エーデルガルトは討たれ、五年半に及ぶ戦乱が終結した。帝都から救出された大司教レアがガルグ=マク大修道院へ五年ぶりに戻ってきたというが、まだ休養を要するため姿を見せずに静養されている。
 一足先に王都フェルディアに戻ったギルベルトが、王位継承の準備を進めている──やることはまだ山積みではあるものの、まずはこの勝利を讃えようという一夜だった。

 ぐい、とふいに腕を掴まれて、はふらついた。見れば、フェリクスが不機嫌そうにを睨んでいる。

「お前も座れ。配膳も酌も、各々自分でやるから必要ない」
「わ、わたしは……」
「いいから座れ。いつまで忙しなく働くつもりだ」

 フン、とフェリクスが高慢そうな仕草で鼻を鳴らす。睨んで見えたのは、おそらく照れ隠しなのだろうことが伺えた。はフェリクスらの囲む席を見て、一瞬だけ顔を強張らせた。
 フェリクスはそれを、次期国王が同席しているからだと捉えたようで「猪は、猪だ。構うな」と告げた。

 フェリクスの誘いを断りきれず、は椅子に座った。
 満足そうに笑むフェリクスの顔は薄らと赤く、酔っているのか定かではないが、酒が入った状態であるのは確かだった。

 はちら、とちょうど向かいに座るシルヴァンを盗み見る。
 ディミトリと楽しく話しているシルヴァンがこちらを注視することはなく、はほっと息を吐いた。嘘でも好きだと言って欲しい、勇気を出してそう告白したが、まさかあんな展開になるだなんて予想だにしていなかった。シルヴァンの真意がわからない。

 ずい、とフェリクスに杯を差し出され、は反射的に受け取った。

「さすがに、お酒を頂くわけには」
「何だと? おいシルヴァン、いくらなんでも頭が固すぎるだろう。お前を反面教師にした結果か?」

 いつになく饒舌なフェリクスを前に、は慌てた。シルヴァンに声をかけるとは思わなかったのだ。やさしげな垂れ目が、ディミトリからフェリクスに移る。

「フェリクス、お前なあ……我が物顔でを隣に座らせんなよ。こっちに来い、

 びくっ、と肩が跳ねる。それを誤魔化すように、は席を立った。

「相変わらず狭量だな。、気は変わらんか? フラルダリウスはゴーティエよりまだ住みやすいぞ」
「そ、そのお話はすぐにお断りしたはずです!」

 蒸し返されては堪らない。フェリクスの申し出をその場で断ったというのに、その後暫くシルヴァンの機嫌が悪かったのだ。
 はそそくさとシルヴァンの傍らに立った。
 座ったままのシルヴァンの腕が腰に巻きついて、抱き寄せられる。

「シルヴァン、そうか……ついに身を固めたのか」

 ディミトリの隻眼が丸く見開かれる。「ついにって」と、シルヴァンが吹き出すように笑った。そうして、その笑みのままを見上げてくる。

「それにはの承諾が必要なんですよねえ」
「シルヴァン様、」
「ねえ殿下、どうすりゃ“うん”と言わせられるんです? そりゃあ、身から出た錆だとはわかっちゃいるんですけど」

 シルヴァンの瞳が悪戯っ子のように細まる。どうしたらいいかわからずに、はおろおろと視線を彷徨わせた。

「意外だな。俺から見てもわかるくらい、はお前に惚れていると思っていたが」
「ディミトリ殿下っ、な、な、何を」
「はは! 疎い殿下にもわかるなら、相当だ」
「おれにもわかる。は一途だ」
「ドゥドゥーさんまで、や、やめてください」

 あまりの恥ずかしさにその場から逃げ出したかったが、腰に絡んだ腕がそれを許さない。
 シルヴァンを想う気持ちを特別隠したつもりも、公言したつもりもない。こんなふうに、他人に断言されるなんて、居た堪れない。

 酒は一滴も口にしていないというのに、その場にいる誰よりもの顔が赤い。

「ま、気長にいきますよ。幸い、は俺の傍に居てくれるみたいなんで」

 離れたシルヴァン手は、空いている椅子を引き寄せて、座面をポンポンと叩いてみせる。は「失礼します」と断りを入れて、そこに座った。
 先ほどフェリクスに持された杯を握らされて「今日ぐらいは」と、シルヴァンが杯を合わせる。は小さく頷いて、杯に口をつける。慣れない酒は、喉をひりつかせるようだった。

「そういや、と飲むのは初めてだな」

 シルヴァンとは、主人と従者である。食事の席を共にすることすら、ふつうではあり得ない。酒を酌み交わす機会なんて、あるわけがない。
 ゴーティエの屋敷に戻れば、こんなふうには──
 は杯を置いて、窺うようにシルヴァンを見た。

「ん?」
「シルヴァン様、わたしはあなたの侍女です。お酒の席を共にするのは、これっきりです」
「真面目だねえ」

 くいっ、と杯の残りを飲み干して、シルヴァンが席を立った。「ついでに、真面目な話しとくか」と、の手を引いて立ち上がらせる。

「ちょっと抜けます」

 フェリクスが犬猫を追い払うような仕草をするのが見えた。




 シルヴァンの口数は珍しく少ない。怒っているようには見えなかったが、は不安に顔を曇らせる。
 長い階段を登りきって、シルヴァンが振り返った。

「今日で暫く、ガルグ=マクも見納めだな。感慨深いものがあるよなあ」

 絡まった指が引かれる。
 隣に立ったの肩をシルヴァンが抱き寄せた。ちゅ、と額に唇が押し当てられ、は身を竦めた。

「気長にとは言ったが、手を緩める気はないぜ?」

 悪戯っぽく笑んだシルヴァンが顔を覗き込んでくる。は閉口し、眉毛を八の字に下げてシルヴァンを見つめた。
 ゴーティエには戻れないと思っていたが「必ずどら息子を連れて帰るように」と、ゴーティエ辺境伯から言伝を頂いた手前、帰らないわけにはいかない。シルヴァンの傍に居られることは、素直にうれしい。けれど同時に、当惑している。

 ふ、と小さく笑って、シルヴァンが空を仰いだ。もつられて見上げた夜空には、星が輝いていた。

「兄上に、すこしは報いることはできたと思うか?」
「……はい、勿論です」
「そうか。多分、兄上はさ、のことが好きだったんだろうな」

 は瞳を瞬く。そんなことがあるだろうか、と考えてみても今更答えを確かめる術もない。
 空を見上げたままの横顔を見つめ、はため息ともつかない息を吐いた。

「もし、そうだとしたら、出奔する際に連れて行ってくださればよかったのです。破裂の槍を持ち出すついでのようではなく」

 雷鳴轟く、寒くて暗いコナン塔を思い出し、は目を伏せた。

「……あなたたち御兄弟は、肝心なことは何一つ言ってくださらない」
「おっ、何だよ、酔ってるのか?」
「すみません。でも、こんなふうに、お話できるのも今日限りかもしれませんもの」

 へぇ、とシルヴァンが小さく呟いて目を細めた。
 不敬であることは承知の上だ。けれど、ゴーティエに戻ったら、はもう二度と己の想いを口にできない気がした。シルヴァンがマイクランに報いたいと思っているのなら尚更、彼は次期当主として相応しく生きていくに違いない。


「はい、シルヴァン様」
「お前の言う通り、俺には責任やら何やらがある。けど、俺は本当に好きな女と結婚したい」

 シルヴァンの手が、俯きかけたの頬に触れる。だから、は顔を伏せることが叶わなかった。
 やさしく垂れた瞳から、目を逸らすことはできない。

「そのくらいのわがまま、許されるだろ?」

 は答えあぐねて、結局開いた唇を閉じてしまう。「馬鹿だな、黙るのはなしだ」と、その囁きは唇のすぐ傍で落ちる。重なった唇から、甘いような酒の香りがした。

、好きだ」

 シルヴァンのこんなに真剣な顔を、声を、は知らない。

「こんなときに限って、お前は“はい”って頷いてくれないんだよなあ」

 吐息が触れる距離でシルヴァンが苦笑する。その顔が、ぼやけてよく見えないのは、近すぎるせいじゃない。

「この女神の塔で、男と女が願い事をすれば必ず叶う。ま、正確には聖辰の節の最終夜だが……女神様だって、今日みたいな日だ。多目に見てくれるだろうよ」

 だから、とシルヴァンは静かな声で続けた。

「願え、。俺と共にいる未来を」

 は瞼を閉じる。
 諦めるのはまだ早い、とべレスの声が脳裏に蘇る。濡れた目尻を、シルヴァンの指先がやさしくなぞる感触がした。の好きな、あたたかくて大きなシルヴァンの手が、頬を包む。

 ここで頷かなかったら、シルヴァンがほんとうに欲しかった一握りのうちから、こぼれ落ちてしまうような気がした。はおもむろに、瞼を押し上げた。濡れた睫毛が重たく揺れる。

「あなたの、妻として、お傍に居たい」

 声がみっともなく震えた。
 すっ、とシルヴァンが自然な仕草で膝をついて、の左手を恭しく取った。

「用意した甲斐があった」

 うれしそうに笑って、シルヴァンがの薬指に指輪を嵌めた。そうして、指先に小さく口付ける。そのまま、シルヴァンがじっとを見上げた。

「俺と結婚してくれ」
「はい……」

 しゃくりあげてほとんど声にならなかったが、一層シルヴァンがうれしそうに笑んだ。

「改めて祝い酒だな!」

 女神の塔に明るい声が響いた。
 もようやく、泣きながらも笑うことができた。

(これは恋ではなく、愛だった)