は、釘崎と色違いのジャージを身に着けて、上機嫌だった。真希に使い走りをさせられようと、とても些細なことだと思えるくらいだった。自販機からお茶を取り出したは、ふいに割り込んできた声に振り向いた──が、立ちふさがった伏黒の背中しか見えない。
ちら、と釘崎がこちらを見やってうんざりした顔をする。伏黒の過保護ぶりに呆れているのだ。
「なんでこっちいるんですか、禪院先輩」
禪院先輩いえば真希のことだが「いやだなぁ、伏黒くん。それじゃあ真希と区別がつかないわ。真依、って呼んで」と返ってきた声は、似ても似つかないものだった。雰囲気近いわよね、と釘崎が言うが、声だけ聞けばそうとは思えなかった。
は真希の双子を確かめようとするも、それに合わせて伏黒も動くので、結局見えるのは彼の後ろ姿のみである。
「コイツらが乙骨と三年の代打……ね」
男の声には、明らかな侮蔑が含まれていた。
完全には蚊帳の外だ。「恵くん」と、は不満を訴えるが、伏黒は一瞥すらもくれない。
「アナタたちが心配で、学長についてきちゃった。同級生が死んだんでしょ?」
目の前の背中が強張るのがわかった。釘崎の顔色が目に見えて変わった。
それに気づかないはずもないのに、歌うような声音で真依が続ける。
「辛かった? それともそうでもなかった?」
「何が言いたいんですか」
何かを押し殺すようにして、伏黒が告げた。ふ、と真依がかすかに笑みを漏らした。
「いいのよ、言いづらいことってあるわよね、代わりに言ってあげる」
「……、」
「器なんて聞こえはいいけど、要は半分呪いの化物でしょ? そんな穢らわしい人外が隣で不躾に”呪術師”を名乗って、虫酸が走っていたのよね?」
思わず踏み出そうとしたを、伏黒の腕が阻んだ。
虎杖悠仁を知らぬ人にとっては、彼は恐ろしい存在なのかもしれない。あの両面宿儺を受肉した人間は、確かにもはや人とは呼べはしないのかもしれなかった。けれど、が見た虎杖は──よりもよほど、ふつうの人らしかった。
「死んでせいせいしたんじゃない?」
伏黒と釘崎が、そんなふうに思っていないことは、一目瞭然である。二人がそろって、剣呑に目を細めた。
はいい加減、我慢ができなくなって伏黒の腕を掴んだ。年下に庇われっぱなしというのは、なんとも情けない話である。伏黒にそこを退けるように言うが、彼は煩わしげに首を横に振るだけだ。納得がいかない。
「真依、どうでもいい話を広げるな」
やれやれ、と言わんばかりだった。真依がつまらなそうに、ふんと鼻を鳴らす。
「俺はただ、コイツらが乙骨の代わりに足りうるのか、それが知りたい。伏黒……とか言ったか」
伏黒が身構える。
「どんな女がタイプだ」
思わぬ問いかけに、伏黒も釘崎も「は?」と目を点にする。
突拍子もないことを言い出すのは、五条のおかげで慣れっこである。は呆然とする伏黒の背後から、ひょいと顔を覗かせた。びりびりに引き裂かれたTシャツから、筋骨隆々な上半身があらわになるところだった。さすがのも驚きに言葉をなくした。なぜ、服を破り捨てているのだ。
「返答次第では今ココで半殺しにして、乙骨……最低でも、三年は交流会に引っぱり出す」
あまりに物騒な台詞である。半殺し。は不安に顔を曇らせ、伏黒を見上げた。
はっとした伏黒が「さんは首を突っ込まないでください」と、をまた背に押しやってしまう。
「ちなみにオレは、身長と尻がデカイ女がタイプです」
ふーん、と相槌を打ちそうになるが、そんな雰囲気ではなさそうだ。自分は彼のタイプには当てはまりそうもない、と思いながら、は伏黒の黒髪を見上げた。
伏黒がため息を吐く。
「なんで初対面のアンタと、女の趣味を話さないといけないんですか」
「そうよ、ムッツリにはハードル高いわよ」
「オマエは黙ってろ。ただでさえ、意味わかんねー状況が余計ややこしくなる」
伏黒が苛立ちをあらわにする。釘崎が不服そうに肩を竦めた。
「京都三年、東堂葵。自己紹介終わり」
東堂葵、とは口の中でその名を転がした。その名前には聞き覚えがある。
新宿・京都百鬼夜行──昨年、呪詛師夏油が起こした未曽有の呪術テロにおいて、京都に現れた一級呪霊五体、特級呪霊一体をひとりで祓ったらしい。五条が何やら誇らしげに語っていたし、二年の中でも話題になっていたので、の記憶にも残っていた。
”術式を使わず”に、と聞いたが、確かにこの肉体なら術式が不要といわれても、納得しそうだ。
「これでお友達だな。早く答えろ、男でもいいぞ」
しかし、名を名乗っただけでお友達とは、とんでも理論である。
これは五条に似たタイプで、厄介者だ。は早くもそう悟った。乙骨のようにやさしく謙虚な呪術師を想像していただけに、がっかりだ。
それとなく、逃げられないかなとあたりを見回すが、当然ながらたち以外に人気はない。
「答えろ、伏黒。どんな女がタイプだ」
伏黒が、ちらりとを見やる。「適当にあしらって逃げよう」と、は小さく耳打ちした。こういうタイプには関わらないほうがいい。としては真面目にアドバイスをしたつもりだったのだが、伏黒は迷惑そうに身をよじった。耳を手で払っている。そんなに露骨に嫌がらなくても、とはしゅんと肩を落とした。
なぜか釘崎がにやにやとこちらを見ている。
「別に、好みとかありませんよ」
伏黒が口を開く。
「その人に揺るがない人間性があれば、それ以上は何も求めません」
適当にあしらって、というの言葉はまるっと無視されたようだ。真摯なまなざしが東堂を射抜く。
真依も釘崎も、その答えが気に入ったようでまんざらでもない顔をしている。
「やっぱりだ」
そう小さく呟いた東堂の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
「退屈だよ、伏黒」
息を呑んだ伏黒が、ふいにを突き飛ばした。よろめいたの傍らを、東堂の手によって伏黒が吹き飛んでいく。
「恵くん!?」
ああ、とは思う。
だから、適当にあしらって逃げようと言ったのだ。自慢じゃないが、の嫌な予感はたいてい当たるし、五条に言わせてみれば立派なトラブルーメーカーだ。
こっちはこっちで、釘崎が真依に絡まれている。は一瞬だけ逡巡してすぐに、伏黒の後を追った。どう考えても真依よりも東堂のほうが、ヤバい奴である。
「ほんとうにもう! 恵くんは、わたしを何だと思ってるの!」
年下を矢面に立たせるばかりで、これではの立つ瀬がない。
「っさ……」
「余所見している場合か?」
東堂の手が伏黒の顔をむんずと掴んで、そのままを壁へと叩きつけた。ドゴッとけたたましい音とともに壁が凹んで、パラパラと崩れ落ちる。
「東堂くん、その手を放してください」
押さえつけられた伏黒の額から、血が流れている。伏黒は決して弱い呪術師ではない。
一年と三年の差、一級呪術師と二級呪術師の差──
「……いやだ、と言ったら?」
東堂がにやりと笑った。伏黒の身体を持ち上げると、上空へと吹き飛ばした。建物をぶち抜くほどの勢いだ。真希が言っていたように、伏黒は接近戦が得意なタイプではない。
これでは、伏黒が一方的になぶられるばかりだ。
東堂にはもちろん、頑なにを背に押しやった伏黒にも腹が立つ。
はぐっと唇を噛みしめる。見世物にでもなるつもりか、と宿儺の声が脳裏を過った。不老不死だけの力なんて、にとっては無用の長物だ。
二人を追いかけようとしたの肩を掴む手があった。
「高菜」
「棘くん、」
「しゃけ」
いつものようにおにぎりの具材を発しながら頷いて、ぽんぽんと肩を叩く。少しだけ困ったような顔をして、狗巻の指がの下唇に触れた。気づかぬうちに血が滲んでいたようだ。
「悪い悪い、遅くなった」
狗巻の後ろにはパンダの姿もあった。眉尻を下げたを抱き上げて、パンダが跳躍した。
「動くな」
狗巻の呪言を聞いたのは、いつぶりだろうか。はそんなことを考えながら、伏黒に駆け寄った。余計なことを考えていないと、とんでもない言葉までぶつけてしまいそうだったのだ。
けれど、伏黒の狼狽えた顔を見た瞬間に、の唇はぴたりと閉じてしまった。
代わりには、持て余した憤りをすべて、東堂にぶつけることにした。
「去年の二の舞にしてやります」
昨年の交流会は、乙骨による東京校の圧勝だったと聞いている。だからこそ、東堂は乙骨に拘っているのだ。
の宣言を受けて、東堂がにやりと唇を歪める。
「乙骨に伝えとけ。”オマエも出ろ”と」
「憂太くんがいなくたって、今年も東京校の圧勝です」
「へえ、言ってくれる」
なおも言い返そうと開いた口は、伏黒の手によって覆われて声が出ない。は不満を込めて伏黒を見やる。
「……首を、突っ込まないでください」
頼むから、と弱弱しい声を受けて、は大人しく小さく頷いた。
踵を返した東堂の背中を、は黙って見つめることしかできなかった。
ばさりと投げ捨てられた釘崎のジャージには、所々穴が開いていた。はそれを広げながら、伏黒じゃなくて釘崎のほうに残るべきだっただろうかと考える。
「最っ悪!」
苛立ちをそのままに、釘崎が荒っぽくベッドに腰を下ろした。ぎしりとスプリングが軋んで、傍らに座るの身体も揺れる。
「おろしたてのジャージなのに。と色違いで揃えたのに」
「……というか、なんで当たり前のようにさんの部屋に来るんだ」
「はあ? アンタこそ、なんでいるのよ」
釘崎が吐き捨てるように言って、ふんと軽く鼻を鳴らした。
「まさか、二人っきりで何かしようってんじゃないわよね? あーやだやだ、これだから男は」
「なっ……やめろ、変なこと言うんじゃねーよ」
慌てた様子で伏黒がこちらを振り返るので、は首を傾げた。
伏黒にそんな気がないことなど百も承知である。大体、伏黒を部屋に招き入れたのはだ。心配など不要だし、何なら五条よりも安心できると思っている。
「二人とも、大事なくてよかった」
はそう言って、釘崎のジャージを丁寧に畳んだ。確かに、一緒に買ったジャージが穴だらけになってしまったことは残念だが、釘崎の身体に穴が開かなくてよかった。
毒気を抜かれたように、釘崎と伏黒が顔を見合わせる。
「まあ……」
「……そう、ですね」
「それにしても、恵くん」
目を逸らす伏黒の頬を両手で挟み込んで、は無理やり視線を合わせた。
「次除け者にしたら、許さないからね」
ちっとも納得していない顔をして、伏黒が渋々というふうに頷いた。「ほんっと過保護よね」と、釘崎がやれやれと肩を竦める。いいぞもっとやれ、とは内心で釘崎にエールを送る。けれど、次に続いた言葉に、はむっと唇を尖らせることになった。
「ま、その気持ちはわかるけど。って、見てるこっちがハラハラすんのよね」
ほれ見たことか、と言わんばかりの伏黒の頬を、は思い切りつまんで引っ張ってやったのだった。