事の始まりは、数週間ほど遡る。
 月のない夜だった。
 随分日が長くなったとはいえ、夜の八時を回れば辺りはすっかり暗い。ファミレスのバイトは大学に入学した頃から続けており、もう二年目である。夜道を歩くのは慣れっこだった。虫の声がよく聞こえるようになってきたな、とは蛾が飛び回る街灯を見上げながら思う。

 蝉が鳴くのも時間の問題だろう。太陽が隠れてしまっても、頬を撫でる風に冷たさはない。近づく夏の気配に、はすこしだけ憂鬱な気分になる。暑いのは苦手だし、何より長期休みになにをすればいいのかわからない。
 角を曲がった先で、は足を止めた。

「悟さん……」

 ガードレールに腰を掛けていた五条が、に向かって片手を上げる。まるでいま気づきました、といわんばかりの態度だが、角を曲がる前から近づくには気づいていたはずだ。

、尾けられてるよ。知り合い?」
「え?」

 天気の話でもするような気軽さで五条が言うので、は尾けられてる、の意味が一瞬わからなかった。駆ける足音が近づいてきて、ははっと振り向く。

「桜川さ……!」
「えっ! あ、は、はいっ」

 は反射的に背筋を正した。慌てた様子で曲がり角から飛び出してきたのは、ファミレスで働くバイトの先輩だったからだ。

「き、危険だ! 今日の桜川さんは”いつもよりずっと”危ない感じがするんだッ」
「……あぶない?」

 は首を傾げる。悟さんのことかな、とはちらりと五条を見やった。
 一九〇cmを超える長身の男が目隠しをしている姿は、さぞ危険に見えるのかもしれない。知り合いだから心配ない、と事情を説明するより早く「面白いねぇ」と五条が呟いた。

「へえ、そう。今日のは”いつもよりずっと”危ないんだ」
「ちょっと悟さん、」
「当たらずともいえども遠からず、ってトコかな。よりはずっと鋭いよ、君」
「バイト先の先輩なんです。失礼を働かないでくださいよ」

 ぐいぐい五条が先輩に近づくので、は身を滑り込ませた。

「すみません、あの、悟さんは」
「彼氏。だから、君にはお帰り願おうかな」

 なんて息を吐くように嘘を吐くのだ。はいかにも親しげに肩を抱いてくる五条を、うんざりした顔で見上げた。

「さ、桜川さん……」
「え、っと……すみません、悟さんがいれば何も心配ありませんので……」

 納得いかない顔をしていたが、五条の有無を言わせないもの言いに屈したのか、先輩が肩を落としながら踵を返した。とぼとぼとその背が角を曲がるのを見送ってから、は肩に回った五条の手を払い除けた。
 「よく回る口ですね」と嫌味をぶつけるが、五条は気にも留めていない。

、最近どう?」
「どうって?」

 は肩を手で払いながら、五条を振り返る。

──いつ死んだ?」

 他人が聞けば一笑するような、おかしな問いかけだった。いつも何も、は生きている。心臓は脈打っているし、呼吸もしている。
 は静かに五条を見つめた。

「昨日」

 ぬるい風が、の髪を攫った。五条がやれやれと、大袈裟にかぶりを振ってみせる。

「じゃあ、昨日の今日ってわけだ」

 五条の人差し指がの背後を指した。
 息を呑んでが振り返ったときには、残骸すらも残っていなかった。そこにあるのはただの暗闇だ。けれど、確かに何かが存在していた。
 思わずたたらを踏んだの身体を、五条の手が受け止める。

「やっぱり、こうなってる気はしたんだよねぇ」
「……悟さんのせい?」
「んー……そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
「悟さんのせいなんですね」

 はじろ、と五条を睨んだ。「まあまあ、こうして様子を見に来てあげたじゃない」と、五条が笑って気安い仕草でを抱き寄せる。
 恩着せがましい言い方に腹が立つが、五条がいなければは”また”死んでいたのだろう。

「というわけで、。明日から呪術高専に編入してもらうよ」

 どういうわけかわかるわけもなかったが、は頷いた。
 どうせには何の決定権もないのだから、詳しい理由を聞く気にもなれなかった。五条のもの言いたげな視線に気づいて、はふいと顔を背ける。

 彼が、なるだけに普通の生活をさせたいと思っていることは知っている。
 けれど、はそんなことは、とうの昔に諦めていた。

「大学、辞めることになるけど大丈夫?」
「はい」
「バイト先にも迷惑かけちゃうねえ」
「そうですね」


 気のない相槌を打っていたが、五条が急に真面目なトーンで名前を呼ぶので、は仕方なく振り向いた。

「君には文句を言う権利がある。恨み言だってね」
「……」
「まっ、もちろん断る権利はないんだけど」

 ぽん、と五条の手がの頭に乗って、犬猫に対するような手荒さで撫でていく。
 は唇を尖らせて、乱れた髪を手櫛で直す。五条に対する文句なら山ほどある。あるにはあるが──それよりもずっと、感謝の気持ちのほうが大きい。とはいえ、それを本人に伝えるつもりはないので、はむっつりと口を結んだ。

「わかってる? 、明日からJKだよ、JK」

 二十歳を迎えたには、暴力的な単語だった。




 五条が教師を務める呪術高専には、何度かお邪魔したことがあった。大抵は、あれ買ってきて持ってきてという五条の使い走りだったのだが、こうして生徒として足を運ぶ日が来るとは思っていなかった。
 長い階段を上り切ったところで、は自身の恰好を見下ろした。

 まさかこの年になって制服に袖を通すことになるとは。
 勝手に用意されていた制服は、真希のようなタイトなものではなく、サイドにひだが入ったタイプで膝も隠れている。五条なりの配慮なのかもしれないが、もっと違うところに気を利かせてもらいたいものだ。たった一夜のうちに色々と準備を済ませたを労わってほしいものだが、五条といえばキャリーバッグのひとつも持ってくれない。

「何ボーっとしてんの。置いてくよ」

 はため息を呑み込んで、頷きを返す。

「……あのさぁ、。君には可愛げってものがないの?」
「はい?」
「『もう腕疲れちゃったぁ、悟さんお願い』って、言ってごらんよ」
「……お断りします」

 は顔をしかめ、ごみを見るような目で五条を見た。五条が「なんて顔してんの」と、呆れたふうに言っての手からキャリーバッグを攫った。

「意地張るのも大概にすること。いい?」

 うんともすんとも言わずにいれば、五条がの鼻先に人差し指をくっつけた。

「僕は君の先生になるんだから、ちゃんと言うことを聞きなさい」
「…………わかりました」
「その間が気になるけど、まあいいや。学長への挨拶は後でいいから、寮に向かうよ」
「悟さん」

 の呼びかけに、五条が首だけで振り返る。

「悟先生って呼んだらいいですか?」

 は真面目に問いかけたつもりだったが、面食らった顔をした五条は、二の句が継げないようだった。はわざわざ先生になる、と口にしたのは五条なのにと首を傾げる。

「うーん、よからぬ誤解を受けそうな……」
「ああ、悟さんのお人柄ですね」
ちゃーん? サラッとひどいこと言うよね、傷つくなあ」

 胸を押さえる五条を横目に、は寮へと歩き出す。立ち尽くしていた五条が、立った一歩での横に並んだ。足の長さが妬ましい。



 寮の玄関前で五条が立ち止まる。

「呪術高専へようこそ」

 スタイルや顔がよすぎると、何気ない一言でさえも映画のワンシーンのようで、癪である。歓迎するという口ぶりだが、別には来たくて来たわけではない。
 はうんざりした顔で五条を見上げながら、昨夜のことを思い起こした。



 の住むアパートに当然のごとく上がり込んだ五条は開口一番に「色気のない部屋だね」と言い放った。放っておいてほしい。

「今年の一年生はで四人目。そのうちのひとりは……まぁ追々話すけど、特級呪霊と遭遇して死亡してる」
「……特級?」

 思わず、荷物をまとめる手が止まる。
 は呪霊や呪術師について、最低限の知識は持っている。通常は呪霊と同等級の呪術師が任務に当たるはず──とはいえ、特級呪術師は五条を含め、日本にはたった三人しか存在しない。ことあるごとに、五条の自慢話を聞いていたはそれを知っている。
 「追々ね」と、五条がの疑問を封じてしまう。は頷いて、再び手を動かした。

「特級はその名の通り、特別な等級で呪霊の最上位だ。本来は、そうそう出くわすこともないんだけど……そう呑気なことも言ってられなくなってね」
「はあ……」
「他人事みたいに言ってるけど、君の身も安全じゃないってコトだからね。死ななくても、取り込まれる可能性はある」
「それで、どうして悟さんのせいなんです?」

 ばたん、とキャリーケースの蓋を閉めて、は首を傾げた。
 五条が壁に預けた背を離して「ま、それも追々」と、言葉を濁した。五条の秘密主義はいまに始まったことじゃない。は頷いて、欠伸をひとつ零した。

「は~ヤダヤダ、相変わらず不老不死だからって危機感も何にもないよねぇ君」
「…………」
「さながら現代の八百比丘尼だよ、ほーんと。人魚の肉を食らうなんてさ」
「食べたのが悟さんだったら、不老不死のうえ最強でしたね。わあすごい」

 好き好んでこんな身体になったわけではない。
 はにこりと笑ったまま、五条の背を押しやった。

「では、また明日。わたしはお風呂に入って寝ます」

「まさかここに泊まろうなんて言いませんよね? いくら悟さんでもそんなこと」


 ぐいぐい押しても、五条の身体は少しも動かなかった。それどころか、くるりと身体を反転させてと向き合った五条が、両手で頬を挟んでくる。親指が目尻をなぞって、じんわりと滲んだ涙を拭う。

「……欠伸のせいですよ」
「知ってるよ」
「だったら、その顔やめてください」

 五条が苦笑を漏らす。罪悪感を滲ませたまま。

「ごめんごめん。冗談で言うことじゃなかったね」

 五条の大きな手が、の頭を撫でる。「」と、やさしげな声が降ってくるが、は絆されるつもりはなかった。不機嫌な顔を五条に向ける。

「謝るから、泊めて?」

 こてん、と首を傾げる五条をは白い目で見つめた。齢三十近い男がやる仕草ではない。
 しかし、これ以上の問答は時間の無駄と判断したは、仕方なくソファを使わせてあげたのだった。我ながら慈悲深い。


 結局、「追々」と言うばかりで五条から碌な説明もなかった。元々期待していなかったので、別段は気にしていない。五条のことは正直好きではないが、信頼はしている。

「そうそう、。伏黒恵って覚えてる?」
「恵って……恵くん?」
「言い忘れてたけど、恵も高専の一年生なんだよね~」

 はじろりと五条を睨んだ。言い忘れていたのではなく、あえて言わなかったのは、ニヤついたその顔を見れば一目瞭然だった。
 前言撤回。は五条のことが嫌いである。

あやまちの化身