コルセットの締めつけや、重すぎる装飾品から解放された身体が軽い。
倒れるようにベッドに飛び込めば、ふかふかで肌触りのよい布団がを受け止めてくれた。さすがはアカツキワイナリーの客室である。数日前から借りているが、ベッドに入るときにはいつもお日様と葡萄の香りがする。
様々な重圧がなくなって、途端に疲労と酔いがに襲いかかる。このまますぐにでも眠れそうだ。は目を閉じたまま、ごろんと寝返りを打った。
「せっかく、飲み過ぎないよう忠告してやったのに」
「だって、ディルックさんが……」
本気とも冗談ともつかない賞賛を口にするから、飲まなければ平静を保つことが難しかったのだ。
反射的に言い返そうとしてから、ははっと飛び起きた。
ワイナリーのメイド長がの寝支度を終えて退室してから、誰も部屋を訪れてはいない。以外が室内にいるわけがないのに──
「ほう、旦那様が?」
「……どうしてガイアさんがいるんです」
「ここは、俺の家でもあるからな。別に何も不思議じゃない」
さも当然、といった顔をするガイアを、は胡乱な目で見た。
いかに家人とはいえ、使用中の客室に押し入るのは如何なものか。しかも、もう就寝の準備も済ませた異性の部屋である。騎士としてあるまじき行為だ。
「それで睨んでいるつもりか?」
す、と伸びてきた指先が輪郭をなぞる。ひやりと冷たいような気がするのは、の身体が火照っているせいだろうか。それとも彼が、氷の神の目を持っているからだろうか。
酔いが回った頭では判別がつかない。頬に触れた手のひらの心地よさに、は思わず目を閉じた。
「…………相当、酔ってるみたいだな」
ガイアの呆れた声が降ってきて、は重い瞼を押し上げた。
「ディルックを出し抜いてやろうと思ったが、」
「出し抜く……」
「これじゃあ、覚えているかどうかも怪しいな」
ガイアの言葉の意味をいまいち理解できないまま、はぼんやりと隻眼を見つめた。室内の薄暗い橙色の明かりを受けて、氷を思わせる色がわずかに温かみを帯びている。
「なあ、。なんでディルックのパートナーなんかになったんだ?」
「……? 依頼されたからです」
「お前、依頼って言われたらどんな内容でも受ける気か?」
やれやれ、とガイアがわざとらしくかぶりを振る。右目にかかる長い前髪が動きに合わせて揺れた。ふと、そこにある眼帯が目に留まって、は手を伸ばしていた。
指先が眼帯に届く前に、ガイアに手を握られる。
「どうせなら、忙しい騎士団を手伝ってほしいもんだ。お前も知ってるだろ? いまの騎士団は……」
「お断りします」
西風騎士団の状況は、もちろんわかっている。けれど、の答えは決まっているし、変わることはない。
「わたしは、ただの冒険者です。騎士団のお力にはなれません」
「相変わらず、つれないな」
伽羅色の指先がゆっくりと、の指を絡めとる。その手を振り解く間もなく、ガイアがをベッドへと押し倒した。やわらかい布団がの身体を包む。
ガイアの垂れた髪が、瞼をくすぐって、頬に落ちる。は身を捩った。
つい、とガイアの人差し指が鎖骨を撫でる。
「……僕のパートナー、ね。金にものを言わせておいて、笑わせてくれるぜ」
「まあ、そんな言い方」
「事実だろう? 依頼と言えば断らないと踏んで、あいつはお前の善意につけ込んだんだ。悪い奴だ」
フン、とガイアが不快そうに鼻を鳴らす。
モンドのほとんどの人は、ディルックを悪く言うことはないだろう。
義理とはいえ、以前は仲の良い兄弟だったはずだが──ガイアとディルックは、何かにつけて反目し合う。”ここは、俺の家でもある”と言いながら、ガイアはアカツキワイナリーに近づきたがらない。
は、彼らの詳しい事情を知らない。
眼帯に隠れたガイアの右目だって、一度だって目にしたことはない。
「ガイアさんだって、夜更けに女性の部屋に押し入る”悪い奴”じゃないですか」
肌を這うガイアの手を払い除けながら、は口を開く。絡んだ指が離れないのは、酔いと眠気で力が入らないせいだろうか。
隻眼を一瞬だけ瞠目させたガイアが、ふっと息を吐くように笑みを零した。自嘲にも苦笑にも似ていた。
「そんなこと知っているさ」
囁き声が落ちてくる。
ぎゅうとガイアの指先に力がこもるのがわかった。おもむろに、手が持ち上げられる。
あ、と思ったときには、ちゅっとリップ音が聞こえていた。その行為は、ディルックがしたものと同じだったが、仕草は別物だった。は身を起しかけるが、ガイアに視線で制される。
「ガイアさん……」
「安心しろよ。いくら俺が悪人だろうと、寝込みを襲うような真似はしないさ」
「…………」
もうすでに襲われているも同然では、とはガイアを睨んだ。
「やめておけ。その顔は、男を煽るだけだ」
ガイアの手のひらが、の瞼を覆う。「おやすみ、」と、その声は一等やさしく響いた。ガイアがどんな顔で言ったのか気になるが、閉じた瞼はもはや持ち上がってはくれなかった。
入ったときと同様、窓から外に出る。降り立った先では、ディルックが待ち構えていた。それを予想していたガイアは驚くでもなく、口角を上げた。
「おやおや……パーティーで疲れているだろうに、まだ起きていたのか?」
「不届き者がいるようだったのでね」
夜色に染まる瞳は、燃えるような温度をもってガイアを射抜いた。
ディルックの怒りが相当なものだと気づいて、ガイアは素早く両手を挙げた。斬り捨てられては堪らない。
「手は出していないぞ」
「……そんなことは聞いていない。そもそも、部屋に入ったことが問題だ」
「そんなこと? 強がるなよ、そこが一番気になるはずだぜ」
ディルックが不快そうに舌打ちする。こんな姿は、滅多にみられるものではない。恐らく、パーティー会場でディルックの仕草にいちいち頬を赤くしていたご令嬢たちは、ひとりだってディルックのこんな一面を知らないだろう。
フフン、とガイアはせせら笑った。
「ま、パーティーが終わっちまえば、お前はのパートナー面もできやしない」
「…………」
「だいたい、完璧な貴公子にパートナーなんか必要ないだろ? 旦那様は仕事と結婚したんだから」
「相変わらず、よく回る口だ」
ディルックがため息交じりに呟く。
「僕が気に食わない、とはっきり言えよ。婉曲的では、伝わるものも伝わらない」
「へぇ、いいのか? お坊ちゃんには、ちょっときついかもしれないぜ?」
そう揶揄って、ガイアは笑みを消した。
ディルックのほうは知らないが、ガイアは別に彼を嫌っているわけではなかった。ディルックを傷つけたり、邪魔立てするのはガイアの本意ではない。
けれど、今回のことに、ガイアはひどく腹を立てていた。
「お前にとっては、体のいい女除けになるかもしれんが、が迷惑を被るとは考えなかったのか? 女の恨みは恐ろしいぞ?」
「……体のいい女除け? 僕は彼女をそんなふうに利用したつもりはない」
「はっ、無自覚とは余計にたちが悪い。お前にその気がなくたって、傍から見ればそうとしか思えないさ。にとって、今夜のことは仕事でしかないんだぜ」
ガイアはゆったりと距離を詰めて、間近で視線を交わす。ディルックの大きな瞳は、まるでの胸元に輝いてた宝石のようだった。
身体のどこかが、焦げつくような心地がした。
綺麗に着飾ったを誰の目にも触れさせたくなかった。当たり前のように手を取って、腰を抱くディルックが許しがたかった。この怒りの根底にあるのは、嫉妬であるとガイアは理解している。
「それで? 君に何の関係がある?」
「……なに?」
「はっきり言えと言ったはずだ。が迷惑を被ることは、君には関係ないと思うが?」
「おい、ディルック──」
ガイアの手がディルックの肩にかかるところで、ふいにランタンの明かりが二人を照らした。
「こんな夜更けに人影があると思ったら、お二人でいらしたのですね」
アデリン、と思わずディルックと声が重なって、ガイアは眉をひそめた。ちら、とガイアを見やったディルックの視線がすぐに外される。
「もう夜も遅いのですから、お二人ともお休みください。もちろん、お部屋をご用意いたしますから、ガイア様もこちらでお休みくださいね」
「いや、俺は……」
「ガイア様? まさかこれからモンド城に戻られるなんておっしゃいませんよね?」
メイド長ににこりと微笑みかけられて、ガイアは口を噤む。ディルックも沈黙したままだ。
幼い頃から世話になったワイナリーのメイド長には、ガイアもディルックも頭が上がらないのだ。ガイアはため息を吐いて、メイド長のあとに続いた。
「……アデリンには敵わんな」
光栄です、とメイド長がくすりと笑って、立ち尽くすディルックを促した。
朝食まで付き合うつもりはなかったのだが、メイド長に悲しげな顔をされては、ガイアとて無下にはできなかった。
ディルックと食卓を囲むガイアを見て、が「まあ、ガイアさん?」と驚いた顔をする。その顔色はよく、上質な酒のおかげか二日酔いの様子もない。昨夜の記憶を失くしたわけでもなさそうだが、ガイアに対する態度はいつも通りである。
少しばかり残念な気もするが、ディルックに対しても同様に、いつもと変わらぬ態度で接している。
「おはようございます」
のやさしい笑みとやわらかい声は、ガイアとディルックの間にある張り詰めた空気を、ほんのわずかに和らげてくれる。
「おはよう、。昨日はありがとう」
「いえ、こちらこそ。美味しいお酒をいただけましたし、貴重な体験をさせてもらいました」
「だが、もう二度とごめんだろ?」
ガイアは笑って、の顔を覗き込む。頷いてほしいところだったが、ディルックの手前気を遣ったのか、は苦笑を漏らすのみである。
「食事にしよう。騎士団も忙しいんだろ、油を売っているわけにもいかないはずだ」
「ディルックさんもお忙しいですものね」
「僕のことは気にしなくていいよ。、君は疲れているだろうし、ゆっくりしてくれていい」
ガイアのことはさっさと追い払おうとしておきながら、には随分とやさしい言葉をかける。ガイアは頬杖をついて、ディルックを見つめた。しかし、ディルックは一瞥すらもくれない。
「でも、ディルックさんにもアデリンさんにも、お世話になりっぱなしで……」
「お気になさらないでください」
食事を並べながら、メイド長が微笑む。
「さんは大事な……特別なお客さまですもの」
ガイア隊長も、とその微笑みを向けられて、ガイアは咄嗟に目を逸らしてしまう。このメイド長が、ガイアとディルックの関係にどれだけ気を揉んでいるか知っているからこそ、気まずくて堪らなくなるのだ。
まあ、とすぐ傍らから声が上がる。
「ガイアさんもそんな顔をされるんですね。いつも飄々としているので、何だか新鮮です」
がくすくすと笑う。
ガイアは頬杖をついたまま、片手をその顔へと伸ばした。ディルックが顔色を変えて腰を浮かしかける。
「昨夜のお前も、新鮮で刺激的だったぜ?」
鼻先を指先でちょんと弾く。
ガイアの言う”昨夜”が、パーティーのことだったのか、寝る直前のことだったのかわからなかったのか、瞳を瞬いたの頬にさっと赤みが差した。
ガタン、と音を立ててディルックが立ち上がった。が瞠目する。
「ディルックさん?」
「……、やはり彼には帰ってもらったほうがいいようだ」
「え? でも……」
が困惑した顔で、メイド長を見やる。その視線の先を追って、ディルックが静かに腰を下ろした。
「意地悪を言わないでくれ、旦那様。俺は、のドレス姿を褒めただけだぜ」
ディルックに睨まれたガイアは、肩を竦める。
が赤くなった頬を押さえながら、ほっと息を吐いている。その可愛い様子に笑みが漏れそうになるが、ガイアはそれを噛み殺した。これ以上ディルックを怒らせては、本当に屋敷から叩き出されかねない。
「さて、冷める前に食べようじゃないか」
ガイアはぱちんと手を打って、ナイフとフォークをとった。