ぼんやりとした視界が、見慣れた顔を映す。「お兄ちゃん」と、呼びかける声は、震えていた。
 出久も名前を呼び返そうとして、しかし、喉が引きつれただけだった。心配そうな顔がますます心配そうに歪んで、瞳に溜まっていた涙がぽたりと出久の頬に落ちた。

「お兄ちゃん、よかった……」

 身体を横たえたまま、出久は視線を動かす。
 ベッドテーブルに、向かれた林檎と母親のメモ書きを見つける。また、母に心配をかけることになってしまったな、と出久は胸を痛めた。

「お兄ちゃん、お願い、嘘だって言って……」
「え……?」
「勝己くんが、ヴィランに攫われたなんて、そんなこと」
「あ……」

 お願い、とが掠れた声を紡ぐ。
 の胸の前で組まれた手が、震えている。力んだ指先が白んでいた。

「嘘だって言ってよ、お兄ちゃん……!」

 がこんなふうに取り乱すところを見るのは、初めてかもしれない。

 泣き虫なのは、出久と母親ばかりで、はいつも慰めては励ましてくれていた。
 いま、出久の前で、泣いているのはだ。興奮で赤くなった頬を、ぽろぽろと涙が流れていく。出久は、なんて声を掛ければいいのか、わからなかった。

「なんで、なんでっ、勝己くん……っ」

 出久の知る限り、と爆豪勝己は幼なじみで、それ以上でそれ以下でもない。
 中学に上がる頃には、ふたりが話すところなど見たことがなかった。爆豪が、出久のようにに絡むことはなかった。

 コンコン、とノックの音に、がハッと息を呑む。
 ガラリと開いたドアから上鳴の顔が覗いて、ぞろぞろとA組のみんなが病室に入ってくる。が慌てて涙を拭って「飲み物買ってくるね」と、立ち上がる。

「あ、悪い。取り込み中だった?」

 申し訳なさそうに言った上鳴に「いえ、お見舞いありがとうございます。すこし席を外しますね」と、が微笑んだ。赤らんだ目元が痛々しい。

「…………ごめん。お兄ちゃんのほうが、辛いのに」
、」
「大丈夫だよね。勝己くん、強いもんね」

 が自分に言い聞かせるように呟いて、逃げるように病室を出ていく。
 この期に及んで、出久にはに掛ける言葉が見つからなかった。ドアが静かにしまって、蛙吹が口を開いた。

「妹さん?」
「あ、う、うん……えっと、A組みんなで来てくれたの?」

 A組のみんなと過ごしたのはたった三ヶ月だが、あまりに濃いせいで、もっとずっと長い付き合いである気がする。上鳴たちの顔を見回して、出久は頬を緩めた。
 けれど、爆豪の不在を告げられると、手が届かなかったその瞬間が蘇って──嘘ではないのだ、と実感する。お兄ちゃんのほうが辛いのに、とは言ったけれど、それが事実なのかどうかはわからない。

 ただ、胸を抉られたような痛みに、涙が溢れて仕方がなかった。
 手が届くところに、助けられるところに、爆豪はいたのにという後悔と、ひどい無力感が出久を襲う。

 はどんな気持ちだったのだろう。
 昔なら、が何を考えているのか、手に取るようにわかった。双子というのはそういうものなのだと思っていた。成長するにつれて外見も違っていって、出久とは、別々の人間であると理解した。

 いまは、にとって爆豪がどういう存在であるのか、それすらもわからない。



 母親との電話を切って、出久はを見やる。
 退院許可を得て、が出久の荷物をまとめてくれている。窓から夕日が差し込んで、出久と同じ色の髪をオレンジ色に染めていた。
 ずっと出久についていた母親に代わって、が来てくれたらしい。

「暗くなる前に帰りなよ」
「お兄ちゃんは帰らないの? お母さんに早く顔を見せてあげてよ」

 が眉毛を下げて、傷跡の残る出久の手を握った。

「さっきはごめんね。わたし、どうしたらいいのか、わからなくなっちゃって」
「……」
「勝己くんがいなくなるなんて、考えたことなかったから……」

 目を伏せたの睫毛の影を、出久は見つめる。
 出久だってそれは一緒だ。爆豪勝己は昔から誰より強くて、いつも背中を追いかけるほかなかった。

「お兄ちゃんまで、いなくなったりしないよね?」

 ぎゅ、との手が、出久の手を握り締める。
 興奮した切島の声は大きかったため、廊下にまで聞こえていたのだろうか。出久がこれから何をしようとしているのか、はわかっているのだろうか。

「心配してるのは、お母さんだけじゃないんだよ」

 出久を見上げるの瞳が、濡れていた。
 わかっていたつもりだった。自分の戦い方は、自己犠牲が過ぎて、あまりに危うい。リカバリーガールに言われたことも、相澤先生の叱責も忘れてはいない。

 ──雄英、行かなきゃだめ?
 どれだけの気持ちを持って出久が雄英に入学したのかを知っている母親にさえ、そんなことを言わせてしまうほど、出久は怪我をし過ぎている。

 出久はの手を握り返す。の顔が、肩口にくっついた。

「お兄ちゃん、わたし、怖いよ。こんな目に遭わないと、ヒーローになれないの?」

 じんわりと肩が濡れる感触がする。

「大丈夫だよ。ちゃんと、帰るから……」

 出久にはそう言うことしかできなかった。
 顔をあげたが「約束だからね」と、涙目で出久を睨んだのだった。


 待ち合わせ場所には、すでに切島と轟の姿があった。
 出久はごくりと唾を呑んで、八百万に続いてふたりに近づく。冷静に考えなくったって、こんな真似をするべきではないと理解していた。飯田や蛙吹の言うことは正しい。
 けれど、出久の心はもう決まっていた。

 今度こそ、助けたい──

 飯田が待ち伏せしているのは予定外ではあったが、五人は改めて心を決める。病院の敷地外へと足を踏み出した出久の手を、誰かが掴んだ。振り向いて、出久は目を引ん?く。

「お兄ちゃんの”大丈夫”は、もう信用してない」
「エっ、なっ、!? なんで……」
「なんではこっちの台詞だよ。お兄ちゃん、何考えてるの? お母さんに連絡して、止めてもらう」

 携帯電話を取り出したの手を、咄嗟に轟が掴んだ。

「どうする、緑谷」
「ど、どどど、どうしよう」

 こんな想定外は、想定外すぎる。
 慌てふためくばかりの出久を見て、轟たちは顔を見合わせる。切島がはあ、とため息を吐いた。

「こうなった以上、一緒に来てもらうしかないんじゃねぇか?」
「えっ!? いや、でも、」

 が通う高校は、ヒーロー科ですらない。
 まるで一般人のを巻き込むなんて、あまりに危険だ。だからって、こんな時間にを一人残して行くことも憚られる。

 出久は彷徨わせた視線を、そろりとへ向ける。途方に暮れているのはこちらのはずなのに、のほうがそんな顔をしていた。迷子みたいな、不安に満ちた目が、出久を見つめる。

「……どうしても、行くの?」

 出久はぐっと目を閉じる。「ごめん」と、声を絞り出す。出久はその言葉以外を持ち合わせていなかった。

「かっちゃんを助けたいんだ」

 すこしの沈黙のあと「そんなのわたしだって、同じ気持ちだよ」と、が悔しげに呟いて、飯田に殴られた出久の頬を労わるように撫でた。


 繁華街を歩きながら、出久はそわそわと背後を振り返る。
 出久たちの変装に付き合わされたの恰好は、八百万ほどではないが、肌の露出が多い。
 八百万の隣を歩くが視線に気づくたび、苦笑を漏らす。「心配しすぎ」と、の唇が動くが、心配なものは心配なのだから仕方がない。心配する立場になって初めて、出久は母親の気持ちがわかったような気がした。

「あんまり似てねぇな」

 ぼそ、と轟が呟いて、目線だけでと出久を指す。

「双子って言っても、二卵性だから……」
「え? ふたりって双子だったのか。てっきり、兄妹なんだとばっかり思ってたぜ」

 切島が目を丸くしてを振り返る。
 が不思議そうに首を傾げ、気恥ずかしそうに笑みを返した。

「爆豪と仲いいのか?」
「……わからない。でも、かっちゃんと話してるとこなんて」

 言いながら、出久はある夜のことを思い出した。
 目元を赤らめながら帰ってきたあの日は、何か月前のことだっただろうか。ドアの外から「勝己くん、ありがとう。おやすみなさい」という声が聞こえた。信じられなくて固まっていたらドアが開いて、その隙間から確かに爆豪の姿が見えたのだ。
 出久は何度も爆豪に泣かされてきたが、がそのような目に遭わされたことはないはずだ。

 まさか爆豪に意地悪でもされたのかと肝を冷やしたが、あのときは確か「勝己くんは、わたしの幼なじみでもあるんだけど」と、言っていた。

「緑谷?」
「あんなふうに、が泣くところを初めて見たんだ。誰よりを知っているつもりだったけど、本当は違うのかも」

 訝しげに切島に顔を覗き込まれ、出久は自嘲するように笑った。

「兄弟だって、家族だって、何もかもを理解するなんて無理だろ」

 轟の言葉に、出久は「そうだね」と頷いて、もう一度を振り返る。が恥ずかしそうに「前向いてよ」と、口を動かすのが見えた。