ボキン、と骨の折れた音がして、棍を打ち込んだ真希が顔を歪める。「あ」と、は小さく声を上げ、だらりと下がった左腕に触れた。

「馬鹿、避けろ!」
「あは、面目ない……」
「笑いごとじゃねぇだろ、ったく……大丈夫か?」

 ため息を吐いた真希が気遣わしげにの左腕を見るが、すでに元通りである。は腕を動かして、何ともないことをアピールしてみせた。
 真希が再び棍を構えた。素人目にも、その立ち姿だけで真希が強いとわかる。
 避けるだけ、といえば容易く思えるが、は死なないだけでその運動能力は至ってふつうだし、なにかスポーツをしてきたわけでもない。避けようと思っても避けられなければ、咄嗟に手を出して身を守ってしまうのは致し方ない。

「そんなんじゃ交流会で使いもんになんねぇぞ」

 真希の言うことは最もである。
 不死身を隠す、つまり怪我が治ると知られてはいけない。小さな怪我ならば誤魔化すことができるが、骨折などの大怪我は隠すことは難しい。

「とりあえず、手ぇ出すな。行くぞ」

 と真希が対峙する傍ら、伏黒と狗巻、釘崎とパンダで組み手をしている。
 一年生の二人は近接が得意ではないらしいが、よりは遥かにマシである。呪術師である以上、基礎ができているのだろう。

 ヒュ、と風を切って棍の先が眼前を通る。真希の動きは速いが、避けることだけを考えれば、何とか──

「わっ」
「……!」

 運動不足がたたって、がくんと膝が折れる。真希が息を呑んだ。
 振るわれた棍の勢いは殺せずにそのままに向かい、鈍い音と共に腹部にめり込んだ。無防備で、やわらかい腹への衝撃は、内臓にまで伝わったらしい。吹き飛ばされた身体を起こしたと同時に、口から血が漏れ出てのジャージを汚した。

さん!」

 血相を変えた伏黒が駆け寄ってくる。
 顔をあげたは、彼がどうしてそんな顔をするのかわからなかった。きょとんとするを見て、伏黒がますます眉根を寄せる。

「真希~、もう少し優しくしてやれよ」
「しゃけ」
「ハア? 十分手加減してんだろ。いまのは不可抗力だ」

 パンダと狗巻に向かって、真希がフンと鼻を鳴らす。「うわ、痛そ~」と、遠目にこちらを窺う釘崎が、ぞっとしたと言わんばかりに二の腕をさすっている。
 伏黒の手が、をそっと抱き起こした。

「恵くん、わたしなら大丈夫だよ」
「……知ってます」

 そう言いながら、伏黒の指先がの口端についた血を拭う。「知ってても、心配なんですよ」そう告げる伏黒の顔は痛ましげに歪んでいた。
 はどう言葉をかければいいかわからずに、眉尻を下げて微笑んだ。





「ねえ、ジャージ買いに行かない?」

 部屋を訪ねてきた釘崎が、開口一番に告げた。てっきり、釘崎に嫌われているとばかり思っていたは、信じられない気持ちでぱちぱちと瞳を瞬く。
 黒いノースリーブワンピースは、釘崎によく似合っていた。いかにも、これからお出かけです、という格好だ。

「……アンタのジャージ、血で汚れちゃったでしょ」
「あっ、うん。ちょうどよかった、わたしも今日は出かけようと思ってたの」

 視線を逸らしながら言う釘崎に、はにこりと笑いかけた。こういう釣れない態度は、どこか昔の伏黒に似ていて、慣れっこだった。

「アパートの引き渡しとかあるから、買い物が終わったら別行動になるけど、いい?」
「いいわよ」
「じゃあ、行こう。可愛いジャージが見つかるといいね」

 は鞄を手にして、廊下へと出る。ぎし、と軋む音に振り向けば、伏黒が立っていた。

さん、出かけるんですか?」
「フン、悪いわね伏黒。羨ましくたってアンタは入れてやんないわよ」
「羨ましいとか、一言も言ってないだろ……」
「野薔薇ちゃんと買い物に行ってくるね」

 喧嘩腰の釘崎に対し、伏黒がため息を吐く。
 同じ一年生と言えど、まだ過ごした時間は長くない。まして、異性である同級生と、それほど仲がよくなくても不思議ではなかった。はそんなことを考えながら、伏黒に答えた。
 ちらりと釘崎を見てから、を見下ろした伏黒の瞳は、心配に彩られていた。

「気をつけてくださいね」
「大丈夫だよ」
「……気をつけてください」

 伏黒が語気を強めたので、はへらりとした笑みを消した。

「わかった、気をつけるね」

 はそう言って頷いたが「ほんとにわかってんのかな」と、伏黒が呆れたふうに呟いた。ここまで釘を刺されると、如何にが普段から注意力散漫であるかを思い知らされるようだった。いや、いくらでもそこまで抜けているつもりはない。
 釘崎が腰に手を当てて、深いため息を吐く。

「伏黒アンタ、過保護すぎない? どっちが年上かわかんないわよ」

 ぐ、と言葉を詰まらせた伏黒を、は責めるように見つめた。そうだそうだ、ちょっとは信用しなさい。


 思えば、同年代の友人とこんなふうに買い物を楽しんだ記憶が、にはなかった。大学では、それなりに人付き合いというものをしていたが、それらは上辺だけのものに過ぎない。
 この身は、呪霊を引き寄せてしまう。
 呪霊を見ることすらできない彼らを、巻き込むことだけはしたくなかった。

? さん? なんて呼べばいい?」
「好きに呼んでくれていいよ」
「ふーん、じゃあで。私も野薔薇でいいわよ」

 第一印象は決していいものではなかったはずだが、釘崎の態度はだいぶ砕けていた。曰く、弱い者いじめは趣味じゃない、とのことである。
 互いに色違いのジャージが入った紙袋を手にしながら、クレープにかぶりつく。
 唇についたクリームを指で拭い「野薔薇」とは小さく、その名を舌の上で転がした。悲しいかな、敬称をつけない関係である人が、にはいない。気恥ずかしさを誤魔化すように、はクレープを口にする。

「で、本命は?」
「……え?」

 本命、と首を傾げるに向かって、釘崎がにやりと口角を上げる。

「五条先生? 伏黒? はたまた狗巻先輩?」
「ちょ、え、なに……」
「ああ、彼氏がいるって可能性も──

 釘崎の言葉が途切れる。クレープを口にしたのかと思ったが、そうではなかった。の顔を見た釘崎が、小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「ないわね」

 図星である。ぐうの音もでない。
 の顔は真っ赤だった。




 釘崎の追及から辛くも逃れ、は無事にアパートの引き渡しを終えた。疲労感がひどい。
 急に高専に編入することになったせいで、やり残したことが多々あったが、これでひと段落である。大学の諸々の手続きは”保護者”である五条に一任していた。
 二年ほどお世話になったアパートに背を向け、通い慣れたバイト先までの道を歩く。

 あまりに突然辞めることになってしまったので、迷惑をかけたことを詫びようと思っていたのだが──バイト先のファミレスは閉店していた。どうやら、店内で火事が起きたらしく、壁が黒く焼け落ちていた。
 花が添えられていることから、死者も出ているようだ。は呆然と立ち尽くした。

「どうして……」

 は慌てて花を買ってきて、そこにそうっと供えた。
 死ぬことは、にとっては日常の一部だ。ただし、それは己の死に限る。
 少し前まで一緒に働いていたバイト仲間が、亡くなった。すう、と背筋が冷たくなる感覚がした。は手を合わせて、黙祷を捧げる。

 人は死ぬ。いつか、五条だって──
 ふと過ぎった思いに、は唇を噛みしめた。

 人魚の肉を食らったと言われる八百比丘尼は、八百歳まで生きて食を断つことで命を絶ったらしい。は、いつまで生きるのだろうか。いまのところ、の身体は年相応に成長している。
 未来を考えると気が遠くなりそうだった。
 友人を作ることすら難しいが、恋人など作れるわけがない。


「そもそも、わたしに好意をもってくれた人なんていたかな? 告白されたことなんてないし……あーあ、津美紀ちゃんみたいに可愛かったらなぁ」

 は唇を尖らせながら、津美紀の髪にドライヤーを当てる。綺麗なままの黒髪を優しく指で梳いて、やわらかいその感触を確かめる。は指先を髪の毛から、津美紀の頬へとスライドさせた。
 ドライヤーを止めると、病室に静寂が訪れる。

「津美紀ちゃんはね、笑っている顔が一番かわいいの」

 答える声はなかった。津美紀の瞳は閉じられたまま、ぴくりともしない。

「だから、ニコニコしてる津美紀ちゃんが、早く見たい」

 は津美紀の頬を撫でながら、微笑みかけた。最後に前髪を整えるように指先で撫でてから、名残惜しく思いつつ、は病室を後にする。
 話したいことが多すぎて、つい面会時間限界まで居座ってしまった。すっかり日が暮れている。

 の記憶の中で、津美紀はいつも笑っていた。その笑顔が消えてしまって、まるで太陽がなくなってしまったような気持ちだ。ふと、見上げた空は、街灯で照らされるばかりで月が見えなかった。






 月がなくて、街灯の少ない道は、薄ら寒く思える暗さがあった。
 は立ち止まることなく、背後の気配を探った。纏わりつくような視線が、病院を出た辺りからずっとついてきている。早く高専に戻らなければ、とは歩く速度を上げた。
 その存在に気がついている、と知られてはならない。に呪霊が見えると知って、五条が一番初めに教えてくれたことだ。

 呪霊と出くわす頻度が、確かに増している。
 自分のせい、と五条は言っていたが、その言葉をは鵜呑みにしたわけではない。

「…………」

 五条が高専で、に身を守る術を学ばせるつもりだということはわかっていた。
 には術式がない。は呪術師ではないから、それでもよかった。自身は、いまだってそれで構わないと思っている。もし、呪霊に取り込まれてしまったとしても、そういう運命なのだと諦めがつく。
 むしろ、そのほうが──

「……!」

 後ろにいたはずの呪霊が、顔を覗き込んでいた。反射的にのけ反ってから、しまったと思う。呪霊の顔がにやりと歪むのがわかった。
 は舌打ちしたい気持ちを堪えて、駆け出した。

 高専までの距離はさほど遠くはない。
 真希たちのしごきのおかげで、以前よりも随分と体力がついている。運がよければこのまま逃げ切れる、かもしれない。
 くすくすと笑う声が、遠ざかりも近づきもしない。
 ──呪霊は、楽しんでいる?

 そうと気づいて、は眉をひそめた。そういえば、とは考えながら足を止めた。
 これまで、生きてきて運がよかったことなんて、一度としてあっただろうか。

 振り返った先には、静まり返った闇があるだけだ。不思議と虫の声のひとつも聞こえない。は、その闇を睨みつける。恐怖などにあるわけがなかった。
 ふわ、と生ぬるい風がの頬を撫でて、髪の毛を攫った。

「殺せるものなら殺してみなさいよ」

底なし夜の遠泳