「ハイ、じゃあ自己紹介してー」
パチン、と手を叩く五条を横目に、はなるべく愛想よく微笑んだ。
「桜川です。皆さんより少し年上ですが、仲良くしてくれると嬉しいです」
「……五条先生?」
「少しとか濁す必要ある? は今年で二十歳。昨日まで大学生だったんだけど、今日から君らの同級生でーす」
「いや、五条先生……どうしてさんが」
口を挟む伏黒に向かって「じゃあ次、恵の自己紹介ね」と、五条が笑いかける。まるっと無視された伏黒が、顔をしかめてため息を吐いた。
「……伏黒恵。お久しぶりです、さん」
は頷くにとどめる。
もうひとりの一年生は、も知らない女生徒だからだ。内輪の雰囲気を感じ取ってか、白けた顔をしている。
「釘崎野薔薇。ピッチピチの十六歳よ」
明らかに挑発されている。は微笑みを浮かべたまま、ほんのわずかに眉尻を下げた。仲良くやっていけるか不安である。
「じゃ、。そこに座って」
「……はい」
椅子に座ったは、ちらりと教室内を見やった。教室内にはたった四席しか机がないうえ、そのうちひとつは空席である。五条の言っていた、特級呪霊と遭遇して死亡したという生徒の席なのだろう。花瓶に白菊が活けられていた。
その生徒のことは何ひとつ知らないが、なんだか寂しい気持ちになったは目を伏せた。
不老不死であるにとって、死はある意味で身近でありながら、一番遠いものだ。
首を跳ねられても、心臓を潰されても、の身体はすぐに回復して欠損した部分もあっという間に元通りだ。
恐怖も危機感もない。いろんなことには鈍い。だからって、昨夜のような五条の当てこすりを許すつもりはなかった。望んでこうなったわけではないのだ。
視線を感じて、は伏せた瞳をそちらへと向けた。目が合うと、伏黒が気まずげに視線を逸らす。
──伏黒恵を覚えていないわけがない。
にとって伏黒は、家族にも等しい存在である。初めて伏黒に会ったのは彼が小学一年生の頃だった。年の近い子どもがいたほうがいいと五条がを連れて、伏黒と彼の義姉が住む家を訪ねた。伏黒は、まったくもって小学一年生らしくない少年だった、とは記憶している。
五条が伏黒の後見人となり、それからは彼とその義姉津美紀と過ごす時間が増えた。とっつきにくい伏黒よりも、津美紀とが親しくなるのは、ごくごく自然なことだった。とはいえ、伏黒ともそれなりに打ち解けていたつもりである。
もっとも、が高校進学と共に五条家を出てからは、顔を合わせる機会もめっきり減ってしまった。津美紀の見舞いに病院へは足を運んだが、伏黒と一緒になることは数える程度だったし、そもそも講義やバイトであまり見舞いにも行けていない。
は伏黒を弟のように思っていた。
けれど、気がつけばすっかり背を抜かされたし、声変わりもしてしまった。
久しぶりに会った伏黒は、何だか知らない男のひとみたいで、を落ち着かなくさせる。は前を向くと、ぎゅっとシャーペンを握りしめた。
チャイムが鳴り終わるより早くガラッと開け放たれたドアを見て、五条が「気が早いねぇ」と、のんびりと言った。驚く様子もないところを見るに、想定内だったのだろう。
「おお、ホントにいる」
「制服着てるぞ」
「しゃけしゃけ」
聞き覚えのある声に振り向けば、二年生たちが我が物顔で教室に足を踏み入れるところだった。
「よ、。久しぶりだな」
「真希ちゃん」
「最近見ないと思ったら、生徒になるなんてな」
「パンダくん」
「昆布」
「棘くんまで……わざわざ教室に来なくてもいいのに」
は苦笑を漏らしながら、きょろきょろと辺りを見やる。二年生は四人のはずだが、ひとり欠けている。
「憂太はいま海外」
ぽん、と五条の手が頭に乗った。かと思えば、まるでひじ掛けのようにして腕を乗せ、軽く体重をあずけてくる。はむ、と眉をひそめて五条を見上げた。
が文句を言うより早く、伏黒がその腕を払い除けた。
急に重みを失くしてふらついたの身体を、伏黒の手が支える。肩を掴むその手が、思った以上に大きい。は驚いて、つい伏黒の手をまじまじと見つめてしまった。
「五条先生、きちんと説明してください」
「ん?」
「どうしてさんが──」
ガタン、と荒々しい音を立てて、釘崎が席を立った。伏黒の声が遮られる。
教室内の視線を集めた釘崎は、実に堂々としていた。
「先輩たちとも知り合いってわけ? ふぅん……」
大股で近づいてきた釘崎が、じろじろとを上から下まで見て「勝負しなさいよ」と、人差し指を突きつける。思わず後ずさりそうになるが、背後には伏黒がいて身動きが取れない。
「さぞ、強いんでしょうね?」
にや、と釘崎が挑発的に口端を上げる。
呆気にとられるを、五条がニヤついた顔で見下ろしていた。教師なら生徒をうまく仲裁してほしい。
「ちょ、ちょっと待って、野薔薇ちゃん。勝負だなんて物騒な……」
「逃げんじゃないわよ」
「う、いや、その……悟さん、黙ってないでちゃんと説明してください!」
「あれ? そこは『悟先生、助けて~』でしょ」
五条がしなを作って、甲高い声を上げた。冷ややかな視線が突き刺さってなお、くねくねしながら五条がにすり寄ってくる。
は無言で五条の足を踏みつけた。
「気色悪いな」「ああ、気色悪い」「しゃけ」と、二年生が身を寄せ合って囁いている。伏黒も引きつった顔をして、と五条からわずかに距離を取った。生徒たちからひどい扱いを受けながら、五条がへらりと笑った。
「、足。足踏んでる」
「悟先生、助けてー」
は棒読みで言って、足を退かした。
「しょーがない。んじゃ、野薔薇。よーく見てて」
「痛っ……」
おもむろにの手を取った五条が、どこからか取り出したハサミの刃を指先に押し当てる。
ぎょっとした釘崎が慌てての手を掴んだ。
「なッ、何して…………え?」
じんわりと血が滲んだ傷口が、瞬く間に癒えていった。釘崎が、傷ひとつない指先を凝視している。そうして、信じられないものを見るように、の顔を見た。
の手を掴む指先に震えが走る。
見開かれた釘崎の瞳の中に、の困ったような顔が映っている。
こんな目を向けられるたびに、は自分が普通ではないのだと思い知らされる。
「はねぇ、人魚の肉を食べて不老不死になったんだよ」
「…………はあ?」
「だからたぶん、僕でもは殺せないよ。死んでも生き返る、っていうのが正しいかな」
チートじゃん、と吐き捨てるように呟いて、釘崎が手を離した。そして、その手を腰に当てると仁王立ちするかのような迫力をもって、五条を見上げた。
「じゃあ交流会では、期待していいってこと?」
「いやいや野薔薇、みたいなのを大っぴらにできるわけないでしょ? はこう見えて、五条家預かりの”一級呪物”だからね」
五条がにこやかに告げながら、の両肩を後ろから掴んで自身のほうへと軽く引き寄せた。とん、と後頭部が胸元に触れる。
ぎゅっと眉根を寄せた釘崎が、首を捻る。
「意味わからん」
「ま、とにかくは不死身ってコトを隠さないといけない。これがにとっては難題なんだよねぇ」
ため息を吐いた五条が、の頭に顎先を乗せる。
「は危機感もないし、いろんなことに無頓着。肉を切らせて骨を断つ、を地でやっちゃうから」
ぐうの音も出ないは、大人しく五条の顎を受け止めた。
伏黒がもの言いたげにこちらを見ている。真希たちは相変わらず、なんやかんやと膝を突き合わせて言い合っていた。
眉間に皴を刻んだまま、釘崎がぴくりとこめかみを引きつらせる。
「どうでもいいけど五条先生、いくらなんでもくっつきすぎでしょ!」
ぐいっ、と釘崎がを引き寄せ、五条を睨んで威嚇する。五条が軽く肩を竦め、わざとらしくホールドアップして見せる。いちいち芝居がかった仕草である。
「そういうことなんで、交流会でを戦力に数えないでね」
「雑にまとめすぎだろうが!」
釘崎が地団太を踏んだ。
いそいそと帰り支度をしていると、ふと影が落ちた。は顔をあげる。
「結局あの人、肝心なところをぼかしていったな」
「肝心な?」
「さんが、高専に編入した理由。なんでいまさら高専に?」
「うーん? 悟さんのせい、みたいに言ってたけど……べつに、理由なんてそんなに大事なことでもないよ」
「……さん、大学に通っていたんですよね?」
伏黒が不可解そうに眉をひそめた。は眉尻をほんのわずかに下げて、その顔を見つめるほかない。
言いたいことはわかる。
伏黒は、五条の身勝手に振り回されるが不憫だと思っているようだが──その実、という存在こそが五条を振り回しているし、彼の瑕になっているのだ。
それを思えば、大学を中退することも、バイト先に迷惑をかけることも、なんてことはない。
「大丈夫。わたし、この世で一番悟さんのことを信頼しているから」
「え……」
「好きではないけどね」
は笑って席を立った。
納得のいかない顔をしている伏黒に手を伸ばし、はその黒髪に触れた。昔は、この頭を撫でると嫌そうな顔をしたものだが、いまでは手が届かない。
「背、伸びたね。恵くん」
「……なんですか、いまさら」
眉根を寄せた伏黒が、やさしくの手を払った。かと思えば、そのまま手首を掴む。伏黒の手のひらの熱が伝わってくる。
伏黒の眼差しは、真摯だった。
「頼むから、無茶だけはしないでくださいよ」
は頷くこともできずに、曖昧に笑った。
「あのひとのこと、好きなの?」
その声だけで面白がっているのがわかって、伏黒は耳を貸さなかった。
好きか嫌いかと問われれば、もちろん好きだ。
は、伏黒と津美紀にとっての味方で、もはや身内のような存在である。顔も覚えていない父親よりもよほど、過ごした時間が長いし、親しみを感じる。五条は年が離れているうえ、性格に難もある──後見人となってくれたことには感謝しているが、好ましく思うのは五条よりものほうだったのは致し方あるまい。
津美紀とたった二人で身を寄せ合う他なかったところに、急に割り込んできた他人だった。初めは、ひどい態度も多々とったものだが、それでもは親しげに名を呼んで笑いかけてくれた。
いつしか芽生えた情が、津美紀に対するものと別なのかどうかなんて、幼い伏黒にわかるわけがなかった。
”わたしね、春からひとり暮らしすることになったんだ。よかったら遊びに来てね。”
がそう言ったのは、伏黒がまだ中学生になる前のことだった。少しずつ、顔を合わせる機会が減っていった。津美紀はよくの住むアパートを訪ねていたようだったが、伏黒は行かなかった。思春期とか反抗期とか、色々なものが邪魔をして、会いたいという気持ちに素直になれなかったのだ。
顔を合わせなくても、津美紀からの話を聞くため、それほど距離ができたようには思っていなかった。
だから、病院でと顔を合わせたとき、彼女の小ささに驚いた。いつも見上げていたはずの顔が、自分の目線よりも随分と下にあって、伏黒は軽い衝撃を受けた。
昔と変わらずに「恵くん」と笑いかけるその顔がふにゃりと崩れていくのを、伏黒は信じられない気持ちで見ていた。ぎゅうと抱きつくの背に、手を回したのかどうか記憶にない。ただ、彼女の涙で胸元が濡れていく感触だけを、伏黒は覚えている。
「ま、どうだっていいけど。恋愛にかまけて腑抜けになるのだけは勘弁してよね」
伏黒に応える気がないと知って、釘崎が大きなため息を吐いた。
唇を結んだまま、伏黒は空席へと視線を向ける。言われなくてもわかっている。無茶をしないでほしいと言ったのに、首を横にも縦にも振らなかったを思い出しながら、伏黒はぐっと拳を握りしめた。