五条から連絡をもらった時点で、いやな予感はしていた。「はいこれ北海道土産」と、ただいまの一言もなくに押しつけたかと思えば、五条はじゃあと片手を挙げた。曰く、僕まだ高専に戻れないから、と。
「あとは七海、よろしく」
「……は?」
地を這うような七海の声だったが、五条は気にも留めなかった。ぽんと七海の肩を叩くと踵を返し、その長い足で颯爽と空港の雑踏へと消えていく。
まるで嵐が去ったかのようである。
唖然と立ち尽くすは、同じように五条の消えた方向を見つめる七海を見上げ、顔を見合わせた。
「悟さんがすみません……」
「……いえ、桜川さんが謝る必要はありません」
くい、と七海の指先がサングラスを押し上げる。どうしても、眉間の皺が目についてしまう。恐らく、出張先でも五条に多大な迷惑をかけられたに違いない。
はあ、とため息が重なる。
「ほんとうにすみません……」
「君が五条さんの尻拭いをする必要はない、と言っているんです。きりがない」
「悟さん、そんなにご迷惑を……」
は七海のストレスを想像して、ちょっぴり青ざめた。はすでに慣れっこだが、五条のうざ絡みはほんとうにうざいのだ。
「お疲れさまでした」
思わず、は背筋を正して首を垂れていた。
七海がほんとうに疲れ果てていたのだな、と彼が車内で眠りに落ちていることに気づいて、はしみじみ思う。ただでさえ出張は疲れるだろうに、五条がついてくるとなれば、その疲労は二倍三倍に跳ね上がるに違いない。
サングラスの奥、閉じた瞳の睫毛がやたらと長い。
背が高くて、顔がよくて、声もいい。おまけに強い。
五条が「僕のこと?」と言ってきそうなので、性格もいいを付け加えておく。それだけで五条は除外できる。
にとって七海は、信頼できる“まともな”大人だ。
「新田さん。高専まですこし回り道して帰ってくれますか?」
ちら、とバックミラーでこちらを見やって「了解っス」と、新田が小さく答えた。
呪術師は忙しい。万年人手不足だ。休めるときに、存分に休んでほしい。はそう思って、眠りを妨げぬよう七海から視線を外した。
ぞわり、と肌が粟立つ感覚に、沈んでしまっていたらしい意識が引っ張り上げられる。新田が荒々しくハンドルを切って、アクセルを踏み込む。
油断し切ったの頭が窓にぶつかる前に、七海の大きな手が側頭部を包んでいた。
「新田さん、車を止めてください」
「もうすぐ高専に着くっスよ?」
「祓ったほうが早いでしょう」
言いながら、七海が獲物に手をかけた。
それもそうかと納得した顔をして、新田が車を止める。は寝ぼけ眼で七海を見た。
「すぐに戻ります。大人しくここで待っているように」
「は、はい」
素直に頷けば、サングラスの向こうで瞳が優しく細められた。
ふう、と新田がため息をついてハンドルに凭れる。寝起きのはっきりしない頭のなか、は呪霊に襲われたのだと理解する。
はっとして窓の外へと視線を向けたときには、呪霊はすでに祓われていた。
七海は一級呪術師である。
一級呪術師は、一般人が到達できる最高等級といえる。五条のような“特級”は、規格外なのだ。
車に乗り込む七海の顔は、至ってふつうそのものだ。祓ったほうが早い。七海の言葉が、のようやく働き出した脳裏を過ぎる。
「……もう少し、危機感のある顔はできないんですか」
七海がの顔を覗き込んで、小さくため息を吐く。はきょとんと瞳を瞬いた。
「七海さんがいるなら安心です。なんなら、悟さんと一緒のときより」
「まさか。冗談でしょう」
「そりゃあ悟さんは最強の呪術師ですけど、人間性に問題大ありですから」
と七海のやりとりを聞いていた新田が、小さく噴き出す。七海が「自業自得とはいえ、特級呪術師の名が泣きますね」と、呆れたように呟いた。
律儀に寮の前まで送り届けてくれた七海に、は深く頭を下げる。
「何から何まですみません」
回り道した結果、呪霊を引き寄せてしまい、七海には余計な手間をかけてしまった。胸が痛い。変に気を遣わなければよかった。
しかし、降ってきた声は柔らかいものだった。
「顔を上げてください、桜川さん」
はそろり、と七海を窺い見る。
「迷惑をかけた、なんて子どもが気にすることではありません。私に頭を下げるべきは五条さんです、そこを履き違えてはいけません」
「わたし、もう二十歳になりましたよ」
「私から見れば二十歳なんてまだ子どもです」
でも、と言いかけては口を噤んだ。
いくら歳を重ねようと、年齢差は埋まらない。にとって伏黒が、小学生のイメージのままだったように、七海や五条による自身のイメージも同じようなものなのだろう。
「子どもらしく、もっと甘えなさい。そのほうが、あの人も喜びますよ」
「わたしは、十分甘えているつもりなんですけど……」
「足りませんね」
きっぱりと言い切られて、は眉尻を下げた。
「努力します」
「ええ、そうしてください」
もう一度丁寧にお辞儀をして、は踵を返す。ちょうど寮のドアが開けられて、その先に伏黒が立っていた。
「恵くん」と、は驚きを持って伏黒を見上げたが、その視線は外へと向けられていた。振り返ると、遠ざかっていく七海の背が見えた。
「どうして七海さんが……五条先生と一緒だったんじゃ?」
「悟さんは忙しいみたい」
は肩を竦める。
眉をひそめる伏黒を見上げて、はその黒髪に手を伸ばした。届かないので背伸びをすると、伏黒が呆れた顔でわずかに屈む。
「なんですか」
不服そうな声を出しながらも、の指先が髪に触れるのを許してくれる。
「恵くん、」
年齢の差は埋まらずとも、身長の差はあっという間埋められて、それどころか抜かされてしまった。
から見た伏黒は──
「……もうすっかり、男のひとだ」
はぽつり、と呟きを落とす。
いつまでも小学生のままではないことくらい、わかっていたはずだった。高校生にもなれば、知らない男のひとのように見えて当たり前である。伏黒を見るたびに覚えた小さな違和感を、はようやく呑み込めた気がした。
丸く見開かれた伏黒の瞳がすぐそこにあることに気づいて、は「恵くん?」と首を傾げた。
「いや……さん、それ、どういう意味──」
「あれ? 、帰ってたの? おかえりー」
「ただいま、野薔薇ちゃん。いま帰ったところ」
釘崎の声にいち早く反応した伏黒が、ぱっとから距離をとった。少し寂しい気もするが、ふつうの反応だと納得して、は伏黒の傍を通り過ぎる。
ふいに、伏黒がの手を掴んで引き止めた。
「……いまさら過ぎるんですよ」
「え?」
「この際だから言っておきます。俺は、さんを姉のように思ったことは、一度もないです」
「えっ」
面食らうを置いて、伏黒はさっさと自室へと消えてしまった。
「結構、懐いてくれてたと思うんだけどなぁ」
「年頃の男の子って難しい」と困惑するを、釘崎が呆れ果てた顔で見ていた。何故そんな顔をされるのかわからずに、はますます困惑するのだった。
「へぇ、恵も生意気言うじゃねーか」
「やっぱり恵くん、わたしのこと面倒くせ~って思ってるよね?」
「ま、実際は面倒くせぇからな」
「返す言葉がないのが悔しい……」
む、と唇を尖らせた瞬間に、真希が一段階ギアを上げた。振るわれた棍がの目の前すれすれを通り、前髪を浮き上がらせる。
「だいぶ動けるようになったな、」
「毎日毎日扱かれたからね」
「けど、まだまだ甘い!」
足を払われて、は無様に尻もちをつく。体勢を立て直す間もなく、ぴたりと喉元に棍の先が突きつけられる。
はふにゃりと眉毛を下げた。対して、真希が得意げに口角を上げる。
「はい、一死」
真希の手を借りて立ち上がりながら、は痛むお尻の土を払う。
それにしたって、虎杖といい真希といい、身体の作りからして根本的に違うのではと疑問が首をもたげる。運動神経の一言で片づけられては堪らない。
「恵ー、交代。オマエの相手しろ」
「ま、真希ちゃん」
「生意気言われて腹立つってんなら、絞めりゃいいんだよ」
真希は簡単に言うが、実力差的に絞められるほうはである。
「はあ、わかりました」と、やる気の欠片もなさそうに返事をした伏黒が、気怠げな様子でと対峙する。視線を逸らしたまま、伏黒が口を開いた。
「七海さんとも面識があったんですね」
「え? ああ、そうだね。悟さんの知人とはだいたいあるかな?」
「……そりゃそうか」
ぼそりと呟いた伏黒が、を睨むように見た。
「昨日の。さんには悪いが、前言撤回するつもりはないんで」
「……というと?」
「姉は津美紀ひとりで十分です。さんは──」
「家族じゃない?」
改めて言葉にすると、ひどく胸が軋んだ。
に家族はいない。
だからこそ、伏黒や津美紀、五条は大切で特別な存在なのだ。
これまで一緒に過ごしてきた時間を思うと、あまりに寂しい言われようである。伏黒の顔を見ていられずに、は目を伏せた。
「……家族じゃ困るんですよ」
伏黒が声を絞り出すようにして呟く。それは、ひどく切実な響きを持っていた。
「困るの?」
「困ります」
間髪入れずに返した伏黒が、拳を握って構える。もまた戸惑いながら身構えるが、正直それどころではなかった。家族では困る。その理由が全くもってわからない。
伏黒が長いため息をついた。
「さん、集中してください。傷つけたくないので」
傷つく。
には縁遠い言葉のように思えたが、伏黒が真剣に身を案じてくれていることがわかって、頷くことしかできなかった。