「?」
芳しい香りを胸いっぱいに吸い込んでいたら、怪訝そうに名を呼ばれ、は振り返った。「まあ、ディルックさん」とは目を丸くしてから、ここは彼がオーナを務めるワイナリーなのだから、ディルックがいても何ら不思議ではないと気づく。
やさしくそよぐ風に赤い髪を揺らしながら、ディルックがこちらへと足を踏み出した。
「お久しぶりです」
「ああ、そういえばしばらくモンドを空けていたんだったな」
「はい。でも、やっぱりモンドが懐かしくなってしまって。蒲公英酒が美味しすぎるせいですかね」
が冗談めかして笑えば、ディルックがわずかに表情を緩めた。ディルック自身はあまり酒が好きではないようだが、彼はときに”エンジェルズシェア”でバーテンダーとして酒を振舞う。
「……ならば、ぜひエンジェルズシェアに足を運んでくれ」
「もちろんです」
は笑って頷いた。言われずとも、夜になれば顔を出すつもりだったのだ。
エンジェルズシェアの薄暗い店内、様々な酒の香り、人々の喧騒──その映像が鮮やかにの脳裏に蘇った。それほど酒に強くないにとっても、モンドの美酒は別格である。
「お邪魔してすみませんでした。葡萄畑が見えたので、つい足が伸びてしまって」
ディルックはと違って、ふらっと旅をできるほど暇ではない。
それをわかっているから、は彼をこれ以上留めるべきではないと判断した。
「寄っていくか?」
「え? いえ、そんな」
「僕が誘っているんだぞ」
ディルックが少しだけ呆れたふうに言って、腕を組む。
彼でなければ、なんて傲慢な物言いだと腹を立てていただろうか。否、彼であったとしても傲慢な物言いであることには変わりがない。けれどは腹を立てることなどなく、小さく笑みをこぼした。
「まあ、いいんですか? では、お言葉に甘えて、お茶を一杯だけお願いします」
がそう言うと、ディルックがほんのわずかに口角を上げた。
ソーサーにカップを戻す仕草ひとつとっても、ひどく洗練されていた。思わず見惚れてしまって、の視線に気づいたディルックが不思議そうに瞳を瞬く。揺れる睫毛が長い。
「さすがは完璧な貴公子、見惚れてしまいました」
「……やめてくれ」
ディルックがいやそうに片手を振る。
「見惚れるところは他にあるはずだ」
挑発するように、ディルックの瞳が細められる。黄昏色の瞳にじっと見つめられて、は瞠目して思わず「まあ」と唇を押さえた。貴公子然とふるまっているのはディルックなのに、それほど厭うことだろうか。
ディルックを褒めたたえる言葉は恐らく、ごまんとある。
モンドの大富豪、完璧な貴公子、完全無欠の紳士──は少しだけ考えるそぶりを見せながら、口を開いた。
「ディルックさんの……モンドを愛し、大事にしているところが、わたしは好きです」
決してそれを口にも態度にも出さないけれど、彼は確かにモンドの守護者だ。
カチャ、と小さく音が鳴った。それがディルックの手元から聞こえたと知って、は首を傾げる。
「ディルックさん?」
「……あまり、揶揄わないでくれないか。僕にはうまい返しなどできないさ」
「揶揄ってなんて、」
「…………」
ディルックの唇が不機嫌そうに結ばれてしまう。
苦笑したワイナリーのメイド長がディルックのカップに紅茶を注いで、去り際に「照れていらっしゃるんですよ」とに耳打ちしていく。
「アデリン」
低い声に咎められてなお、メイド長は笑みを崩さなかった。
はぱちぱちと瞳を瞬いて、ディルックを見た。伏せられた瞳は、睫毛によって隠されている。
端正な顔立ちに表情はほとんどなく、ともすればよくできた人形のようでもあった。の目にはどう見ても照れているようには思えなかったが、当然ながらワイナリーのメイドのほうがディルックとの付き合いは長い。
不躾に見つめ続けるわけにもいかず、は視線を外して紅茶に口をつけた。
「ところで、君はしばらくモンドに滞在するつもりかな」
「はい、その予定です」
そうか、と頷いたディルックが瞼を押し上げた。ディルックの視線は、その瞳の色ゆえか、ときに肌を焦がすような錯覚に陥る。
「君に頼みがある」
「まあ、わたしにですか?」
の声音にはつい、あのディルックがという驚きが混じる。
「……ワイナリーでパーティーが開催されるのは知っているだろう? 君に、僕のパートナーをお願いしたい」
相槌を打っていたは、思わず動きを止めてディルックを凝視した。
「ぱ、パートナー? ディルックさんの?」
「もちろん、報酬は出そう」
「そういう問題──」
「君は」
ディルックがの言葉を遮る。
向かいに座るディルックがわずかに身を乗り出して、とんとテーブルを人差し指で叩いた。
「モンドの人からの依頼は、どんなものだろうと断らない。そうだろう?」
ふ、とディルックが息を吐くように笑った。それは確かな事実である。言葉に窮したは視線を彷徨わせた先に、微笑ましげなメイド長を見つける。残念ながら助け舟は見込めない。
「……わかりました」
「あら、ではドレスをお仕立てしなければなりませんね!」
ぱちん、とメイド長が手を叩いて、ウキウキと言った。ディルックがそれを咎めることはなかった。
あれよあれよと迎えたパーティ当日、は鏡の前で立ち尽くしていた。
メイド長によって綺麗に化粧を施された顔は、戸惑いに満ちている。
「あ、あの、アデリンさん……わたし、いったいいくらのモラを身に着けているのでしょう……」
オフショルダーのイブニングドレスは、上質な布で作られたことがよくわかる手触りをしている。大きく開いたデコルテには、これまた大きな宝石が鎮座するかの如く輝いていた。
一見地味なグレーのドレスは、光の当たり具合で煌めいて見えたし、宝石をよく際立たせた。
ディルックの髪や瞳と同じ色──ネックレスがひどく重たい気がして、を落ち着かない気持ちにさせる。万が一、紛失でもしたら、が一生働いても返すことは叶わないだろう。そもそも、このドレスだってには想像がつかないほどのお金がかかっているはずである。
鏡越しに目が合ったメイド長が、くすくすと笑う。
「よくお似合いですよ」
「そ、そうですか? わたしには、ドレスや宝石に着られているような気がしてなりません」
「すべて、ディルック様自らがさんにお選びになったんですよ」
「似合わないわけがありません」と、メイド長が胸を張って宣言する。
「ディルックさんが……?」
彼がそんなことに時間を割くようには思えなかったし、興味の欠片もなさそうである。メイド長がやさしく目を細めた。
「ディルック様をお願いしますね」
「こちらこそ、不慣れな場なのでよろしくお願いします」
「もちろんフォローさせていただきます。でも、基本的にはディルック様のお傍にいればよろしいと思いますよ」
コンコン、とノックの音がして、は振り返った。
メイド長がドアを開けると、正装したディルックの姿があった。近づいてくるたびに緊張が高まって、は自然と背筋を伸ばす。
す、と流れるような仕草でディルックの手が差し出される。は一拍遅れて、手を重ねた。
「ふ……緊張しているのか?」
「当たり前じゃないですか。わたしがパートナーだなんて、石を投げられるかもしれません」
「……? 何故だ?」
「ディルックさんはモンドの大富豪で、見目麗しい貴公子ですよ。わたしでは釣り合いが取れません」
ディルックの立てた肘に腕を絡めながら、は答える。
「君は美しく、強い。釣り合いなら十分過ぎるよ」
冗談かと思ったが、ディルックの顔は真剣そのものだった。黄昏色の瞳にの呆けた顔が映っている。
アカツキワイナリーのメイド長に磨き上げられ、確かに美しく仕上がってはいる。最高級品のドレスと宝石によって、着飾られてもいる。けれどもやはり、はである。ディルックの隣に並んでは、見劣りして当然だ。
「真面目な顔でそんなことをおっしゃっていたら、勘違いされますよ」
ふむ、とディルックが顎先に指を添える。
「笑って言えばいいのか?」
「もっとだめです」
間髪入れずに返せば、傍らに控えるメイド長が小さく笑った。ディルックがそれを横目に、不服そうに鼻を鳴らした。
パーティ会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。しかし、ディルックが視線を走らせるだけで水を打ったように静まり返る。
そっと窺い見たディルックの口元には笑みが浮かんでいるが、その瞳は冷え冷えとしていた。
「皆様、当家のパーティーへようこそいらっしゃいました。我がアカツキワイナリーの誇る美酒を用意してあります。存分に味わい、楽しいひとときをお過ごしください」
ディルックがグラスを掲げ「乾杯」と、囁くように告げた。ほう、とどこからともなくため息が漏れる。彼は、疑いようもなく完璧な貴公子だった。
掲げられたグラスが差し出されて、は手にしていたグラスを合わせる。冷え冷えとしていたはずの瞳が、ふっと緩んだ。
「思ったより、堂々としているね」
「まあ。わたしが震えて逃げ出しても、よろしいんですか?」
「君のそんな姿は想像がつかないが、もしも君が震えるようなことがあれば、僕が全力で守ろう」
は思わず、口を噤んでディルックを見た。真面目な顔をしている。
潜めた声は互いにしか聞こえず、側からみればひどく親密に見えるだろう。ふいに、ディルックの手が腰に回って、を抱き寄せた。執事がさっとグラスを回収する。
「さて、すでにご理解いただいているとは思いますが、今宵僕のパートナーを務めてくれる女性です。興味がおありでしょうが、どうか失礼のないようお願いします」
はメイド長に教わった通り、ドレスの裾を摘んで丁寧にお辞儀をした。「うん、上出来だ」と、ディルックが呟くように言って、に微笑みかけた。まだ酒は口にしていないのに、酔ってしまったような心地になって、は慌ててかぶりを振る。
ディルックが不思議そうにを見ていた。
「モンドでは名のある冒険者とはいえ、ディルック様にはふさわしくありませんわ」
「これ見よがしにディルック様の色を身に着けて……」
「いったい、どうやってディルック様に取り入ったのかしら?」
「ディルック様は騙されているのでは? わたくしたちには、取りつく島もありませんのに」
ディルックが席を外した途端にあからさまな嫌味が聞こえてきたが、は素知らぬ顔でグラスに口をつけた。しかし、ふいに伽羅色の指がそれを攫った。
「あまり飲み過ぎるなよ?」
「ガイアさん」
パーティーには西風騎士も招待されているから、騎兵隊長がいても不思議ではないのかもしれなかった。
「いやあ、どこぞのお嬢さんかと思ったぜ。しかし、モンドに戻っていたのに挨拶のひとつもないとは、冷たいもんだな? 」
「……わたしにも事情が──」
「僕のパートナーに何か用かな、騎士団のガイアさん」
いつの間にか戻っていたディルックが、の肩を抱きながら言った。ガイアが隻眼を細める。
嫌味を囁き合っていたご令嬢たちが小さな悲鳴を上げて、蜘蛛の子のように散っていった。は肩に置かれた手に視線を落としてから、ディルックを見上げた。
「やはり、ひとりにするべきではないな」
「まあ、そんな。大丈夫ですよ」
「君が大丈夫だとしても、僕がいやなんだ。特に……彼にちょっかいを出されるのは我慢ならない」
ディルックに睨まれたガイアが、わざとらしい仕草で肩を竦める。
「おやおや、ずいぶんと狭量じゃないか」
「何とでも言え」
ふい、とディルックが顔を背ける。もはやガイアと口を利くつもりもないらしい。
会場で給仕するメイド長が心配そうにこちらを見ていることに気づいて、は慌てて口を挟んだ。
「ディルックさん、あの」
炎の色と氷の色が同時にに向いた。
「踊りませんか?」
会場に流れるワルツを耳が捉えて、咄嗟にはそう口走っていた。ディルックに手を取られてから、は自身に踊りの経験がほとんどないことに気がついたが、何もかもが遅かった。
メイド長によって、最低限の立ち居振る舞いは叩き込まれ、ダンスも習ってはいたが所詮は付け焼刃である。
足を踏むことなく踊ることができたのは、ディルックのリードのおかげに他ならない。
ご令嬢の妬み嫉みの視線も気にならないほど、は踊ることに集中していた。だから、ディルックに抱き寄せられた際に、唇がほとんど耳に触れていたことに気づかなかった。
「気を遣わせてしまってすまない。ただ、指の先でも触れることを許したくない」
「え……」
「今夜だけは、君は僕のパートナーなのだから」
驚いて顔をあげた先、真摯な瞳がすぐそこにあった。
は慌てて目を逸らす。そのまま見続けていれば、その視線の熱に溶けてしまいそうだった。
動揺でステップを踏み間違えるが、ディルックがそれに合わせてくれる。おかげで、ディルックの足を踏むことも、無様に転びかけることもなかった。曲が終わってはほっと胸を撫で下ろしたが、安心するのはまだ早かったとすぐに知ることになる。
重なっていた手が持ち上げられて、指先にディルックの唇がかすかに触れた。ご令嬢の悲鳴が聞こえるが、だって悲鳴を上げたかった。
「もう一曲、どうかな?」
「遠慮します」
ディルックがくつりと笑う。
手を跳ね除けたかったが、ディルックにしっかりと掴まれてほどけない。はせめてもの抵抗として、赤くなった顔を思い切り背けたのだった。