「じゃ、は借りてくよー」
たったのその一言だけ残して、五条はあっという間にを連れ去ってしまった。必然的に、の部屋に集まっていた釘崎と伏黒も廊下に締め出されることになる。
「はァ?」と、初めこそそのたび悪態をついていたが、もはや諦めの感情しか出てこない。慣れとは怖いものである。
釘崎は大きくため息を吐いた。伏黒がさっさと自室に戻るのもいつものことだ。
と五条。保護者だというが、ほんとうにそれだけなのだろうか。
それとなく探りを入れてみたものの、なんだかいまいち二人の関係性が見えてこない。の五条への当たりは、割かし強い。甘い雰囲気など欠片も感じられないのは確かだったが、保護者や家族みたいなものというには、いちいち距離が近いのだ。伏黒は内心やきもきしているし、ハラハラしているに違いない──と、釘崎は勝手に思っている。
「だいたい、もよね」
色々と文句を言いながらも、結局は五条についてくのだ。
──わたし、この世で一番悟さんを信頼しているから。好きではないけどね。
静かな教室に落ちたの言葉を、釘崎はぼんやりと思い出す。まあ、五条のことは、釘崎だって信頼している。腹が立ったり、苛々させられることも多いけれど、あれは最強の特級呪術師で、高専の教師だ。
「……個人レッスン、って響きがあやしすぎんのよ」
は、呪術師ではない。だからこそ、釘崎や伏黒よりも学ぶべきことが多いのはわかっている。「つまり、補講だよ」と五条はもっともらしいことを言っていたが、肝心の内容は二人とも明言を避けるばかりだ。
物言わぬドアをしばし睨んでから、釘崎はフンと踵を返した。
真希との組手のおかげで、だいぶ目は慣れた。けれど、やはり身体はついていかずに、虎杖の拳を避けることはできなかった。反射的に受け止めた腕がビリビリと痺れる。
「だいじょぶ!?」
虎杖が心配そうに駆け寄ろうとするのを「ゆーじ」と、のんびりした声が止めた。
「いちいちそれじゃ、組み手になんないデショ」
「でも、」
「でももだってもナイナイ。ほら、続けて」
ぱちん、と五条が手を叩く。
渋々といった様子で虎杖が構えをとって、床を蹴った。「あ、そうだ。僕ちょっと出張する用事があってさ」と、五条がいかにもいま思い出しましたとばかりに口を開く。
虎杖の意識が逸れた。けれど、勢いは止まらずに、そのままに向かって──
ぶつかる。
はぎゅっと目を瞑って衝撃に備える。ドスン、とそれなりに大きな音が鼓膜を揺らしたが、予想していたほどの衝撃も痛みもなかった。床に打ちつけたお尻と背中が少しばかり痛いだけだ。
「あっぶな……!」
虎杖の声がひどく近くで聞こえて、はそろりと目を開けた。
近すぎて虎杖の顔がぼやけていた。視線をずらすと、顔のすぐそばに虎杖の腕が見える。なるほど、これが床ドン。虎杖の持ち前の反射神経と天才的運動センスによって、衝突は避けられたらしい。
あの一瞬で足を踏ん張り、を押し潰さないように床に手をついたなんて、舌を巻くような芸当だ。真希もびっくりするんじゃなかろうか。
悠長に感心するに対し、虎杖が慌てて飛び退く。
「わっ、ごめん! さん、平気?」
虎杖が差し出してくれた手をとって、は立ち上がった。ちら、と見やった五条が口元をにやつかせている。
「人が悪いですよ、悟さん」
「え~? 何のこと?」
「僕わかんなーい」と、五条がふざけた態度で首を傾げてみせる。
瞳を瞬く虎杖は、恐らく五条かあえてこのタイミングで口を開いたなんて、夢にも思っていないのだろう。少々、五条を信頼しすぎているような気がする。
「先生、出張って?」
「それがさ、割と遠方だから数日かかるかもしれないんだよねー」
あっけらかんと告げる五条を、虎杖は不安げに、は胡乱げに見つめる。
「つーわけで、いつも同じ場所に隠れてるのはセオリー的にまずいし、なんか面白そうだから伊地知んとこ行ってて」
なんか面白そうだから。
は虎杖と顔を見合わせる。
「伊地知って、あの伊地知さん?」
「そ! その伊地知」
「……また伊地知さんに無茶ぶりして」
「こんなん無茶のうちに入らないって。つーか、またって何よ? 人聞きが悪いなー」
五条が不満げに唇を尖らせる。人聞きが悪いも何も、事実伊地知はいつも五条に振り回されている。それはもう、不憫なほどに。
「……で、いつまで手ぇ握ってんの?」
ふいに落ちた五条の声は、冷たかった。先ほどまで喋っていた人物と同じか疑わしいほどに、冷え冷えだった。
手を握るくらいなんだというのだ。
はそう思ったが、虎杖が光の速さで手を離した。見上げたその顔が薄らと赤い。思春期の、健全な青少年としては、至ってふつうの反応なのだとはそこで初めて気づいたのだった。
「はほんと鈍いよね」
五条に呆れたように言われても、反論のしようがなかった。悔しい。
五条の出張に伴い、の個人レッスンもお休みである。個人レッスン──つまるところ、虎杖との組み手であり、真希との訓練の延長に過ぎない。
体力づくりのため、空いた時間を走り込みに充てていたら、釘崎に「真面目かよ」と呆れられてしまった。けれど、たまにつき合ってくれるあたり、彼女はやさしい。初めは二十歳の自分が高校生なんてと不安だったが、釘崎と同級生になれてよかったなあと心底思う。
そして、もうひとりの同級生である伏黒をちらっと一瞥する。
釘崎と同様、訓練で疲れているはずなのに、伏黒は律儀に毎回につき合ってくれている。申し訳ないと何度か断ったが「心配なんで」と、頑なに譲らない。日が暮れているとはいえ高専の敷地内で心配するようなことが起きるだろうか、とは本気で疑問に思っている。鈍いよね、との五条の声が脳裏に蘇るが、ほんとうにわからないのだ。
過保護と言えば、一から十までを心配する理由を説かれるので、口にはしない。
伏黒の視線がに向いて、しかし、すぐに逸らされる。「さん、ペース落ちてますよ」と、目を合わせないまま伏黒が告げた。思春期の青少年の気持ちなど、に理解できるわけがなかった。
東堂に啖呵を切ったからには、交流会では一泡吹かせたいものである。
できることなら、自分の手で一発食らわせたいくらいだが、には到底難しいことは目に見えていた。非常に残念で仕方がない。
憂太くんがいてくれたらな、と思いながら汗を拭うに向かって、スポーツドリンクが差し出される。はお礼を言って、それを受け取った。
冷たい。がバテている間に、自販機で買ってきてくれたらしい。体力の差を思い知らされる。
「……珍しいですね」
「え?」
「さんが躍起になってるところ、初めて見た気がします」
「そんな、わたしがやる気のない奴みたいな言い方」
ふふ、と笑うを伏黒がにこりともせずに見つめている。「実際そうでしょ」と言わんばかりだ。
確かに、いろいろと諦めをつけているは、何かに執着するということがないし感情の起伏も乏しいほうだ。怒りを覚えることも少なければ、それが持続することもない。
「恵くんをあんなふうにコケにされて、腹が立たないわけないでしょ」
「さん、」
「わたし、自分のためにがんばるのは苦手だけど、誰かのためなら苦じゃないよ」
そう言って笑えば、伏黒は顔をしかめた。
「だから、嫌なんですよ」
「嫌って?」
「さんはいつだって、他人のために自分を犠牲にする」
ひとの気も知らないで、と伏黒が小さく吐き捨てるように呟く。は、伏黒の眉間の皺を指で突いた。
「恵くんは他人じゃないよ。それに、わたしは自分を犠牲にしてるつもりはないし、何ならこの厄介な体質が初めて役に立つんじゃないかって思ってるの」
眉間の皺をさらに深くした伏黒が、ふいっと顔を背けた。
「ほんとうに、ひとの気も知らないで……!」
幸いにして伏黒の赤くなった顔は、グラウンドの明かりの元では、の目に止まることはなかった。やや乱暴に手を払われたは、伏黒の気持ちを推量れずに首を傾げたのだった。
「恵くん、わたしのこと面倒くせ~って思ってるのかな?」
そう首を傾げたの髪は、風呂上がりでしとりと濡れていた。毛先から時おり滴が落ちて、肩にかけたタオルを濡らしている。
釘崎は「は?」と胡乱な目をに向けたが、本人は至って本気にそう思っているようだった。
伏黒を憐れむ気持ちと、ざまあみろという気持ちに挟まれて、釘崎はどういう顔をすればいいのかわからない。とりあえず、釘崎は肩を竦めてお茶を濁した。
「何でそう思うわけ?」
釘崎が恒例と化した走り込みに付き合わないのは、疲れるからという理由が一番だ。けれども、一応米粒程度には伏黒に気を遣った部分もあるにはある。
それにしたって、まさかここまでとは──
あまりの脈のなさに、伏黒が可哀想になってくる。
「恵くんの過保護って、悟さんに頼まれてるからな気がして。いつも眉間に皺寄せてるし」
「アイツの仏頂面はいつもでしょ、気にすることないわよ」
フン、と軽く鼻を鳴らせば、が困ったように微笑む。釘崎は、のその顔があまり好きではなかった。
そうやって、何事もやり過ごしてきたことが、容易に想像できるのだ。
釘崎は人差し指を下がった眉尻に押しつけた。が目を丸くする。
「五条先生に頼まれたとして、毎日走り込みに付き合うほどのお人好しには見えないけど?」
「でも、恵くんは真面目だし……」
「あのねえ、そんなに気になるなら本人に直接聞いてみなさいよ。アンタたち、付き合い長いんでしょ?」
「そうだけど……年頃の男の子って、わからないんだよね」
小さくため息を吐くの横顔は、確かに大人びて見えた。
の部屋を出ると、ちょうど伏黒がシャワーを終えて部屋に戻るところだった。いつもツンツンしている黒髪が、湿って伏せている。またさんの部屋に、と言わんばかりに伏黒が眉をひそめるので、釘崎は口を開いて先手を打つ。
「、相当鈍いわよ」
「ハァ?」
「といるときぐらい、その眉間の皺、なんとかしたら?」
迷惑そうに顔をしかめて、伏黒が指先で眉間を押さえる。釘崎はそんな伏黒の肩をぼんと叩いて、さっさと自室に戻った。完全な言い逃げである。
「……んなこと、知ってんだよ」
伏黒の小さな呟きは、廊下の軋む音に紛れて消えた。