やけに重たい瞼を押し上げると、視界はぼんやりと靄がかかったようだった。シルヴァンは眉を顰め、何度か瞬きを繰り返す。「あら」と、近くから声が降ってきた。
まだぼやけた視界の中に、白くてやわらかそうな膨らみが映る。
「シルヴァン、あたくしの顔はそこではなくってよ」
シルヴァンは、おもむろに視線を上へとずらした。
そうするうちに、視界も明瞭になって、マヌエラの呆れた顔がよく見えた。状況を把握するより早く、シルヴァンはへらりと笑った。
「いやあ、仕方ないでしょう。男ってのはそういう生き物です」
「減らず口を叩く元気があるなら、大丈夫そうね。痛むところはないかしら?」
鼻をつく薬品の匂いといい、マヌエラといい、薄々気づいていたがどうやらここは医務室らしい。マヌエラの手を借りながら身を起こし、そうして初めて足元の存在に気がついた。
椅子に座ったまま、寝台に顔を伏せたが小さく寝息を立てている。
マヌエラが水を差し出しながら、くすりと笑った。
「夜通し付いていてくれたのよ、感謝なさい」
シルヴァンは水を飲むことで、何かを答えることを避けた。
マヌエラが手早く診察を終えて「傷跡もないし、発熱もなし。問題ないわね」と、頷く。
医務室の世話になるほどの怪我を負ってしまうとは、情けない。このご時世、いつ死んでもおかしくはないし、それなりの覚悟を持って戦場に立っているつもりではある。シルヴァンは、の髪にそうっと触れる。
ただ、を遺して逝くだなんて、考えたくもない。
「が目覚めるまで、寝台は貸してあげる。それにしても、健気よねぇ……まったく、悪い男に惚れちゃって」
「はは、悪い男ほど魅力的なんですよ」
肩を竦めて、軽口を叩くシルヴァンに対し、マヌエラが柳眉を顰める。そして、大きくため息を吐いた。
「センセ、シルヴァンが気がついたわよ。じゃ、あたくしは失礼するわ」
ぎくりとシルヴァンの身体が強張る。
マヌエラと入れ違いになったべレスが、すぐ傍に立った。その視線は、に落ちてから、シルヴァンに向いた。
「先生」
喉がひりつくようだった。シルヴァンは、べレスのことが苦手だ。
紋章を持ちながら、紋章と無縁に生きることができたべレスが、羨ましくて仕方がない。自分にもそんな生き方があるのだろうか、と何度も考えるが、そんな未来はすこしも想像ができないから嫌になる。
「怪我の具合は?」
「あー、おかげさまでピンピンしてますよ。べつに、わざわざ見舞いなんていらないのに、優しいんですねえ」
むっ、とべレスが顔をしかめる。
出会った当初の無表情が嘘のように、表情が豊かになったものだ。
「……自分を庇って良かったのか」
「ま、仕方ないでしょう。勝手に身体が動いちまったんですよ」
シルヴァンは小さくため息をつき、前髪をくしゃりと握りつぶす。この苛立ちは、自分自身に対するものだ。
べレスを庇ったことを悔やんでいるわけではない。
このままではいけないと知っていながら、足掻くことすらしない自分に嫌気が差す。
「はさ、俺にゴーティエに戻って欲しくないって、言ったんだ。俺が口にできないから、何の責任もない自分が言うって……馬鹿だよなあ」
乾いた笑いが口から漏れる。
見上げたべレスの顔は、わずかに眉毛が下がっていた。硝子玉のような瞳に、歪んだ己の顔が映っている。そんな顔を晒すことが耐えられずに、シルヴァンは俯いた。
「なあ、先生。俺に、そんな生き方ができると思うか。こんな俺に、他の生き方があると思うか」
こんなことを、他人に問うなんて筋違いも甚だしい。士官学校時代から五年も過ぎたと言うのに、まだ先生だなんて呼んで縋って、まるで成長していない。
もぞ、と足元で動く気配がする。
思わず、シルヴァンははっと顔を上げた。
「人に聞かなきゃわからないほど、君は馬鹿じゃないはずだよ」
べレスの手がぐっと肩を掴み、シルヴァンの顔を覗き込む。
「晒してみなよ、君の本音を。私にぶつけたみたいにね」
ふ、とべレスの唇が笑みを形作る。見つめるその眼差しはやわらかい。ぽんと軽く肩を叩いて、べレスの手が離れていく。
「その節は、本当にすみませんでした。あんたを恨むのは筋違いでした」
シルヴァンは深く頭を下げる。「もう気にしなくていい」と、答えるべレスは何を言われたかさえ覚えていないような口ぶりだから、可笑しい。
「シルヴァンさま……」
小さな声が足元から聞こえた。
ゆっくりと持ち上がった顔がシルヴァンを見て「シルヴァン様」と、今度ははっきりと名前を呼んだ。べレスが小さく頷いて、静かに退室していく。
の瞳があっという間に潤んで、涙が頬を伝い落ちていく。
シルヴァンは、女性の涙が嫌いだった。女性に泣かれるのはつらいなんて嘘っぱちだ、汚いものにしか見えなかった。
それなのに、こんなにも純粋な涙があるのだと、の涙を見たときに衝撃を受けた。が慌てて顔を伏せる。
「ご、ごめんなさい。安心したら、涙が……」
伸ばした右手で頬を包み、俯いたその顔を持ち上げる。ぽろぽろと溢れる涙が、シルヴァンの手を濡らしていく。
ぎゅ、と閉じた瞼に親指を這わせて、涙を拭う。けれど、拭ったそばからすぐに涙の粒がぷくりと浮かんで、止まることを知らないようだった。がもう一度「ごめんなさい」と呟いて、手の甲で涙を拭う。
水分を湛えた瞳がシルヴァンを見上げた。赤らんだ目元が、夜通し付いてくれていた間にも泣いていたことを教えていた。
「シルヴァン様が、ご無事で、ほんとうによかった」
心底安堵したように、が泣き顔で微笑んだ。シルヴァンには、その顔が直視できなかった。頬に伸ばしていた手が、無意識に離れる。
俺の中で、本当はとっくに答えは出てる。
ゴーティエを発つ際に告げた言葉に偽りはない。そうだ、答えなんてとっくに出ている。のことが好きだ。そのくせ、未だにそれを口にする度胸もない。
いずれは、黙ってたって適当な相手と結婚させられて、落ち着く予定ですしね。
かつてベレスに皮肉げに言った己の言葉だ。そんな生き方しか、紋章を持って、貴族の嫡子として生まれた自分にはできないのだと──
「どこか、痛みますか?」
黙り込むシルヴァンに対し、が不安げに顔を曇らせた。瞬きと共に、涙が落ちていく。その涙を見つめながら、シルヴァンは首を横に振った。
「シルヴァン様……」
今更、に薄っぺらい言葉を吐く気にはなれなかった。
ただ、何をどう言葉にすればいいのか、シルヴァンにはわかりかねる。唇が錆びついたように、うまく動いてくれない。
が目を伏せる。睫毛が濡れて、艶めいて見えた。
「病み上がりなのに、うるさくしてしまってすみません。お腹は空いていませんか? 何か、わたしにできることはありますか?」
「」
が口を噤む。
しん、と静まり返る医務室の中、シルヴァンは己の早まる鼓動がやけに耳につく気がした。
「……俺、」
ようやっと絞り出した声は、掠れていた。は、急かすことも焦れることもなく、ただシルヴァンの言葉を待っている。
好きでたまらない、と雄弁に伝えるその顔を、真っ直ぐシルヴァンに向けて。
「シルヴァン!」
静寂が切り裂かれる。慌ただしく医務室に駆け込んで来たのは、幼馴染を引き連れたディミトリだ。珍しくあのフェリクスの姿さえもあるが「元気そうじゃないか」と、鼻を鳴らす様はいつも通りだ。イングリットだけが、その場の空気を察して気まずげに顔を曇らせた。
シルヴァンの開いた口からは、言葉ではなくため息が漏れた。
「あら、随分賑やかになったわね。見ての通り、もうピンピンしてるから、もう行ってもよろしくてよ」
医務室の主に追い出された廊下で、シルヴァンはもう一度小さくため息を吐いた。
「あー……心配かけたようで、すみませんね」
「まったくだ。肝が冷えたぞ」
「あんたがそれを言いますか……それじゃあ、俺の肝は凍ってますよ」
シルヴァンは軽く肩を竦める。ひたすらエーデルガルトの首を狙うディミトリの猛進ぶりは、フェリクスの猪呼びを肯定したくなるほどだった。
苦笑を浮かべるディミトリの背を、イングリットが押した。
「大事はないのね、シルヴァン。じゃあ、私たちはこれで」
「フェリクスも行くわよ」と、男二人を引き摺るようにして去っていく。さすがは、幼馴染の紅一点ながら負けじと剣を振っていただけはある。
嵐が去っていったような感覚に、どっと疲れた気がする。シルヴァンはちら、との横顔を見やる。涙は止まっていたものの睫毛に滴が残っていた。
三人の背中を見つめていたが、シルヴァンを振り返った。
「シルヴァン様」
「そういや腹減ったな、何か汁物でも頼めるか?」
「はい、勿論です」
が赤らんだ目元を細めて、微笑んだ。
空になった皿と匙を盆に乗せ、シルヴァンは頬杖をついた。
すぐに休めるようにと気を遣って、が自室まで魚と豆のスープを運んでくれたのだが、二人きりという状況を妙に意識してしまう。自分の部屋だというのに緊張して、シルヴァンは正直味もよくわからなかった。
「シルヴァン様に、お話ししたいことがあります」
「え? な、何だよ改まって」
ぎくりと反射的に身構えてしまうのは、普段の行いのせいだろうか。
「……べレスさんに背中を押されたのに、ずっと勇気が出なくて。でも、もしシルヴァン様が戦場からお帰りにならなくなってしまって、お話することも叶わなかったらきっと後悔すると思ったんです」
「後悔、」
「シルヴァン様をお慕いしています。きっと、この先もずっと変わらないと思います」
相変わらず、真っ直ぐすぎる視線だ。けれど、シルヴァンは逸らすことをしなかった。
「いつか、あなたはあなたに相応しい奥方を娶り、ゴーティエを治めます。報われたいなんて、思ったことは一度だってありません。でも、べレスさんに欲はあるかと問われたときに」
が目を伏せた。
じわりと滲んでいた涙が、粒になって落ちた。
「嘘でもいいから、好きだと言って欲しい。そう思ってしまったんです」
の声がか細く震えている。睫毛が上を向いて、濡れた瞳がシルヴァンを見つめた。
シルヴァンは無償の愛なんて知らない。無償の愛なんて信じていない。だからといって、こんな小さな欲があるだろうか。
「……馬鹿だな、は」
シルヴァンはため息交じりに呟く。
「けど悪い。嘘で好きだなんて、言えねえな」
が胸に手を当てて、俯く。「そうですよね、変なことを言って」シルヴァンはその言葉の途中で、顎を掬って顔を上げさせる。
ずっと、口にできなかった。
散々に甘えるだけ甘えてきたくせに、その言葉を告げたら、何かが変わってしまうのではないかと恐れていた。あまりに卑怯で、驚くほど臆病だ。
「嘘なんかじゃない。俺はお前のことが、好きだ」
思ったよりもすんなりと言うことができた。の瞳が鮮やかに見開かれる。
「そ、そんなこと、あり得ません」
「へえ、主人を疑うのか。生意気だなぁ……まあ、すぐに信じてもらえるとは思ってないけどな」
ふ、とシルヴァンは笑みを零す。
待たせてばかりでごめんと言っておきながら、またこんなにも待たせてしまったばかりが、のほうから言わせてしまった。ならば、いくらだって、信じてもらえるまで待とう。
「好きだ、。なあ、俺を好きでいてくれるって言うなら、一緒に生きてくれるか?」
が言葉を失う。
家や紋章に雁字搦めになった運命なんて、もう到底受け入れられそうになかった。
が願ってくれたことは、確かにシルヴァンの心からの願いだった。
ゴーティエの家から、紋章を持つ貴族の運命から、シルヴァンは逃げたくて、でも逃げることができなかった。
「どうせなら、報われたいって思ってくれたっていいんだぜ」
驚きに固まったままの身体を抱き寄せる。じんわりと胸元が濡れていくのを感じる。「今日のは泣き虫だな」と、シルヴァンは小さく笑って抱きしめる力を強めた。