「んー……遅刻確定だけど、しょうがないか」
のんびりとした口調に瞬きをひとつ、虎杖の視界がぱっと切り替わった。疑問や驚きを口にするより早く、虎杖の身体は動いていた。呪力の乗せ方などわからないまま、拳を振るった。
「大丈──」
確かな感触を手に覚えながら振り向いて、虎杖は言葉を失った。
どっと汗が吹き出す。間に合ったと思ったのに、少女の腹にはぽかりと穴が空いて、向こう側が見えていた。よろめいた少女の口から、多量の血が吐き出される。
「っ……!」
崩れ落ちる少女の身体を抱き留める。
この傷が致命傷であることは、誰の目にも明らかだった。だというのに、虎杖をこの場に連れてきた五条は焦りも何もなく、至っていつもの調子のまま呪霊を払っている。
──呪いに遭遇して普通に死ねたら御の字、ぐちゃぐちゃにされても死体が見つかればまだましってもんだ。
かつての五条の言葉によれば、彼女はまだよいほうと考えるべきなのだろうか。虎杖はグッと奥歯を噛みしめて、飄々とした五条の背を見つめた。腕の中で、少女がわずかに動いた気がして、虎杖は視線を落とした。
ヒューヒューと細い息を吐き出す口元が、わずかに緩んだように見えた。
血に塗れた指先が、虎杖の頬に伸びる。何かを伝えようとしていると気づいて、虎杖は彼女の唇に耳を寄せた。
大丈夫、と小さく聞こえたような気がした。それは、虎杖の願望による幻聴なのかもしれなかった。だって、大丈夫なわけがないのだ。
ハッとその顔を見下ろしたときには、少女は息絶えていた。目を閉じたその顔を、五条がひょいと覗き込む。「ああ、ちょっと遅かったね」と、呟くその声が、どこまでものんびりしている。それが腹立たしいのか、それとも己の力のなさが憎いのか、腹の奥底が熱い。
虎杖は救えなかった命を前に、ぎゅうと目を瞑る。
「ほう……なるほど。呪物そのものと言ったところか」
ふいに頬から声がする。ばちん、と半ば反射的に虎杖は自分の頬を叩いた。
「クククっ、小僧。目を開けてみろ」
頬にくっついたままの手の甲から、また声がする。
その声に従うのも癪だと思いながら、虎杖は目を開いて、息を呑んだ。
どこからか取り出したハンカチで口元を拭いながら、少女が虎杖の腕の中から抜け出す。怪我のひとつも負っていない、と言わんばかりの白い腹が、破れた服から覗いていた。
「…………どゆこと?」
虎杖は呆然と呟く。
虎杖を見つめる瞳が街灯を反射して、金色に光った。少女が綺麗になった口を開く。
「こういう身体なんです」
「……こういう」
虎杖は口にしながらも、まったく理解が及ばなかった。不躾とわかっていながら、少女の腹をじろじろ見てしまう。華奢で、やわらかそうで、白い肌──虎杖の視界を、五条の手のひらが遮った。
「悠仁のエッチ」
「エッ……!? ち、ちが……ていうか先生、落ち着いてんね!?」
「悟さん、人が悪いですよ。わざと見殺しにしましたね」
少女の呆れ果てた声に「だって、見たほうが早いでしょ」と、五条があっけらかんと答えた。虎杖はたっぷり時間をかけて、少女と五条が知り合いなのだと思い至る。
視界が開けた先、五条の上着を纏った少女が申し訳なさそうに眉を八の字にしていた。
「悟さんがいつもすみません」
「、僕だって迷惑ばっかりかけてるわけじゃないからね?」
「自覚がないなんて最低です」
と呼ばれた少女は、五条をじろりと睨んだ。
「ところで、なんではこんな時間にほっつき歩いてるんだい? 見殺しにしたって言うけど、どう考えても自業自得だし、どうせ僕が来なかったら死んでたデショ」
「……アパートの引き渡し日だったんです。他にも色々していたら、遅くなってしまって」
ふい、と背けるその顔はどこかばつが悪そうだ。虎杖は、五条ととを見比べる。
もしかして兄妹、いやでも悟さんと呼ぶのもおかしい、ならば恋人? いやいや恋人を見殺しにするわけ──五条ならやりかねない、と思ってしまった虎杖は、慌ててかぶりを振った。いやまさか、そんな、いくらなんでも。
「そうそう悠仁。いずれ紹介しようと思ってたんだけど、実は一年生がひとり増えたんだ」
「えッ!?」
「この子は桜川。宿儺の言うように、は”一級呪物”扱いで、五条家が預かっている……つまり僕が面倒を見てる」
「呪物? え、なに、どういう?」
目を白黒させる虎杖に、五条がにっこりと笑う。
「ま、こんなところで長話もアレだから、詳しい話はまた今度。学長を待たせてるからね」
虎杖は思わず、と顔を見合わせた。「やっぱり迷惑ばっかりかけているんじゃないですか」と、が五条の背中を小突いた。