おめでとう、と伝えたときに、うまく笑えた自信がにはなかった。
いつから出久はに秘密を作るようになったのだろう。たったふたりの兄妹。おなかの中から一緒だった二卵性双生児。
昔から、人一倍ヒーローになりたいことは知っていた。
けれど無個性である出久が、ヒーローになれるわけがないということも、は知っていた。出久には無理だ、とその言葉をは口にしたことはない。それがどれだけ出久を傷つけ、しいては母親を悲しませるか、痛いほどわかるからだ。
三月の風が頬を撫でて、は肩を竦ませた。
春が近いとはいえ、夜はまだ肌寒い。
「……雄英高校、か」
出久がヒーロー科を受験すると聞いたとき、いわゆる記念受験みたいなものかと思ったのだ。それなのにまさか、あの爆豪とともに合格するなんて、びっくりしすぎてはすぐに事態を呑み込めなかった。
小学校も中学校も、高校も、出久と同じところに通うのだと、信じて疑わなかった。
同じだった背丈が、いつの間にか追い抜かれてしまっても、出久がを置いて行ってしまうことなどないのだと──
「オイ、こんな時間に何フラフラしてやがる」
ぐっ、と手を掴まれ、後ろに引っ張られる。
大きくて分厚いその手は、ホッカイロのような温かさを持っていた。冷えた指先がじんわりと温まるのを感じながら、は振り向いた。
見慣れた顔が、を睨んでいる。言い方はあれだけれども、夜にひとりで出歩くを見かねて声をかけてくれたのだろう。爆豪は、近寄りがたい不良のようで、案外面倒見がよい。
「勝己くん……こんばんは」
「……チッ」
舌打ちとともに、爆豪が荒々しく手を離した。
幼なじみの爆豪勝己とは、中学に入ってからは碌に話をしたことがない。クラスも違うので、顔を見ることもあまりない。
直近で言葉を交わしたのは、出久が雄英高校を受験すると知って「デクの馬鹿をどうにかしろ」と恫喝されたときだろうか。どうにかしろと言われても、とは困惑した。に出久の意志は曲げられない。
「で?」
目つき悪く凄まれようと恐ろしくないのは、もはや慣れっこだからだ。
「あ、えーっと、コンビニに」
そう言ってから、はいましがたコンビニを通り過ぎていたことに気づいた。爆豪の胡乱げな視線が突き刺さる。
が笑って誤魔化すと、爆豪がため息を吐いた。
「行くぞ」
「え、」
爆豪の足はコンビニに向かっていて、は慌ててその背を追いかけた。
歩幅はだいぶ違うはずなのに、小走りですぐに距離が縮まる。は爆豪の後ろ姿を見つめた。出久よりも背が高くて、背中が広い。いつだったか、この背に背負われたような記憶もあるが、あまりにおぼろげで不鮮明だった。
昔は仲がよかった。
けれど、出久が無個性だとわかって、それを爆豪が馬鹿にするようになってから、少しずつ距離ができた。
出久が馬鹿にされると、も馬鹿にされたような気がして、すごく悲しくて悔しくて仕方がなかった。にとって、出久は半身だ。
「あ、お財布忘れちゃった」
コンビニに入ったと同時に呟いたを、爆豪がものすごく嫌そうな顔で振り返った。
「……ん」
何も買えなかったに、爆豪が差し出したのはホットココアだった。が一文無しと知るやいなや、さっさと会計を済ませてしまったので、何かを買ってくれているとは思っていなかった。
は驚きながら、ココアを受け取る。
「ありがとう、勝己くん」
「あとで金返せよ」
「えー……わかった、お兄ちゃんに渡してもらうね」
「は? 舐めてんのか。直接渡しに来ねーと受け取らねぇかんな」
春から同じ高校に通うのだから、顔を合わせる機会はよりも出久のほうが多いだろうに、面倒くさいことを言うものだ。爆豪はそんなに出久を嫌っていただろうかと考えて、ヘドロ事件によって仲が拗れ、出久の雄英高校合格で修復不可能なほどに拗れ切ったのだと思い至る。もっとも、それ以前だって拗れてはいた。
は苦笑を漏らす。
「わかったよ。じゃあ、今度ね」
そう言って頷いたものの、今度がいつになるのか、には想像がつかない。
じっと爆豪に見つめられていることに気づいて、は首を傾げる。
「てめェは知ってたのかよ」
存外、静かに声が発せられた。
は手の内のココア缶を、きゅっと握りしめる。冷えた手のひらにじんわりと熱が移っていく。それなのに、指先からは血の気が引いていくような感覚がした。
「知らなかった」
「……」
「知らなかったんだよ、わたしだって」
爆豪が疑うように片眉を跳ね上げたが、はそう答えるしかなかった。
──出久は個性を得ていた。
出久曰く、突然変異的なものらしいが、いつ個性が発現したのかなどは有耶無耶で詳しいことは教えてくれない。
一番近くで、出久を見てきた。オールマイトに憧れて、無個性と知って打ちひしがれて、それでも諦めずにヒーローについて研究を続ける姿を、は見てきた。
だからこそ、出久がヒーローの卵になれることを、自分のことのように喜べるはずだった。
でも、違った。
「お兄ちゃんは、わたしを置いてけぼりにするんだ」
知らず、いじけたような声が出た。
「Plus Ultra」とばかりに、先へ先へと行ってしまう。
の知らぬうちに海浜公園のごみを片づけてしまったように、出久は何も教えてくれないのだろう。
はずっと出久に寄り添ってきたつもりだったのに、それらすべてを蔑ろにされているような気がする。は、ヒーローに憧れることすら許されなかったのに、とさえ思ってしまう。
「馬鹿か。だったら、追いかけりゃいいだろうが」
爆豪が飲み干したコーラ缶を手で握りつぶし、ゴミ箱へ放った。カラン、と音を立てて、きちんとゴミ箱にゴミが収まる。
はぼんやりと缶の描く軌跡を見つめた。
「それとも、そうやって地団太踏むだけかよ」
「……地団太は踏んでない」
「あっそ。ま、俺には一ミリも関係ねぇけどな」
爆豪が踵を返す。「かっちゃん」と、は咄嗟に爆豪の手を掴んだ。
爆豪にまで置いてけぼりにされてしまうようで、怖くなったのだ。
「あ……」
飛び出た言葉に、は慌てた。かっちゃん、なんて口にするのは何年ぶりだろうか。
爆豪が信じられないものを見るような目で、を見つめる。
「ご、ごめん。でも……」
はあああ、と爆豪が深いため息を吐く。が勢いで掴んだ手を離せずにいれば、逆に爆豪の手に包まれる。
「帰んぞ」
ぶっきらぼうに告げて、爆豪が歩き出す。に合わせた歩幅で、手をしっかりと繋いでくれて、まるで出久よりも兄らしい。
爆豪の手は、ホットココアよりもずっと、温かかった。
この手がくっついて離れなくなればいい。
そんなことを思いながら、は手を握り返す。爆豪の赤い瞳が、ちらりとを一瞥した。けれど、何も言わない。
追いかけて、追いつけるのならいい。
には、もう出久には手が届かないような気がしている。兄のくせ、いつもの後ろをついて回っていた出久は、もういない。
「勝己くんの手、あったかいね」
「……個性だっつーの」
爆豪が呆れたように呟く。
だってそれくらい知っていたけれど、言いたかったのはそういうことじゃない。
気がつけば、冷えていたはずの指先も、すっかり温もっていた。思い出したように飲んだココアは、熱を奪われてぬるかった。