の朝は早い。
 使用人として、朝日が昇る前に支度を始めるのは常であり、それは屋敷を出ても変わらない習慣だ。まだ、人の気配を感じられない朝の静けさが、には心地がよい。
 何を気にするでもなく、ただ己の仕事に没頭できるこの時間は、にとって大切な時間だった。ゴーティエ家といえば、ファーガスにおいてあまりに有名な貴族であり、自然との背にもその名前がついて回る。

 すう、とひんやりとした空気を吸い込むと、清々しい気分になる。は小さく鼻歌を歌いながら、手早く箒で学生寮前の道を綺麗にしていく。

 本来ならば、士官学校に通う生徒が利用する寮の一室を、は貸してもらっている。
 のような身分にはほとほと縁がない。いつかまた、ガルグ=マク大修道院が士官学校として機能するときのためにも、できるだけ綺麗にしておきたい。シルヴァンのかつての学び舎を、朽ち果てさせたくない。
 は目を伏せる。学生時代のシルヴァン様は、楽しそうで──

「……か。主人と違って精が出るな」

 ふいに声をかけられて、は目線を上げた。
 フン、と軽く鼻を鳴らすフェリクスの髪はすこし乱れていて、首にかけた手ぬぐいで汗を拭っている。訓練場から歩いてきたこともあって、早朝から鍛錬に励んでいたことは明白だった。
 は箒を掃く手を止めると、深く首を垂れた。

「おはようございます、フェリクス様」

 シルヴァンの幼なじみでなければ、がシルヴァン付きの侍女でなければ、こうして言葉を交わすこともなかっただろう。フラルダリウス家の嫡子というのは、そういう立場にある。

「丁度いい。朝食を頼む」

 の返事も待たずに、フェリクスの足が食堂に向く。
 ただの使用人に対する態度としては正しい。は箒を壁に立てかけて、フェリクスの後を追った。

 まばらに起き出した人の気配がする。ちら、とは学生寮の二階へと視線を向けた。
 シルヴァンには、フェリクスのように早朝の鍛錬の習慣がない。まだ眠っているだろう。シルヴァンの部屋の窓帷を開けることも、やさしくベッドを揺することも、覚醒を促す冷えた水を手渡すことも、もう長いことしていない。

 フェリクスが一瞥をくれるのでは慌てて駆け寄り、すぐ後ろに付いた。満足そうに、フェリクスの瞳が細められる。
 言葉は辛辣で、態度もひどくぶっきらぼうだが、その心根がやさしいことをは短くない付き合いの中で知っている。今も、歩幅の違うに速度を合わせてくれている。つい先日は、怪我を負ったシルヴァンをとても心配していた。最もやさしいなどと言えば機嫌を損ねることは明白なので、口にはできまい。

「何をお作り致しましょう?」
「……ゴーティエチーズグラタン」

 フェリクスが振り返る。緋色の瞳がをひたと捉えた。

「お前が作ると、なお美味い」

 ほんのわずかにフェリクスの口角が上がっていた。すぐに前を向いて歩き出したため、その表情を確認することは叶わなかった。見間違いか、錯覚かと思うほど、そんなふうに笑むフェリクスをは見たことがなかった。思わず足が止まる。
 フェリクスの言葉に世辞はない。だからこそ、嬉しくて、何だかすこしだけくすぐったい。

 フェリクスのうなじにかかるほつれた後れ毛が遠ざかっていく。かすかに耳元が赤みを帯びているような気がして、の足はぎこちなく縺れるようにしか動かなかった。
 確かに足を踏み出したのに、の身体は後ろに傾いた。

 こつん、と後頭部が胸板にあたる感触がする。首を捻って顔を確認するより早く、ふわりと鼻先を掠めた嗅ぎ慣れた匂いに安堵を覚える。掴まれた腕がすこし痛くても、不快に思うことはなかった。

「シルヴァン」

 フェリクスが驚いた顔をして、呆れたように名を呟く。

はお前の召使いじゃないぜ? フェリクス」

 シルヴァンの声音はいつものように軽く、揶揄する響きを持っていた。けれど、腕を掴む力はその軽薄さに不釣り合いな程に強い。
 急いで来たのか、シルヴァンの髪は珍しくも乱れていた。服装は整っており、今しがた起きたばかりという様子には見えなかった。まだ寝ているという予想が外れて、は目を瞬かせた。

 シルヴァンがため息を吐きながら、前髪を掻きあげる。

「おはようございます」
「……ああ」

 不機嫌さを隠そうともしていない。しかし、それに怯むことなく、は微笑んだ。
 空いている手で明るい橙色の髪を整え、それから腕を掴んだままのシルヴァンのやけに強張った手に重ねる。ぎゅ、と一瞬だけ指先に力が込められて、すぐに緩む。
 フェリクスを牽制するような視線が、気まずげに逸らされた。

「そんなことは知っている。お前は、それを言うためだけに、わざわざ走ってきたのか」

 呆れ返ったフェリクスの物言いに、シルヴァンがぐっと眉根を寄せる。

「わかってんなら、我が物顔でを付き従えんなよ。気分悪ぃ」
「馬鹿馬鹿しい。俺が無理強いしているとでも? お前こそ、から仕事を奪ってやるな」

 ほとんど力の篭っていないシルヴァンの手を叩き落とすと、狼狽えるの手首を掴んでフェリクスが足早に歩き出す。「フェリクス様、」の戸惑う声を聞いて、歩調を緩めたフェリクスがため息を吐く。

「主人はよく選ぶことだな」
「シルヴァン様は、良くしてくださいます」
「あいつの甘言に騙されるなよ」

 フェリクスが忌々しげに舌を打つ。

「待てよフェリクス、まだ話は終わってないぜ」
「くどい」
「おいおい、なんつー言い草だよ。俺はの仕事を奪おうなんて、これっぽっちも思ってない。なあ、はわかるだろ?」
「も、勿論──

 ぐい、とフェリクスに強く引っ張られて、はよろめく。素早く伸ばされたシルヴァンの手が、の手を掴んだ。両の手を、フェリクスとシルヴァンに掴まれるという、奇妙な構図になってしまっている。
 は恐々とそれぞれに視線を向けるが、睨み合う視線がこちらに向くことはない。

「落ち着いてください、お二人とも」
「落ち着いている」
「落ち着いてるさ」

 間髪入れずに返ってきた声が重なる。「お手を、離していただけますか……」堪らず漏れた声は小さかったが、二人の耳には届いていたらしく、手はほぼ同時に離れた。

「シルヴァン様、まだ朝食は召し上がっていませんよね? フェリクス様も鍛錬でお腹が空いてらっしゃるでしょうし、まずは食堂に参りませんか?」

 の頭上で、フェリクスとシルヴァンが視線を交わし合う。

「はあ……わかったわかった、いきなり突っかかって悪かったよ」
「……フン、行くぞ」

 歩き出した二人の後に、も続く。
 フェリクスがシルヴァンを毛嫌いしているきらいはあれど、シルヴァンも冗談の範疇を弁えているし、フェリクスとて心根から嫌悪しているわけでもないだろう。こんなふうに仲違いするのは珍しい。
 何より、フェリクスがを小間使いのように扱うのはいつものことだ。は首を傾げながら、二人の背を見つめた。





 今頃、不機嫌な顔を突き合わせているのだろうか。は天火の扉を閉めて、ふうと息を吐いた。
 食堂の様子を見に行こうか、と厨房の入り口に目を向けて、は息を呑んだ。

「ディミトリ殿下?」
「あ、ああ、すまない。美味そうな匂いに釣られて、つい……」

 の良く知った相貌とは違っているが、隻眼はかつてと同じようなやさしい色を宿していた。厨房に足を踏み入れたディミトリが「ゴーティエチーズグラタンか」と、懐かしそうに目を細める。

「よろしければ、ディミトリ殿下もご一緒にいかがですか?」
「いいのか? いやしかし、俺が同席するなど……」
「ご安心ください。お待ちになっているのは、フェリクス様とシルヴァン様ですよ」

 きょとんと瞳を瞬かせたディミトリが、ふっと笑みを零す。

「……そうか」

 は天火の向こう、熱で溶けていく乾酪を見つめる。
 フェリクスに褒められて、すこし作り過ぎてしまった。ディミトリも食べるのならば、ちょうどいいくらいだろう。

、お前にも随分迷惑を掛けたな。すまない」

 ディミトリが頭を下げたのを見て、はぎょっとする。

「や、やめてください! どうかお顔をあげてください。わたしは、迷惑だなんて一度も思ったことはありません」

 ディミトリの身の回りの世話を、ロドリグに頼まれていたのは事実だ。ほとんど食事を摂らないディミトリのために栄養価の高い献立を考えたり、安眠の紅茶や芳香を用意したり、勝手ながらこまめに部屋の掃除や換気はしていた。
 冷たく見下ろされ、口を開けば「邪魔だ」と言われるばかりで、あまり役に立っていた気はしない。

「ロドリグとは親しかったのか」
「まさか、そんな、ロドリグ様には良くしていただいて」

 フェリクスと歳が近いせいか、昔から何かと気にかけてくれていた。ただの使用人に過ぎないの名を呼んでくれた。
 親しい、などと言える間柄ではない。はそんな立場にはないのだ。

 は静かに息を吐いて、目を閉じる。吐息は震えていた。
 には、騎士の矜持も誇りもわからない。どれだけ誉れ高い死だったのかなど理解が及ばず、にはロドリグの死を悼むことしかできない。

「すまない。無神経だったな」
「いいえ。ディミトリ殿下、どうかわたしなどに謝らないでください」
「悪いことをしたなら謝る、そこに身分など関係ない」
「そ、それは……でも、」

 天火の鈴が焼き上がりを告げる。
 たじろぎながらも、は反射的に天火の扉を開けた。ゴーティエの名を冠した乾酪の香りが厨房に漂う。

「おーい、いつまで男と二人きりにさせる気だ?」

 顔を覗かせたシルヴァンが「あれ? 殿下」と、目尻の垂れた瞳を見開いた。


「すみません、お待たせ致しました」

 こんがりとした焼き色からホカホカとした湯気が立ちのぼるゴーティエチーズグラタンに、「美味そうだ」とフェリクスが満足そうに呟く。しかし、顔をあげた途端に、不愉快そうに眉を顰めて舌打ちをする。
 シルヴァンの後ろに控えただが「お前も座るんだよ」と、手を引かれて隣に座らされる。

 幼なじみの輪の中に入るのは気が引けるし、そもそもは使用人だ。主人と、主人の友人らとこんなふうに同席していいはずがない。
 は困惑して、シルヴァンを見る。

「いいだろ、屋敷の中じゃあるまいし。お前も幼なじみみたいなもんだ」
「お、恐れ多いです」
「フン……冷める前に食べるぞ」

 短く食前の祈りを捧げて、フェリクスが匙を手に取る。グラタンを掬い上げると、ふわりと湯気が立って乾酪がとろりと糸を引いた。
 一口食べて、フェリクスが口角を上げる。
 同じように、シルヴァンとディミトリが匙を口に運んだ。

「懐かしいな……」

 ディミトリが感慨深げに呟いて、手を止める。

「そういえば、こうして一緒に食事をするのも久々ですね。殿下、すこしは美味そうに食えるようになりました?」
「どうだろうな。……こうしてまた、お前たちと食事を共にできるとはな」
「おい、黙って食えないのか、お前らは」

 呆れたように言ったフェリクスだったが、その眼差しは存外柔らかい。肩を竦めたシルヴァンが、頬杖をつきながら振り向いた。グラタンを小さく掬って、その匙をに差し出す。

「いい加減、も食べろよ。ほら」
「シルヴァン様、自分で食べれます」

 そう言ったものの、シルヴァンの匙はこちらに向けられたままだ。仕方なく、は口を開く。「いい子だ」と、シルヴァンの笑いを含んだ声と共に、匙が口に入ってくる。
 とろりとした乾酪が舌先に絡む。この独特の風味は、小さな頃より慣れ親しんだ味だ。

「……呆れたやつだな、シルヴァン」
「何だよフェリクス、食事の場で怖い顔はやめろって」
「おい、主人は選べと言ったな? 今一度、よく考えろ」
「はあ? ちょっと待て、何でそうなるんだよ」

 は咀嚼中で、口を開くことができない。困り果てて、思わずディミトリを見やれば「お前たち、落ち着け。が困っている」と、助け舟を出してくれた。
 フェリクスが匙を置いて、睨むような鋭さでを射抜く。

「親父殿は、お前を気に入っていた。お前のような娘が欲しかった、などとふざけたことを抜かしていたが……」

 フェリクスが右手で髪を掻きあげ、撫で付ける。

「ゴーティエなど捨ててフラルダリウスに来い」

 ガタッ、とけたたましい音が、ようやく人が集まってきた食堂に響く。慌てた様子で立ち上がったシルヴァンを、は驚いた顔で見つめた。

(朝日だけが変わらずに眩しい)