雄英体育祭をテレビで見てから、はどこかふわふわとして、他に足がついていないような感覚に囚われている。

 出久が個性を使うところを目にしたのは、初めてだった。
 泣いてばかりの母親をなだめながら、は出久の雄姿を目に焼き付けた。画面越しに見る出久は、まるで別人みたいに見えた。誇らしくて、すこし寂しくて、隣に立てない自分がすごく情けなく思えた。

「出久、格好いいねぇ」

 泣き笑いした母親が、しみじみと言った。そうだね、とも笑いたかったのに、頬が引きつって歪んでしまった。涙のおかげで母親にはよく見えなかったようで、は内心でほっと胸を撫で下ろしたのだった。


 出久が雄英高校に通うようになって、もう一ヶ月が過ぎていた。
 自分とは違う制服に身を包んだ出久を、家を出たと同時に自分とは違う道へ向かう出久を、もう何度となく見ては折り合いをつけたつもりだった。

 ヒーローになりたい、とが思ったことは、不思議と一度だってなかった。
 物心ついたときには、すでに出久が「オールマイトみたいになる!」と口にしていたから、ヒーローになった兄の姿を想像してワクワクしていた。まだ個性の発現前だった爆豪たちとヒーロー遊びに興じるときも、はいつも助け出される役だった。

 不満はなかったし、むしろか弱いお姫さまみたいで楽しかった。でもそれは、出久が無個性だと判明するまでで──

「オイ、前見て歩けやコラ」
「わっ……!」

 腕を掴んでを引っ張ったのは、爆豪だった。「電柱」と、爆豪が親指で指し示した先には確かに電柱があって、がそのまま歩いていたらぶつかっていただろう。
 恥ずかしいところを見られてしまったが、は爆豪の格好に気を取られてた。おかげで恥ずかしさもどこかへ吹っ飛んだ。

「わあっ、勝己くんが制服着てる! レアだあ」

 ふふふ、と思わず笑みが溢れる。
 学校が違うのだから、制服姿の爆豪を拝める機会などほとんどないと言っていい。出久はまだ制服に着られている感が強かったが、爆豪にはそんな初々しさはなかった。ネクタイすら結んでいない。

「ア? てめェ、ついに頭沸いたか」
「あは、不良に絡まれた気分」
「……」

 付き合ってられない、とばかりに、爆豪が掴んでいた腕を離す。そのまま背を向けるのかと思いきや、爆豪の片手が差し出された。
 よもや、手を繋ぐ意図ではないだろう。

「買い物袋貸せ」

 目を丸くするを、爆豪が苛立たしげに睨む。ぐずぐずしていると引ったくられそうで、はぎゅっと買い物袋を握りしめた。

「いや、今日は、牛乳とか入ってて重いから」

 コンビニの買い物とはわけが違う。ずしりとしたこの重みを預けてしまうには、気が引ける。

「知るか。貸せっつってんだろ」
「や、やだってば」

 伸ばされた爆豪の手から逃れる。
 爆豪の額に青筋が浮かんだことに気づいて、はわずかに怯んで後ずさる。「舐めんなボケ」と、爆豪の手が買い物袋をかっさらった。は何の反応もできずに立ち尽くす。

「別に舐めてないもん……」

 は唇を尖らせて、さっさと歩き出した爆豪の後に続く。

「んなもん、持ってねェのと同じだ」
「もー、勝己くんのうそつき」

 ふと、視線を感じては周りを見やる。
 チラチラと送られる視線はすべて、隣を歩く爆豪に向けられていた。爆豪は注目を浴びていることなど、欠片も気に留めていないようだった。
 は「勝己くん、すっかり有名人だね」とこっそり耳打ちした。

 赤い瞳がを一瞥する。「興味ねェ」と、吐き捨てる爆豪の横顔は、心の底からどうでもよさそうだ。

「えーと……遅くなったけど、体育祭優勝おめでとう」

 ぴたり、と爆豪が足を止める。むすっと結ばれた唇が、爆豪の不機嫌さを表していた。地雷を踏んだな、と思うが、前言が撤回できるわけもない。

「ね、勝己くん。ちょっと寄り道しよ」

 は無理やり爆豪の手を取った。





 昔、よく遊んでいた公園は、こうしてみると遊具もひどく小さかった。日が沈みかけた時間帯には、子どもの姿もない。

「勝己くんは、いつもヒーローだったよね」

 爆豪は、いわゆる、ガキ大将だった。
 出久はそんな爆豪に振り回されて、時々泣かされていたが、思い返してみるとには傷つけられた記憶などひとつもない。

 はジャングルジムのパイプを掴んで、天辺を見上げる。鉄棒に寄りかかる爆豪は、の言葉を聞いているのかさえ怪しい。
 けれど、こうして寄り道に付き合ってくれているあたり、案外やさしくてに甘い。
 爆豪と話していると、どれだけすげなくされようと、は胸が温かくなる気がしていた。

「お兄ちゃんの個性、初めて見た」

 ぴく、と爆豪が反応する。

「なんかね、お兄ちゃんが知らないひとみたいで、わたし」

 は一度、唇を結んだ。
 爆豪が顔をあげて、の言葉を待ってくれている。

「ちょっと不安になっちゃった」

 何でもないふうに言おうとしたのに、その声は震えてしまった。
 この気持ちを、言葉にするのは初めてだった。誰にも言えなかった。出久にはもちろん、母親にだって、友達の誰にも吐き出すことができなかった。

 鉄棒から背を離した爆豪が、大股で近づいてくる。の目の前に立った爆豪の右手が、ぐわっとパイプを掴んだ。
 爆豪とジャングルジムに挟まれて、はそろりと視線を持ち上げる。
 見下ろす爆豪の顔が、夕日を背にしているせいでよく見えない。

「……勝己くん」

 は俯いて、額を爆豪の胸に預けた。
 ポケットに突っ込まれた左手には、爆豪の鞄と買い物袋が引っ掛かっている。重みを支えて力む前腕に、手を伸ばす。

「勝己くんは、変わらない。わたしのヒーローだ」

 いまも昔も、きっとこれからも。

「何、当たり前のこと言ってやがんだ」

 すぐ傍に落ちた爆豪の声が、のざらついた心を撫でる。
 当たり前が、崩れてしまうことがあると知っていても、どうしてか爆豪の言葉は信じられた。

 ジャングルジムを掴んでいた手が、の顎を捉えた。ぐに、と爆豪の指先が両頬に食い込む。燃えるような瞳がをまっすぐに射抜く。目を逸らしたくても逸らせない。

「いいか、体育祭のことは忘れろ。あんなん俺の望んだ一位じゃねぇ」
「かちゅ、」
「見てろ。俺はオールマイトを超える。デクなんざ目でもねェ高みに登ってやる」
「んん~」

 頬を挟まれて、うまく喋れない。がかぶりを振ると、ようやく圧迫感が消える。ただ、手は顎を掴んだままだ。
 近い位置で視線が交わる。炎の色をした瞳には、しか映っていない。

 がさ、と爆豪の左手が動いて、買い物袋が音を立てた。爆豪の大きな手がの手を包む。

「俺ァ、簡単にこの手を離してやんねーぞ」

 はそっと爆豪の手を握り返す。
 いつだって、この手が引いてくれることを、は期待していた。「ヒーローが助けにきたぞ」という声を、待ち望んでいた。


 ほんとうはずっと、無個性の出久を守るために矢面に立たなければいけないことが、いやだった。たった数分前に生まれただけなのに兄の役割を押し付けて、を盾にするたび「お兄ちゃんなのに」と不満を覚えていた。
 出久の悲しみも苦しみも、すべてわかったつもりで、半分請け負った気でいたけれど、それはの思い上がりに過ぎなかった。

 ──秘密を持っていたのは、のほうだったのだ。


「……うん」

 そっけない返事になってしまったのは、涙を堪えるためにきゅっと唇を結ばなければいけなかったからだ。
 はやっと、自分の足が地についていると思えた気がした。



 手を繋いで、すこし前を歩く爆豪の髪が夕日色に染まっている。
 夕焼けのおかげで、の顔が赤くなっているのも、ちょっとくらいは誤魔化せるだろうか。

 の家に着くまで、碌に会話はなかった。けれど、この沈黙は、不思議とちっとも気まずくない。
 律儀に部屋の前まで来てくれた爆豪が、ずいと買い物袋を差し出す。

「ごめんね、重かったでしょ。ありがとう」
「重くねぇわ」
「あと、いつも送ってくれてありがとうね」

 へへ、とは照れ笑いをして、気恥ずかしさからくるりと背を向けてドアノブを握る。が、ノブを回す前に、爆豪の手が重なって動かなくなる。



 すぐ後ろに爆豪の存在を感じて、は身を強張らせた。振り向くことができない。

「体育祭の記憶、マジで消しとけよ。おめでとうとか二度と口にすんな。胸糞悪ぃ」
「わ、わかった。わかったから、離して……」

 爆豪の声が耳元で聞こえて、心臓に悪い。

「…………」
「か、勝己くん?」
「……クソが」
「へっ?」

 黙り込んだかと思えば、悪態をつかれ、には訳がわからない。
 爆豪の手が離れる。はようやく振り返ったが、すでに爆豪は背を向けていた。

「えっ、勝己くん、ちょ」
「じゃーな」
「あ、うん。ばいばい……」

 反射的に手を振るが、爆豪はそのままずっと背を向けたまま、振り向くことはなかった。は首を傾げながら、ドアノブを捻ったのだった。

それは、悔しさの色