伏黒との間に漂う微妙な空気が周囲に伝染してしまっているのはわかっていたが、はどうすればいいのかわからなかった。それもこれも、には友人と呼べる存在がいなかったせいである。友だちと喧嘩した記憶なんてあるわけがないのだ。

 走り込みをやめてもなお、伏黒や釘崎がの部屋に集まることはなくなってしまった。静かな部屋がなんだか寂しくて、はの足は自然と二年生たちの元へ向かうようになった。

「さっさと何とかしろよ。辛気臭くてしょうがない」
「わかってる、わかってはいるんだけど……」

 真希が呆れた顔での頭を軽く小突く。は立てた膝に顔を埋めて、ため息を吐いた。

「恵くん、怒ってるの? まず、それすらよくわからなくて」

 怒らせてしまったのなら、謝ればいい。
 けれど、今回に限ってはそんな単純な話ではない。

「面倒くせ。いつまでうじうじしてんだよ」
「だって……わたし、恵くんのこと家族みたいに大事に思ってたから、ショックで」
「まあ、恵も色々あるんだろ。ホラ、思春期だしさ」
「しゃけ」

 の落ち込みように、パンダが慌ててフォローを入れてくれる。頷く狗巻が、ぽんぽんとやさしくを肩を叩いた。
 思春期。確かに、難しい年頃ではあるのかもしれない。

 ”俺は、さんを姉のように思ったことは、一度もないです。”
 ”家族じゃ困るんですよ。”

 伏黒の言葉が脳裏に蘇って、は目を閉じた。
 もしかしたら、伏黒と親しいと思っていたのは自分だけだったのでは──それを確かめて、万が一にも肯定されてしまったら、は立ち直れないかもしれない。
 にとって、伏黒はそういう存在なのだ。

「……

 気怠そうな真希の呼びかけに、はのろのろと顔をあげた。

「憂太と話せば、その辛気臭い顔もちったぁマシになるだろ」
「え?」

 ぽい、と投げられたスマホの画面には乙骨の顔が映っていた。はまじまじと画面を見つめてから「わあっ、憂太くん!」と、驚きのあまり真希のスマホを落としてしまった。

「えっと、お久しぶりです……さん」

 懐かしい声が足元から聞こえる。は震える手で、スマホを拾い上げた。「憂太くん、久しぶり」と、答える声は不格好に上ずっていた。




 乙骨に話しかけたの声は、緊張に満ち溢れていた。
 狗巻は傍らのパンダと視線を交わす。にとって、乙骨が特別な存在であるということは、二年生の共通認識であった。


 の視線の先にはいつも乙骨がいた。それは恐らく、狗巻だけでなく真希やパンダだって気づいていたが、乙骨本人は知らないだろう。もっと言えば、自身がにとって特別なのだということすら、乙骨には自覚がない。

 ──桜川 
 五条の保護下にある彼女は、術師界隈では有名な存在だった。五条の隠し子などとまことしやかに囁かれ、愛人やらなんだと面白おかしく噂する輩もいた。どこにでも口さがない者はいるものだ。
 はじめてと実際に会った狗巻は、正直言って拍子抜けした。どこからどうみてもふつうの女子大生で、一級呪物というおどろおどろしい響きとは結びつきやしない。それが、の第一印象だった。

「よろしくね、棘くん」

 そう言って笑う顔も、握った手も、ただの女の子だった。

 五条の使い走りとして、ちょくちょく呪術高専に来るとはすぐに顔見知りとなった。パンダの存在も、狗巻の語彙についても難なく受け入れるあたり、五条との付き合いの長さが伺い知れた。五条が突拍子のないことをするのは日常茶飯事だからだ。
 それにしても、何事にも動じなさすぎる。と、思っていた矢先のことだ。

 乙骨憂太を前にしたそのとき──驚きに見開かれた瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちたのだ。狗巻たちのみならず、あの五条でさえも驚き、慌てていたのだからびっくりだ。

「ごめんね、なんでもないの」

 なんでもないわけがないが、が多くを語ることはなかった。真希でさえも、理由を問いただすことをためらって、結局が乙骨を見て泣いた理由を狗巻たちが知ることはできなかった。

 
 吐息で白く曇った窓にが指を走らせて、透明さを取り戻したその先に乙骨と真希の姿があった。ふ、とがまなじりを緩めて、やわらかく笑んだ。
 あれからというもの露骨に乙骨を避けているだが、こうしてこっそり見つめていることを、乙骨以外の一年生は知っていた。

「高菜」
「あ、棘くん。忘れもの?」
「しゃけ」

 机からタオルを取り出す狗巻を見て、が頷く。近づいてきたが、狗巻の鼻先に触れた。その手が耳に伸びるのがわかったが、狗巻は微動だにしなかった。

「赤くなってる。寒いよね、風邪引かないようにね」

 たった三つしか違わないのに、年上ぶった物言いをする。
 大丈夫、というつもりで「明太子」と答えれば、が小さく笑った。過ごした時間はそう多くないのに、真希たちと同じくらいに意思の疎通ができるようになっているのだから、不思議だ。

 が再び窓の外へ目を向けた。
 何か声をかけようかと狗巻が迷っていると、が「憂太くん、強くなったね」と口を開いた。乙骨のことを言われるとは思わずに、狗巻は返事ができなかった。

「……そうだよね、うん。編入してずいぶん経ったもんね」

 そう呟いたの顔が寂しげで、いまでも狗巻の目に焼きついている。



 ふふ、との笑い声が聞こえて、狗巻はちらりと目を向けた。
 いつか見たときと同じように、の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。スマホを見つめるその眼差しが、いつになく優しい。

「へなちょこのどこがいいんだか」

 真希がため息交じりに呟く。
 不機嫌そうに歪んだ顔は、姉を盗られて不貞腐れたようにも、気になる男子にちょっかいをかけられてヤキモキしているようにも見える。

 たしかに、乙骨はの“特別”だ。しかし、その特別が恋愛感情であるとは限らないし、少なくとも狗巻はそうだとは思っていない。

「いまの憂太は、へなちょことは呼べないんじゃないか?」
「ハァ? へなちょこはへなちょこだろ」

 パンダを睨んで、真希が吐き捨てる。狗巻は口を噤んだまま、首をすくめた。

「またね、憂太くん」

 の柔らかい声が落ちて、真希がぐっと眉間に皺を寄せた。「はい、真希ちゃん。まだ繋がってるからね」とが差し出したスマホには、乙骨の顔が映っている。気まずそうに笑うあたり、へなちょこ発言が聞こえていたのかもしれない。

「べつに、私らは話すことなんてねーよ」
「まあまあ、そう言うなって。元気そうだな、憂太。こっちは色々あって大変だぞ」
『おかげさまで……』
「フン、ヘラヘラすんな」
『真希さん、機嫌悪いね。僕、何かしちゃったかな?』

 うっせ、と真希がスマホを投げ捨てるので、パンダが慌ててキャッチした。乙骨がアワアワしているのが、画面越しに伝わってくる。
 騒がしい彼らを横目に、狗巻はの肩を叩いた。

「こんぶ」

 ぱちり、と瞬きをひとつしてから、が目を伏せた。

「……棘くん、髪が伸びたよね」
「すじこ?」
「憂太くんは、すごく頼もしくなった。見違えるくらい」
「…………」

 静かな声は、いまだぎゃあぎゃあ姦しい真希たちには届いていないだろう。狗巻は、じっとを見つめた。
 伏せられた睫毛が、繊細に震える。泣くのを堪えるように、一度唇を結んだが、おもむろに視線を上げた。その瞳は、ほんのわずかに濡れているようにも見えた。

「変わらないわけがないんだよね。……わたしも、変わらなきゃ」

 狗巻は何か言おうとして口を開いたが、言葉が出ることはなかった。
 ちら、と真希たちの様子を見やったが、狗巻に身を寄せた。肩が触れ合う。が声のボリュームをさらに絞った。

「憂太くんね、わたしの一番歳の近い兄に、少しだけ似てるんだ」

 の家族についての話は、聞いたことがなかった。
 狗巻は、驚きと動揺をもってを見た。近くで視線が交わる。

「他人の面影を追いかけるなんて、憂太くんに失礼だよね。いい加減、やめないと」

 眉尻を下げて、が困ったふうに笑みをこぼす。狗巻にしか聞こえないその声は、寂寥に満ちていた。

「……、」

 狗巻は、思わずその名を口にしていた。何を伝えたかったのか、狗巻自身にもよくわからなかった。
 が目を丸くしてから、ふふっと声を立てて笑った。

「今さら兄を思い出して泣くなんて、恥ずかしいから悟さんには内緒ね」
「しゃけ」

 狗巻は頷く。言われずとも、誰にも教えてやる気はさらさらなかった。

「おーい、ふたりで内緒話か~?」

 パンダの茶々に、狗巻はと顔を見合わせる。唇の前に人差し指を立てたが「そう、内緒話」と悪戯っぽく笑った。
 狗巻は訝しげな真希とパンダに向かってピースサインを向ける。

「すじこ!」

 真希が不服そうに鼻を鳴らすが、その顔からはすっかり毒気が抜けていた。
 がこんなふうに笑うのは、久しぶりのことなのだ。口ではつっけんどんに突き放しながらも、真希も内心ほっとしていることだろう。
 わざわざ乙骨とを繋げたのも、真希なりの気遣いである。功を奏したと言っていい。

「わたし、ちゃんと恵くんと向き合う。心配かけてごめんね」

 の言葉を受けて「いつでも胸は貸すからな」と、パンダが大仰に腕を広げて見せたのだった。





 そうして覚悟を決めたにもかかわらず、ようやく高専に戻ってきた五条に伏黒とのあれこれをぽろりと零したことが、の運のつきだった。

「ちょうどいい。お互い、少し離れて頭を冷やしたら?」
「え?」
「うんうん、そうしよう! そろそろも、実践が必要だと思ってたんだよねー」
「悟さん、」

 あれよあれよという間に、は虎杖とともに七海の前に立っていた。

「……悟さんがすみません」
「桜川さん、このやりとりはもう十分です。今後、五条さんに関して謝罪は口にしないこと」
「は、はい。わかりました」

 の返事に対し、七海がサングラスを指先で押さえながら、頷く。うんざりしている、というわけではなさそうで、はほっと胸を撫でおろした。

「ええと……よろしくお願いします、七海さん」

 丁寧に頭を下げるの隣で、虎杖が「がんばろ、さん」とからりと笑う。ノリが軽い。ちらりと七海と虎杖を見やって、は内心でため息を吐いた。
 ほんとうなら、今ごろ伏黒と和解していたはずなのに──
 悟さんの馬鹿。あほ。おたんこなす。は心の中で思い切り罵りながら、虎杖に笑い返した。

傷痕を花筏に沈めて