手にした投書に視線を落とし、べレスは目を瞠った。
 目安箱の当初は匿名だが、中には相談内容で相手が誰だか予想がつく。癖のない、読みやすい文字列に目を通し切って、べレスは視線をあげた。目安箱を管理する相談係が「難しいご相談でしたか?」と、眉尻を下げる。
 どうやら、無意識の内に険しい顔をしていたらしい。べレスは首を横に振った。

「ただ、この悩みを解決できるのは、自分ではないみたいだ」

 そう答え、べレスは投書を折り畳む。

「これは、自分が預かってもいいだろうか?」
「え? あ、ええ、先生なら……」

 べレスは礼を言い、投書を懐にしまった。読み始めてすぐに、この書き手の顔が思い浮かんだ。
 ──“彼女”のことを、べレスはよく知らない。彼女が目安箱を利用するのは、べレスの知る限りは初めてだ。

 この目安箱には、様々な人の、多種多様な悩みが投函される。
 中には悩みとも言い難い愚痴だったり、雑談だったりするので、べレスの回答も時に適当になる。とはいえ、一応相手の納得する答えを選んでいるつもりだ。

 ベレスは大聖堂の中央に立ち、天井を仰ぐ。瓦礫の山が積み重なってはいるが、天井の彩色硝子は五年前と変わらぬ姿だ。変わってしまったものも、変わらぬものもある。
 五年の空白を持ってしても、まだ先生と呼び慕ってくれることは、嬉しくも不思議である。
 「あら~」と、間延びした声が聞こえて振り返る。べレスの視線の先には、士官学校の制服姿でもなければ、長くたっぷりとした髪を結んで片側に垂らしてもいない、メルセデスの姿があった。

「先生もお祈り?」

 首を横に振る。そうよねぇ、とメルセデスがのんびりと呟いて、微笑む。五年を経て、さらに包容力のある慈愛に満ちた、美しい女性になった。

「さっきまで、シルヴァンがいたのよ~」
「シルヴァンが?」
「ええ。そこに座って、真面目な顔でお祈りしていたわ。なぁんて、もしかしたら懺悔かもしれないけれど~」

 ゆったりとした物言いは、本気にも冗談にも聞こえた。どっちだろうなと思いながら、べレスは相槌を打つ。
 メルセデスがくすくすとした笑い声をひそめて「すこし、変わったわよねえ」と、目を細めた。まるで、出来の悪い弟へ向ける眼差しのようだった。アネットと随分と親しいので忘れがちだが、本人曰く“みんなよりもすこし年上”であるのだから、同級生は皆妹や弟のようなものなのかもしれない。

「イングリットは相変わらずだって怒ってばかりだけれど、私はそんなことないと思うの」
「……のおかげかな」
「やっぱり、先生もそう思う~? さっきもね、あんまりさんしか見えてないから、声をかけそびれちゃったわ~」

 相変わらず、というイングリットの言葉通り、シルヴァンの女好きが影を潜めたという話は聞かない。シルヴァンがメルセデスに目もくれない、というのはなかなか想像し難かった。

はどこに?」
「うーん、確か……書庫で何かお仕事だったかしら~」

 べレスは礼を言って、書庫へと足を向ける。「先生」と、メルセデスの声に顔だけで振り返った。

さんも、毎日お祈りしているのよ。きっと、シルヴァンのためねえ」
「そうだね」

 彼女はいつだって、シルヴァンを思っている。





「上のほうはボクがしまうから、はどこにしまえばいいか教えてよ」

 書庫を覗くと、とツィリルの姿が見えた。
 背伸びをしたの背後から、ツィリルが手を伸ばしてひょいと本を奪って、棚に押し込む。幼く、小さかったツィリルももう二十歳であり、身長はべレスを超えてしまった。
 机の上には本が積み重なっている。かなりの量だ。
 二人だけでこれを棚に戻すとなれば、相当な時間がかかるだろうことが容易に想像できる。

「あれ、先生? どうしたの」

 振り向いたツィリルがべレスに気がつき、不思議そうに瞳を瞬く。そんなに自分が書庫にいることが可笑しいことだろうかと思うが、本を読む余裕もこの頃はないのだから仕方がないかもしれなかった。

と話がしたかったんだけど、これではいつになるかわからないね。よければ手伝おう」
「ダメだよ、これはセテスさまに任されたボクとの仕事なんだから」

 ツィリルがむっとして唇を尖らせる。五年前と全く変わっていない。

「わたしに何か……」
「これ」

 べレスは懐から投書を取り出す。
 が不思議そうな顔でそれを受け取り、小さく折り畳まれた紙を開く。そうして、丸く見開かれた瞳がべレスを見上げた。

「べレスさんが相談に乗ってくださるのなら、力強いです」

 眉尻を下げて、が笑んだ。


 ツィリルは納得のいかない顔をしていたが、結局べレスも加わって本の整理を終えた。「今日は天気が良かったから、虫干ししていたんです」と、が作業をしながら教えてくれた。
 書庫を管理するトマシュがいなくなった上、五年も手付かずだったにも関わらず、本の状態は思ったよりもいいようだった。

 教師だった頃は、べレスも随分と世話になった。傭兵として生きていくには十分でも、教師としてはあまりに無知すぎた。元より、興味を持つことをしてこなかった。もしかしたら生徒たちよりもよほど、学ぶことが多かったかもしれない。

「先生、一応お礼を言っとくよ。手伝ってくれてありがとう」
「どういたしまして」

 べレスはわずかに口角を上げて、ツィリルに答える。「じゃあ」と、素っ気なくツィリルが踵を返す。が笑って手を振っているが、ツィリルは恥ずかしそうに会釈をするのみだ。

「ツィリルとはよく仕事をするの?」
「そうですね。すごく真面目でしっかりしていて、見習うことも多いです」

 べレスに言わせてもらえば、自身もすごく真面目だし、しっかりしている。二人とも仕事熱心だし、気が合うのかもしれない。

「あの、べレスさん……」

 が例の投書を取り出す。べレスは頷いた。

「自分の部屋に行こう。気兼ねなく話せる」



 好きになってはいけない方を好きになってしまいました。
 わたしはいつまでも隣にはいられない。それでも、お傍に居たいと思ってしまうのです。
 どうしたらこの想いを諦められるのか、ご教授ください。

 投書にはそう綴られていた。
 時おりこの部屋で開くお茶会と同じように、べレスは紅茶をに差し出した。貴族はお茶を嗜む、とはかつて生徒に教えてもらったことだ。何度もお茶を振る舞ううちに、紅茶を淹れるのが上手くなった。

 まあ、本業には負けるか。思いながら、べレスは茶器を持ち上げて、紅茶を一口含む。受け皿に戻す際、カチャと小さく音が立った。

は、諦めたいの?」

 紅茶に落ちていたの視線が持ち上がる。

「……この、戦いが終われば、あの方はまたゴーティエにお戻りになります。ここでは許されることも、屋敷に戻れば許されないのです」

 べレスは眉を顰める。
 ゴーティエは、ファーガスの中でも歴史のある大貴族だ。血筋や紋章と尊ぶ──未だに、べレスには理解し難い。

 それに、とが囁くように続ける。

「シルヴァン様が屋敷を出ることを、おそらく旦那様は快く思っていらっしゃらなかった。それを止めないばかりか、こうしてお供したわたしを、受け入れてくださるとは思えません」
「つまり、君はゴーティエには戻れないと?」

 がこくりと頷いて、ようやくふうと息を吐いて紅茶を口にした。「美味しい」と、強張った顔をすこしばかり綻ばせる。それなのに、伏せた瞳が泣きそうに揺らぐ。

「シルヴァンは、君のことが好きだと思うけど」

 あくまで、これはべレスが思っているだけだ。ただ以前、恋人であるかと尋ねたときに、シルヴァンは否定しなかった。
 置いた茶器を、の手がぎゅっと包む。

──シルヴァン様が、わたしのことを好きになるはずが、ありません」


 無償の愛なんざ信じてないんです。
 そう告げた声は苛立ちを含んでいたのに、べレスを見たその顔は能面のようだった。それはまるで、いつも口角を上げている男が、笑顔の仮面を脱ぎ捨てたようだった。
 もはや教師と生徒という関係ではない以上、多くを言うつもりはなかったし、言う必要もないと思っていた。しかし、それは間違いだったのかもしれないと今更ながらべレスは思う。

「……、欲はある?」
「え……」
「シルヴァンは無償の愛なんて信じていない、と言っていた。なら、見返りを求めてみたらいい」
「べレスさん、」

 戸惑いに満ちた瞳が、べレスを見つめる。
 べレスはそれに気づいて、やさしく笑いかけた。

「君が思っている以上に、シルヴァンは臆病なのかもしれないね」

 好きだと告げる勇気すらないなんて、びっくりである。
 何かを失う覚悟で本音を晒すことも、必要だ。彼女にばかり、何もかもを犠牲にさせるなんて忍びないと思わないかな?
 あの時、あえて言わなかった言葉をべレスは胸中で呟く。

「諦めるのはまだ早い。それが私の返事かな」

 べレスは手を伸ばして、の目尻に触れる。瞳に膜を張っていた涙が弾けた。

「だから、シルヴァンとちゃんと話したほうがいい」

(それでも、私は君の背を押そう)