そうして、現在に至る。
 落としてしまった紙袋を拾い上げて、買ったばかりのジャージの無事を確認する。「、急ぐよ」と、五条が急かしてくるので、はほんのわずかに眉根を寄せた。

「わかってます」
「じゃ、。僕にぎゅーって抱きついて」
「…………」
「ホラ早く。置いてくよ」

 は渋々言われた通りに、五条に抱きついた。ぽん、と五条の手のひらがの頭に乗って、「いい子だ」という声と共に労わるように撫でていく。その手を払うことなく、は五条の胸に顔を埋めた。
 ぽかんとしたままの虎杖の首根っこを掴んで、五条が”飛んだ”。


 「じゃ、学長を待たせてるから」と、五条はと虎杖を置いて、さっさと立ち去ってしまった。窓のない部屋には、ソファとテーブルとテレビが置かれていて、つけっぱなしのテレビにはの知らない映画が流れていた。虎杖が気まずげな顔で、ピッとテレビを消した。

「あの、さ……ほんとに大丈夫なの?」
「はい、確かめますか?」
「ちょっ、だっ、タンマ!」

 五条の大きすぎる上着を脱ごうとすれば、目にもとまらぬ速さでそれを止められる。ともすれば、真希よりも速い。
 ぎゅ、との両肩を掴む虎杖が「だめだって」と、真剣な目をして告げる。

「よく知らん奴に、そんな簡単にお腹は見せない!」

 その物言いは母親じみていた。はきょとんと虎杖を見つめる。

「ていうか、服! ちょっとでかいかもだけど、俺の服貸すから着替えなよ」
「あ、すみません」

 素直に虎杖から服を受け取って、はそそくさとそれに袖を通した。
 お尻まで隠れるぶかぶかのTシャツから、知らない人の匂いがした。ハーフパンツは、紐があるおかげでずり下がる心配はなさそうだ。

 着替えを終えて虎杖の元に戻れば、彼はソファに座って映画を見ていた。その手元には、寝息を立てるクマの人形がある。に気づいた虎杖が振り向いた瞬間、手元の人形がぱちりと目を覚ました。あっと思う間もなく、虎杖の身体が人形によって殴り飛ばされる。

「だ、大丈夫ですか? これって、夜峨学長の呪骸?」
「そう。いい感じに慣れてきたと思ったんだけど……」

 ちら、とを見て、虎杖が口ごもる。「……だいぶでかいね」と、目を逸らしながら、虎杖が人形を拾い上げた。

「でも、問題ないですよ。ありがとうございます」

 そう言ってがにこりと笑いかけた途端、人形が跳ねるようにして虎杖の顔を殴りつけた。

「っっぶ!」

 人形が勝ち誇ったような顔で虎杖を見ている。
 顔を手で押さえたまま動かない虎杖に代わって、は人形を抱き上げた。

「クマさん、乱暴しちゃだめだよ」
「あっ、危な……!」

 虎杖が、またも目にもとまらぬ速さでの手から人形を取り上げた。虎杖の手の中で、人形が再び寝息を立てる。

「コレ、一定の呪力を流し続けないと目を覚まして襲ってくるんだ」

 虎杖の言葉に「物騒ですね」と、は神妙に頷いた。



 時間を確認しようとスマホを手にして、はそこで初めて伏黒から連絡がきていたことに気がついた。いつ帰りますか、に始まりいくつかメッセージが送られていたが、からの返信がないことにしびれを切らしてか『帰ったら連絡ください』で締めくくられている。
 伏黒は、釘崎と一緒に帰ってくると思っていたに違いない。

「心配かけてごめんね、と」

 その一文を送って、この状況をどう説明しようかと思っているうちに、手の中のスマホが震えた。
 伏黒からの電話だった。が出るか出ないか迷っていると、ひょいとスマホを取り上げる手があった。その手は通話ボタンを押すと「なら僕と一緒だから、心配いらないよ」と言って、伏黒の返事も聞かずに電話を切ってしまった。

「悟さん」
「や、待たせたね。ん? 、それ彼シャツってやつ?」
「彼シャツ……?」

 が首を傾げる傍ら、虎杖が人形に殴られている。「わっ」と、驚くに対し、五条はのんびりとそれを眺めていた。

「悠仁~、こんなことで動揺してんじゃないよ」
「いまのは先生が悪くない!?」

 噛みつく虎杖を軽くいなして、五条が笑う。は胡乱な目を五条に向けた。

「生徒を揶揄うのも大概にしてくださいね。そんなだから、敬われないんですよ」
「……最強なのに?」
「最強でもです」

 五条が不貞腐れたような顔をするが、は前言を撤回するつもりはなかった。
 五条悟は自他共に認める最強の呪術師であり、自他共に認める美形であり、自他共に認める性悪である。最強であることをもってしても尊敬に値しないというのが、長い付き合いであるの所見である。

「俺は尊敬してるよ、先生!」
「さすが悠仁、わかってるね。まったく、恵といいといい、冷たいよねぇ……」

 よよよ、と泣き真似をしながら五条が虎杖に擦り寄る。三十路の、一九〇を超える大男がそれをやると、気味が悪くて薄ら寒い。

「茶番はやめて、本題に入ってください」

 悠仁、というのが花を供えたあの机の持ち主であることはわかっていた。特級呪霊と遭遇して死亡している、と五条が言っていたことを思い出しながら、は虎杖に視線を向けた。何が追々だ、いくら何でも秘密が大きすぎる。
 が冷たく告げれば、五条がため息を吐いた。

「わかってるよ。でも今日はもう遅いから、手短にね」

 肩を竦めた五条が、ひどく軽い調子で告げる。
 まるで、親しい友にするかの如く、おもむろに五条が虎杖の肩を抱いた。引き寄せられた虎杖はまんざらでもない顔をしている。

「悠仁は、特級呪物である宿儺の指を食べて、受肉しちゃったんだ」

 そして、今度はの肩を抱く。

は、人魚の肉を食べて、不老不死の身になった」

 は虎杖と互いに顔を見合わせる。
 なんというか──

「人魚の肉を食らう、か。人間の考えることはわからんな」

 虎杖の頬に現れた口が、小馬鹿にするように言った。ばちん、と虎杖の手のひらが頬を叩くが、その甲に再び現れた口がくつくつと笑い声を響かせる。

「ごめん、たまに出てくんだ」
「……宿儺が? そんなことって、あるんですね」

 はまじまじとその口を見つめた。
 にやりと歪んだ口元は、邪悪さを体現するかのようである。

「ただの人間が、永らえてどうする? 見せ物にでもなるつもりか?」
「……わたしは、」
、ストップ。宿儺の言葉に耳を貸さない、相手は呪霊だよ? しかも特級呪霊」

 五条の手がの口を覆い隠した。
 は素直に頷くが、その手が離れることはなかった。虎杖が、己の手をもう片方で押さえながら、不思議そうに五条を見上げる。

「じゃ、は寮に帰ろうか。わかってると思うけど、ここでのことは他言無用ね。悠仁もそろそろ休みなよ、おやすみ~」




 わたしは失敗作だから捨てられた。
 部屋の隅にうずくまって、泣きながらそればかりを繰り返していた記憶が、宿儺の言葉によって掘り起こされた。

 の緩慢な足取りに、五条が何も言わずに合わせてくれている。は、ぎゅうと五条の手を握りしめた。ふ、と五条が笑みをこぼす。

「普段からそのくらい可愛げがあればいいんだけどねえ」
「…………」
「ウソウソ、普段もは可愛いよ」

 立ち止まった五条が腰を屈めて目線を合わせ、の手を握り返してくる。
 は唇を噛みしめて、じっと五条を見つめた。伏黒に言ったことに嘘はない。は、五条のことをこの世で一番信頼している。
 幼子を褒めるように、五条の大きな手がの頭を撫でた。

「悟さんだけです、わたしを可愛いなんて言ってくれる人」

 子ども扱いを甘んじながら、は小さく笑った。






 の自己肯定感の低さは、桜川家の影響が強いのは確かだったが、五条にも一因があるのかもしれなかった。寮の玄関に駆けてきた伏黒だって、口にせずともを可愛いと思っているはずである。

「見てよ、恵。これぞ彼シャツ」

 冗談めかして言った五条を、射殺さんばかりの勢いで睨む伏黒を見れば、その好意など明白だ。しかし、ときたら「面白くないです」と、白けた顔をするばかりで伏黒の様子など微塵も気に留めていない。
 髪と同じくらいツンツンした態度の伏黒にを預けて、五条は寮に背を向ける。

 確かにはいろんなことに鈍い。多くのことに無関心で、様々なことに無頓着だ。だからといって、感情の機微がわからないわけではない。たぶん、自分を好きになる人がいるわけがない、と思い込んでいる。

 ちょっと、いやかなり、過保護にしてしまった自覚はある。
 悪い虫がつかないようにと、に気づかれないように多方面を牽制してきた。例えば、の中学の卒業式──ちゃんって、結構もてるんですよ。卒業式に告白されたりして?」と津美紀に言われて、行くつもりのなかった卒業式に顔を出した。そわそわとを遠巻きに見る男子は、一人や二人ではなかった。当の本人はそんなことに気づきもせず、五条が卒業式に現れたことに驚くばかりだった。

 思えば、バイト先の先輩とやらにも好意を抱かれていたが、恐らくはそんなこと夢にも思わないのだろう。普通の学生生活を送らせてやりたいと思いながら、青春を謳歌させてあげられなかったのかもしれない。若人から青春を奪うなんて、あってはならない。
 そうとわかっているが、五条は口をへの字に曲げた。

「……に彼氏、か。うーん、考えるだけで背筋が寒くなるね」

 娘を嫁にやる気持ちがわかるような気がした。


 五条がに出会ったのは、高専に入学してすぐの頃である。八歳の女の子。五条に子どもの扱いなどわかるわけがなかったが、彼女は自分に託された。そうでもしなければ、彼女はこの世に存在を許されなかった。
 ある日突然、は五条家の蔵に現れた。
 浴衣姿の幼女の出現に「座敷童」と騒がれ、五条の耳にも入ることとなった。そして、五条はを”視た”のだ。六眼に映る彼女は、人間とは言い難かった。

「わたしは失敗作だから捨てられた」

 は毎日毎日、飽きもせず、その台詞を繰り返して泣いていた。
 「おばあさまがわたしを蔵に閉じ込めた」「不老不死だけの力なんていらない」「未来予知ができなきゃ意味がない」と、要領の得ない拙い言葉を読み解くも、意味のわからないものばかりだった。けれど、根気よく話を聞いていけば、おぞましい事実がそこにはあった。

 桜川家は、件という妖怪の未来視の力がほしかった。しかし、その力を得た者は、予知したのちに必ず命を落とす。ならば、不老不死の身であれば、未来予知が繰り返しできるのではと考えた。
 そうして、件の肉のみならず、人魚の肉を合わせて──
 の兄たちは口にした瞬間に、ほとんど死んでしまったという。当然である。だがしかし、が食べたのは人魚の肉だけで、不老不死の力しか得られなかった。生きているだけで奇跡だというのに、彼女の祖母は「失敗作」とを疎んだのだという。

 「九郎に会いたい」ともはよく口にした。三つ年上の、一番年の近い兄で、彼は祖母の望み通りに不老不死で、未来予知のできる身になったらしい。
 それが事実ならば身の毛がよだつ話かつ、非常に危険だったが、の言う桜川家の存在は確認できなかった。だから、の話は子どもの戯言と大半は一蹴したし、五条だって鼻で笑って信じなかった。

 ふいについた傷が見る間に治るのを見るまでは、五条とて馬鹿馬鹿しいと思っていたのだ。
 の話が嘘だったとしても、彼女は紛れもなく、五条の目の前に存在していた。その力を目の当たりにした以上、野放しにはできなかったため、五条が面倒を見るほかなかったと言える。五条の手で保護しなければ、不死身の彼女がどうなるのかなんて、想像に容易かった。
 しかし、がただの子どもだったのなら、たったの八つの子を五条家は世に放っていたのだ。秘密裏に処理すらしていたかもしれない。自分を含め、つくづく腐った連中である。

 兎にも角にも、嫌々ながら、五条はを“一級呪物”として管理することになった。そう、五条は嫌だったのだ。子どもの相手なんてごめんだと思っていた。それがいまでは、こんなふうに情が湧いて、過保護なまでに世話を焼いているとは──人生、わからないものである。

 ふ、と五条は口角を上げた。
 人生なんて何があるかわからない。現に、彼女は八歳のままではなく、いまや成人女性である。はすでに色々と諦めをつけているようだが、五条は違う。

「簡単に諦めてなんかやるかよ」

 だったら初めから、五条はに手を差し伸べてなんかいやしない。

神も化け物のひとつ