母親はいつも、無個性である出久に心を砕いた。
 出久が無個性で生まれてきたのは自分のせいだと責めて、無個性でありながらヒーローに憧れる姿に胸を痛めて、そうしながらも息子の心を守ってきた。

 物心ついたころには、は自分の個性が、双子の兄を傷つけるものであることを知っていた。
 母親が個性を使うな、とはっきり告げたことはない。ただ、個性をうっかり使ってしまったとき、母親がに向けた目は、まるで親の仇を見るようだった。
 母親にそんな意識はなかったのかもしれない。同じように愛情を注いだつもりかもしれない。

 でも、はいつも感じていた。
 無個性である出久には気を遣わなければならないし、守ってあげなければならないのだと──誰に言われたわけでもないが、はなるべくそうしてきた。
 いつしか、デクと呼んではからかい、出久を泣かせる爆豪のことが嫌になった。

 だって、お兄ちゃんのことを、守ってあげなくちゃいけないから。

 爆豪が何を思っていたのかは知らない。
 無個性である出久をただ見下して、こき下ろしては優越に浸っていたのかもしれない。
 わかるのは、のことを馬鹿にすることはなかったこと、が出久を庇えばそれ以上は何も言ってこなかったこと、それから──にとっては腐ってもヒーローだったことくらいだ。

 そんな爆豪の危機に、ができることなんて何があるだろう。
 抱えきれない不安から、つい出久に感情をぶつけてしまったことを、は後悔していた。けれどそれ以上に、出久を止めるどころか一緒についてきてしまったことを、いまは深く後悔していた。



「狭いですわね。つっかえそう……さん、大丈夫?」

 心配そうに八百万に問われ、は頷く。
 まさか自分が、こんな危険な真似をすることになるなんて、は露にも思っていなかった。爆豪が知ったら、怒るどころではないだろう。
 出久を止めるだけのつもりだった。これ以上、母親に心配をかけるわけにはいかないと思った。

 けれど、いつか思ったのと同じように、出久の意志を変えるなんてにはできないのだ。

「ここに、勝己くんがいるの?」

 八百万とは反対隣りにいる出久にこそっと耳打ちする。出久が困った顔で「わからないけど」と、答えた。

「今から中の様子を確かめる」
「うん……気をつけてね」

 八百万とともに、格子の嵌ったのぞき窓から様子を窺う出久と切島を見守る。
 無事でいてほしい。は胸の前で、ぎゅっと両手を握り締める。
 暗視鏡で中を覗いた切島が、びくりと身体を揺らすのが見えた。のけ反ったせいで、飯田の肩車から落ちかけている。は不安になって、ますます手をぎゅっと握る。そうしないと、身体が震えだしてしまいそうだった。

さん」

 ふいに、の手を八百万がやさしく撫でた。

「手に爪が食い込んでしまいますわ」
「あ……」

 言われて、は手の力を緩めた。開いた手を、八百万が握りしめる。

「すみません、ありがとうございます」

 八百万が微笑む。
 不安なのはだけではない。八百万の肩も緊張に強張っていたが、こうして気遣ってくれているのだ。途端に恥ずかしくなって、は目を伏せる。やはり、場違いが過ぎる。

「お兄ちゃん……」

 縋るように顔をあげたとき、轟音が響いて、暴風がたちを襲った。
 衝撃に立っていられなくて、は膝をつく。何が起きたのかわからなかった。すぐに目を開けることができなかったが、肩を掴む手に気がついてはおもむろに顔をあげた。

「ありがとう、おにい……」
「……大丈夫か?」

 近くにあった瞳は右と左で異なっていた。出久ではないと知って、は言葉を失う。
 そうする間にも、に怪我がないか、その視線が動いて確認している。

「……あ、えっと、」

 は記憶を手繰り寄せ、目の前の人物の名前を弾き出す。

「轟くん、ありがとうございます」
「気にすんな」

 轟の手を借りて立ち上がる。
 切島と八百万が確認する限りでは、すでにプロヒーローが建物を制圧したようだった。Mt.レディの不満げな声が聞こえる。

「こんな楽な仕事でいんですかね、ジーニストさん。オールマイトのほう行くべきだったんじゃないですかね?」

 オールマイトのほう──爆豪は、そちらにいるのだろうか。
 肩車を終えて、狭い路地に再び横並びになったたちは、互いに安堵した表情で顔を見合わせる。

「さあ、すぐに去ろう。俺たちにもうすべきことはない」

 飯田の言葉に、皆が頷く。「さ、早く」と、八百万が声をかけて、路地裏を抜けるために歩き出す。はそのあとに続いた。
 オールマイトがいるのならば、爆豪は、きっと安全に救出されているに違いない。

 早く、爆豪の顔が見たい。
 この路地裏を早く抜けたいのに、狭くてうまく進めない。気持ちばかりが急いてしまう。

 ふいに、建物が揺れる。爆発が起きたのだと理解したときには、の身体は石のように固まって、動きようがなかった。感じたことのないプレッシャーだった。恐怖に足が竦む。隣の八百万と飯田の身体も震えている。


「ゲッホ!! くっせぇぇ……んっじゃこりゃあ!」

 「か──」ぱっ、との唇を八百万が覆う。今にも泣きだしそうな顔が必至で横に振られて、はこくりと小さく頷いた。

「悪いね、爆豪くん」

 得体の知れない声がする。
 バシャバシャっ、と泥が跳ねるような音が聞こえて、爆豪と同じように誰かが突然現れたようだった。

 すぐそこに爆豪がいる。

 そう思うと駆け出したいのに、の脚は震えるばかりだった。は出久の様子を窺う。
 出久がこの恐怖に打ち勝とうとしているのがわかった。無個性と馬鹿にされて泣いていた出久が、の後ろに隠れるばかりだった出久が、歯を食いしばってわずかに足を踏み出した。
 瞬間、飯田が出久と轟の手を制した。八百万は切島を押さえている。

「やはり……来てるな……」

 聞こえた呟きに、はっと息を呑む。
 隠れているたちの存在に気づいているのかと危ぶんだ次の瞬間、オールマイトが飛び込んできた。

「すべてを返してもらうぞ、オール・フォー・ワン!」

 爆風によろけたの身体を、近くにいた八百万の手が引き寄せる。オールマイトの拳がぶつかるたびに、衝撃波が走る。
 出久が小さいころから憧れたNo.1 ヒーローオールマイトが来たのだから、安心できるはずだった。
 それなのに、どうして──

 じわ、と涙が浮かぶ。けれど、それが零れ落ちてしまわないように、はぐっとまなじりに力を込める。
 の震える肩を、出久の手が撫でた。

「かっちゃんを助け出せる方法が思い浮かんだ。決して戦闘行為にならないし、僕らもこの場から去れる方法が……!」
「おにいちゃん、」

 出久を映した瞳が歪んで、の頬を涙が伝った。






「顔色悪ぃな、大丈夫か?」

 慌てて駆け抜ける人にぶつかりそうになって、轟の手がの腕を掴んで引き寄せる。「まあ、ほんとうですわ」と八百万が心配そうにの背を撫でた。

「へ、平気です。勝己くんが無事だと思ったら、なんか急に気が抜けちゃって」

 は力なく笑う。
 出久のことも、爆豪のことも心配で、あまり眠れてなかったせいだ。

「電話、代わるか?」
「えっ……い、いいんですか?」
「ああ。緑谷、妹に代わる」

 はスマホを受け取って「お兄ちゃん?」と呼びかけた。

『よかった、も無事だったんだね』
!? どういうことだデク、頭湧いてんのか!』

 爆豪の怒鳴り声が聞こえて、は慌ててスマホを耳から離す。轟と八百万が、目を丸くして顔を見合わせた。

『オラ、代われやデク!』
「……勝己くん?」
『なんでてめェが一緒なんだ、クソが』
「成り行きで、仕方なかったの。ほんとうはお兄ちゃんを止めたかったんだけど」

 チッ、と大きく舌打ちをする音が、耳に直接聞こえてくる。
 爆豪の悪態が、彼がいつも通りであることを示していて、は安堵する。早く、その怒った顔が見たい。

「勝己くん」
『あ?』
「無事でよかった。ほんとうに、よかった」

 笑ったはずなのに、の目尻からは涙が落ちた。

『うっせ。泣いてんじゃねェよ』

 罵る爆豪の声は、電話越しのせいか、どこか柔らかく響いた。
 だから、はよけいに涙を止められない。

 母親や出久と違って、泣き虫のつもりはなかったが、今日は泣いてばかりだ。
 押し込めていた不安が弾けて消える。ぐす、と鼻をすすったの頬に、八百万のハンカチが押し当てられる。それは、とてもいい香りがした。

それは、感情の濁流