煙の指が、の顎を掬い上げる。まじまじと見つめられて、は目を伏せる。恥ずかしさはない。ただ、気まずさかあるだけだ。
色のない唇に、煙がさっと口紅を走らせる。
「よし。行くぞ」
は煙の腕に手を絡ませる。煙の婚約者だったのは、もう二年も前のことだ。二回りほど歳が離れていることもあって、婚約者らしいことをしたことはなかったが、煙がを大切にしてくれていたのはわかる。否、いまだって大切にしてくれているのだ。
いまだに屋敷に置いてくれているし、思い出したように贈り物をくれるし、こうして会食にエスコートだってしてくれる。
「煙さん」
「どうした?」
「わたしを煙さんのパートナーにしてくれませんか?」
煙が立ち止まる。見下ろす煙を、はまっすぐ見つめ返した。
この質問をするのは、婚約破棄と同時にパートナー候補すらも外された二年前から、もう何度目になるだろう。
「だめだ」
答えは、いつもこれだ。
レストランにはまだ誰もおらず、席についた煙が苛々と人差し指でテーブルを叩いている。は隣に座る煙をちらりと見やった。
「煙さん、まだ時間じゃありませんから」
「俺を待たせるなんて許せん。アイツらはルーズ過ぎる」
ファミリーのボスとして忙しない日々を送る煙だからこそ、時間にはうるさいのだろう。ようやく能井たちの姿が見えると「遅い! さっさと座れ!」と、怒鳴り散らした。
「威張るな、糞野郎!」
能井が口汚く罵りながら、着席する。その隣に座った心の横に二人、見知らぬ姿があった。能井と心と違って、マスクをしたままなので顔がよくわからない。が、骸骨のマスクをした少女の片胸がなんと露出している。
誰も気に留めていないようだが、は針子として彼女に服を作ってあげたくてたまらなくなる。小柄な彼女なら、が好む可愛らしい服も似合うだろう。
そんなふうに考えながら彼女を見つめていれば、突然ケーキを持って走り始めたので、は目を白黒させる。煙が言うにはホールで「トカゲ野郎」に指を切断された上、顔の皮を剥がれておかしくなっているらしい。ますます彼女が不憫でならない。
能井と心の次の仕事は、そのトカゲ野郎だ。
「、もっと肉食え、肉!」
煙の話を聞いているのかいないのか、勝手にステーキを注文していた能井が大きく肉を切り分けて、の皿に乗せてくれる。正装した能井はどこからどう見ても美しい女性だが、振る舞いはいつもと変わらず豪胆だ。
「ありがとう、能井ちゃん」
切り分けられたステーキ肉が皿からはみ出そうだ。食べ切れるかな、と不安に思いながらフォークとナイフを構えるが、皿の上からステーキが消える。
見れば、心がひょいと自分の皿に移して、さっさと自分の席に戻っている。正装した心の素顔は、まるで眼鏡をかけた好青年だ。はその顔を直視できずに、さっと俯いてキノコのソースだけが残る皿を見つめる。
「無理すンなよ、。アイツみたいに脳筋になるぞ」
ナイフで切ることすらせず、心がステーキにかぶりつく。分厚いステーキ肉がブチリと音を立てて噛みちぎられる。ソースと肉汁で汚れた口元を、心が手の甲で拭った。
は俯くばかりでお礼も言えない。
妙な雰囲気を察して、煙が軽く咳払いをした。
煙は、トカゲ野郎に魔法をかけた者に興味があり、彼女──恵比寿はトカゲの魔法を使うため何か情報を持っているのでは、と睨んでいる。
煙の呼び声によって、明かりのついたステージに愛茸と舞茸が現れ、例のトカゲ野郎とその仲間の女に姿を変える。トカゲ頭の大男と、豊満な肢体の金髪女性だ。変身魔法を見るのは初めてで、は内心で拍手を送った。
姿を変えたまま、愛茸と舞茸が煙に絡みつく。やけに馴れ馴れしい。は煙から、少し距離をとった。
「今日、俺の電話を受けたのはお前か?」
「そうよ。レバーは美味しかった?」
「俺はキノコしか食わん。ニセモノ共め」
煙が不機嫌に告げた。偽物とはどういう意味だ、とは怪訝に眉をひそめた。
「煙さん!」
煙の頭に銃が突きつけられて、は悲鳴交じりに名前を呼んだ。
銃を持つその手にフォークとナイフが突き刺さる。ガタっ、と音を立てて立ち上がった能井の手にはフォークが握られていた。隣に座る心がナイフを手に「オマエ、なんでフォークを投げんだよ」と呆れた顔をしている。
「簡単に殺されそうになってンじゃねェ! マヌケ野郎! に危害が及んだらどうすンだよ!」
「勘違いするな能井、ちょっと遊んだだけだ」
身を強張らせるを抱き寄せながら、煙がマスクの口元を開く。そしてそこから放出された黒煙は、逃げようとした二人をあっという間にキノコに変えてしまった。
もう食事どころではない。
「この俺がに怪我をさせるわけが……あッ、能井っ、貴様!」
「、大丈夫か? ああーっ、こんなに震えて! 怖かったのか、よしよしもう大丈夫だからな」
慌てて駆け寄ってきた能井が、煙の腕からをひったくる。に怪我がないことを確認すると、ぎゅっと抱きしめてくれる。
心もまた、慰めるようにポンとの頭に手を乗せる。
「災難だったなァ」
心の声に耳を傾けながら、は能井の胸に顔を埋める。
は能井が好きだ。
でも、心のことは──もっと好きだ。目を合わせるのも恥ずかしいくらいに、好きなのだ。