「勝己くん、この前のお金返すね」
「は?」

 時間が経ってしまったせいか、爆豪は何のことかわからないとばかりに、思いきり顔を歪めた。返せと言ったのは爆豪なのに、と思いながら、は鞄から財布を取り出す。

 あのあと、しっかり家まで送ってくれた爆豪は、驚くことに「コンビニで立ち話してたらこんな時間になってしまって、すんません」と、母親に頭を下げてくれた。
 爆豪があの夜を忘れてしまっても、は忘れない。

「いらねぇよ、奢りだ奢り。たった100円ぽっちだろうが」
「返せって言ったの、勝己くんでしょ」
「知るか。いらねぇったらいらねーんだよ」

 吐き捨てるように言った爆豪に背を向けられて、は手にした財布を再び鞄にしまった。こうなってしまえば、きっと爆豪は受け取ってくれない。

「……なんか、大変だったみたいだね」

 こんなふうに、他人事みたいな言い方しかできない自分が、いやだった。
 昔は──出久とが揃って初めて、ひとりのような気さえしたのに、いまではまるで他人事だ。のあずかり知らぬところで、出久は危険な目に遭っている。

 雄英高校に入学してから、出久は怪我が絶えない。「大丈夫だよ」と笑うばかりの出久を前に、は母親と一緒になって心配することしかできない。

「勝己くんは、怪我しなかった?」

 雄英高校のヴィラン連合襲撃事件は、ニュースでも大々的に報道されている。

「デクと一緒にすんな」
「そうだよね。勝己くん、強いもんねえ」

 はうんうん、と頷く。
 小さい頃から爆豪を知っているのだから、その個性だってよく知っているのだ。
 背を向けて歩き出した爆豪のあとを、は追いかける。が、爆豪がぴたりと足を止めたので、は鼻先を背中にぶつけてしまった。

 は鼻を押さえながら、爆豪に非難がましい視線を向けた。

「つーかよ、お前またこんな時間に何ほっつき歩いてんだよ」
「コンビニに行こうと思って」
「…………」
「きょ、今日はちゃんとお財布持ってるもん」

 じろりと睨まれて、はうっと言葉を詰まらせる。

「勝己くんもコンビニ行くなら、わたしに奢らせて。奢られっぱなしっていうのも、何だか気持ちが悪いし」

 は爆豪の横を通り抜けて「あ、でもあんまり高いのはなしね」と、笑った。
 爆豪が呆れた顔で歩き出す。

「行くなんて言ってねーだろ」

 すげなく言いながらも、爆豪がの隣に並んだ。


 沈んだ顔をして部屋から出てこない出久に、はどう声をかけたらいいのかわからなかった。こんなことは、生まれてから初めてだった。
 母親が出久を励まそうと張り切って作ったかつ丼が、全然喉を通らなかった。

 残してしまって申し訳なかったな、と今さら思うし、そのせいでこんな時間におなかが空いてしまった。
 爆豪が興味なさげに棚を見ている隣で、はおまけのついたお菓子を手に取る。小さなヒーローのフィギュアがついていて、いかにも子ども向けではあるが、出久はきっと気にいるだろう。ヒーローオタクだ。

「ねえ、勝己くん。辛いの好きだったよね」
「あ?」
「あの辛い肉まん買ってあげるから、ちょっと海浜公園に行かない?」

 爆豪の顔には「いやだ」と、でかでかと書いてある。それを知りながら、は爆豪の手を引いてレジに向かい、期間限定のピリ辛肉まんと、自分用のふつうの肉まんを購入する。
 受け取ったレジ袋を爆豪にひったくられて、は目を丸くする。

「行くならさっさと行くぞ」
「うん。あ、お母さんにメールしておこっと。勝己くんが一緒なら安心すると思うし、また泣かれても大変だから」

 そう、あのときは出かけることも告げずに家を出てしまったせいで、心配した母親を泣かせてしまったのだ。メールを送信して顔をあげると、爆豪が何とも言えない顔をしていた。

「勝己くん?」
「……俺と一緒で安心すんのかよ」
「え? なんで? 勝己くん、すっごく頼りになるよ」

 はきょとんと瞳を瞬く。
 途端に爆豪が顔をしかめ、舌打ちをした。

「えっ、どうして怒るの?」
「怒ってねぇよ、呆れただけだ」

 はっ、と嘲笑した爆豪が、おもむろにの手を握った。「例えばこの手、てめェに振り解けんのか」と、爆豪が目を細める。
 は腕に力をいれてみるが、びくともしない。
 自分の手をすっぽりと包む大きな手を辿って、爆豪の上腕へと視線を移す。服越しでも、鍛えられた二の腕であることがわかった。それに比べて、の腕のなんと貧弱なことだろう。

「無理だよ」

 は首を横に振って答える。爆豪の唇は不機嫌そうに一文字に結ばれて、開かれる気配がない。
 もう一度、は繋がれた手へ視線を落とした。

「……勝己くんの手、相変わらずあったかいね」

 ふふ、と笑みがこぼれる。
 深くため息を吐いた爆豪が、の手を離した。

「てめェの頭は花畑か」
「やだな、勝己くんてば。お母さんもわたしも、勝己くんと一緒なら安心するに決まってるじゃない」
「はっ、おめでてぇな」
「だって勝己くんはヒーローだもん」

 ほざいてろ、と悪態をついて、爆豪がスタスタと歩き出す。その背中を見つめていると、爆豪が首を回して振り返った。

「さっさと行って、さっさと帰んぞ」

 そう言うが否や、爆豪が駆け出す。は慌てて走り出し、爆豪を追いかけた。





 だいぶ前を走る爆豪の姿は、遠ざかることはなかったが近づくこともなかった。

 ヘロヘロになりながら海浜公園に着いたを「体力ねぇな」と、爆豪が呆れ顔で見下ろす。
 ふつうだと言い返したかったが、息切れと脇腹の痛みで声がでない。恨みがましく見やった爆豪は息のひとつも切れていないし、涼しい顔をしている。

「ベンチに座ってろ。自販機で茶ァ買ってくる」
「うん……」

 爆豪からコンビニ袋を受け取り、はふらふらとベンチに向かう。腰を下ろして袋の中身を確認すれば、肉まんはまだほんのりと温かかった。
 ふっと目の前が翳って、爆豪が戻ってきたのだとは顔をあげた。

「肉まん食べ、よ……」

 ぎくりと身体が強張る。
 視線の先には見知らぬ男が二人、立っていた。

 爆豪ではないと気づいて、はベンチから腰を浮かしたが、男の手が肩を押さえた。

「肉まん? いいね、美味しそう」
「俺にも一口ちょーだい」

 を挟んで、男たちがベンチに座る。は肩を掴む手を払った。

「あげませんけど」
「えー? 冷たいなあ」
「ねえ、汗かいてるけど暑い?」

 男がニヤニヤと笑って顔を近づけてくる。額に浮かぶ汗を拭おうと伸びた手から逃れるため、は俯く。左右から距離を詰められて、身動きが取れない。
 煙草と酒の匂いが、身体に染みつくような気がした。
 は不快感に顔をしかめる。

「……おい、ちょっと目ェ離しただけでコレか」

 地を這うような声だった。
 ペットボトルのお茶を二本手にした爆豪が、仁王立ちしている。その恐ろしい形相に、男たちのみならず、まで思わず「ひっ」と飛び上がった。

「な、なんだよお前!」
「俺たちが先に声かけたんだぞ」

 チッ、と爆豪が腹立たしげに舌打ちする。

「勝己くん、」

 爆豪の手がの手を掴み、ベンチから無理やり引っ張り上げた。がさりと肉まんの入った袋が音を立てる。
 よろけたにペットボトルを押しつけると、爆豪は好戦的に口角を上げた。

「ウゼェな。やんのか? あ?」

 爆豪がちょっと凄んだだけで、男たちは尻尾を巻いて逃げていった。



 ため息交じりに名前を呼んで、立ち尽くすの腕を爆豪が掴む。びくっ、と反射的に肩が跳ねて、震えた手からペットボトルがぼとりと落ちた。拾わないと、と頭では思うのに、の身体はすこしも動いてくれなかった。
 視線だけで転がるペットボトルを追いかけていたら、その視界があっという間にぼやけた。

「あーーークソッ!!」

 爆豪の苛立たしげな声が、あたりに響く。
 ぐ、と腕に爆豪の指がわずかに食い込んだ。痛みを覚えた瞬間にの身体は傾いて、爆豪の胸に顔がぶつかる。

「……ひとりにして悪かった」

 なだめるように大きな手が背を叩くから、爆豪の胸元は見る間に濡れて色を濃くしたのだった。



「肉まん、冷めちゃったね……」
「…………」

 公園でのんびり食べる予定だった肉まんを、帰り道をとぼとぼと歩きながら口にする。まだほんのり温かい状態を食べれると思っていたのに、あの男たちのせいで台無しだ。

 隣を歩く爆豪は何も言わない。
 機嫌を損ねてしまったのは目に明らかで、ちょっとでも場を和まそうとは話題を振るが、まるでなしのつぶてだ。は大人しく、冷めて硬くなってしまった肉まんを、もそもそと食する。これまで食べた肉まんの中で、いちばん美味しくなく感じたのは、気まずさのせいだろうか。
 泣きすぎて瞼が重い。足取りも重い。

 結局、大した会話もないまま家についてしまった。はそろりと爆豪を見上げる。

「なんか、色々とごめんね」
「……部屋の前まで送る」
「えっ、いいよ。今日は挨拶なんていらないし」
「うっせ」

 を無視して、爆豪がスタスタと階段を上っていく。「ま、待ってよ。勝己くん」と、は慌てて爆豪を追いかける。
 ドアの前までくると、爆豪が早く入れとばかりに顎をしゃくった。

「勝己くん、ありがとう。おやすみなさい」

 はドアノブに手をかける。ちら、とドアの隙間から見えた爆豪の顔は、呆れたような怒ったような──形容しがたいものだった。

「これに懲りたら、フラフラすんじゃねェぞ」

 ドアが閉まる瞬間に、爆豪の声が滑り込んでくる。
 うん、と頷いて答えた声は、ドアが閉まる音に紛れて爆豪には届かなかったかもしれない。

 鍵を閉めて振り返ると、出久がすぐそこで固まっていた。

「あれ、お兄ちゃん」
「えっ、え、エエッ? い、いまのって、かっちゃん……」
「うん、そうだよ」
「な、なんでがかっちゃんと?」

 出久の驚きように、は首を傾げる。

「そんなに変? 勝己くんは、わたしの幼なじみでもあるんだけど」
「……そりゃ、そうだけどさ」

 出久が腑に落ちない顔をして呟く。昔のように遊ぶことはなくたって、幼なじみは幼なじみである。互いによく知る存在で、近しく思うのには変わりない。

「ていうか、その顔……」
「あ、そうだ。これお兄ちゃんにお土産」

 出久の言葉を遮って、はくしゃくしゃになった袋から、コンビニで買ったお菓子を取り出す。

「オールマイトが当たるように祈っといたよ」

 お菓子を受け取った出久の瞳が輝く。
 はそれを見てほっとして「ただいま!」と、朗らかに笑った。

それは、落涙の味