結局のところ、自分はただ臆病なだけだ。
見慣れた何の変哲もない扉を前に立ち尽くすシルヴァンの姿は、どれだけ情けなく滑稽に見えるだろう。なかなか上がってくれない右手をぎゅっと握り、胸の高さまで無理やり持ってくる。シルヴァンは小さく息を吸って、意を決する。
自慢じゃないが、夜遊びなんていくらでもしてきたし、皆が寝静まった頃に街に繰り出したことだって少なくない。隣人の目を盗んで部屋を抜け出すことだって、手馴れたものだ。時には、自室に女性を招き入れたことだってある。
けれども、こんなふうに緊張を覚えたことは一度だってない。
やけにぎこちなく、シルヴァンは握り拳で扉を軽く叩いた。
「、俺だ」
「はい。お待ちしていました、シルヴァン様」
すぐに扉が開かれる。すっかり日が落ちたというのに、警戒心の欠片もない。
シルヴァンはすこしばかり呆れる気持ちと共に、ひどく安堵を覚える。固く結んでいた唇が、無意識に緩んだ。
ふわっと紅茶の香りが鼻腔をくすぐり、ほのかな石鹸のにおいが触れるように鼻先を掠める。の髪は濡れていないが、薄らと色づく肌が湯浴みを済ませたばかりなのだと示していた。
そうと気づいて、シルヴァンは思わず動揺する。部屋に踏み入れようとした足が、ぎくりとして不自然に止まった。
が不思議そうに、シルヴァンを見上げる。
「シルヴァン様? どうかなさいましたか?」
「ああ、いや……」
今更、悪いことをしているような気分になるなんて、どうかしている。
から与えられるものをただ享受するばかりか、望む言葉の一つも口にせず、挙句に他の女性にかまけるシルヴァンを悪い男と言わずして何と言うのだ。
「お座りください」
が椅子を引いて待っている。そうするのが当たり前と言わんばかりに、ごく自然な動作だった。いつもは女性のために椅子を引く側のシルヴァンだが、の前では違う。
シルヴァンは、後ろ手に静かに扉を閉めた。ついでに錠も掛けてしまう。
カチャン、とたしかにその音はの耳にも届いたはずなのに、シルヴァンを咎めることもなく、ともすれば気にすら止めていない。
喜べばいいのか否か、シルヴァンにはわかりかねる。
椅子に腰を降ろせば、がほっとしたように口元を綻ばせる。そして、被せていた保温布を外して、器に紅茶を注ぐ。
嗅ぎ慣れた、シルヴァンが好むベルガモットの香りがより一層強まる。
「紅茶が冷める前に来てくださって良かったです」
差し出された紅茶に視線を落とし、シルヴァンは砂糖も牛乳も混じっていないその透き通った琥珀色を見つめる。その透明さは、自分とは無縁のように思えた。
「いい香りだなぁ」
そんなふうに感じてしまったことを誤魔化すように、シルヴァンは器を持ち上げる。
一口含んで、器を受け皿に戻す。茶菓子に手を伸ばす気になれず、シルヴァンは器の持ち手を指先でなぞりながら、顔を上げた。の瞳が、真っ直ぐシルヴァンに向けられている。
「なぁ、お前は俺にして欲しいこととかないのか? ほら、街に出かけたいとか、贈り物が欲しいとか……なんでもいいからさ」
無意識に、シルヴァンの視線が再び琥珀色に落ちる。
「わたしはあなたのお傍に居られるなら、それ以上は何も望みません」
シルヴァンは眉をひそめる。
けれど、本心を探るように見つめても、返ってくるのは逸らされることのない、濁りも汚れもないような瞳だ。
ガルグ=マクに連れてくる気なんて、なかったのだ。けれども、この瞳が涙に濡れた瞬間に、手離してはいけない気になった。
置き手紙でも残して家を出ようと思った時に、シルヴァンはのことを考えた。泣いて探してくれるのだろうか、と想像をしたのに、どうしてもがどんな顔で涙を流すのかわからなかった。何も言わずに居なくなったことを怒るのか、置いていかれたことを悲しむのか、それとも本当は清々して喜ぶのか。
所詮その程度しか、のことを理解できていないのだ。ちゃんと見ると言いながらも、目を背けてばかりいた所為だ。
シルヴァンは、小さく息を吐く。それは呆れ返ったため息のようでも、安堵のため息ようにも思えた。
「なぁ、俺にそこまでする価値があるか?」
自分の価値は、自分がよく知っている。
あえてそれを餌にしてばら撒いたことだってある。しかし、にとって貴族であることも、紋章持ちであることもあまり意味のないことならば、シルヴァンなどただのチャランポランだ。
「わたしは、シルヴァン様の笑ったお顔が好きです。シルヴァン様のやさしげな瞳が好きです。シルヴァン様の大きな手が好きです。シルヴァン様の、すこし臆病なところも、意外と真面目なところも、好きです」
「ま……待て待て待て!」
が言われた通りに唇を結ぶ。
俯きがちの顔が赤くなっているが、シルヴァンもまた頬に熱が集まるのを感じる。手のひらでそれを覆い隠し、シルヴァンは項垂れる。
「シルヴァン様」
「わかった、いやもう十分、これ以上は勘弁してくれ……」
項垂れたまま、シルヴァンはかぶりを振る。
「……ひとつだけ、シルヴァン様に願ったことがあります」
シルヴァンはちら、とを見やる。
けれど目を合わせる勇気がなくて、すぐに器を包むの手元に視線を向けた。
「このままゴーティエ家に戻ることがなければいい、とマイクラン様を討ったあの夜に、わたしは心からそう願ったのです」
の手がぎゅうっと器を握り、指先が白む。
初耳だ。
シルヴァンは顔を上げた。が窺うように、こちらを見ていた。普段はあれだけよく回る口が、開いてくれなかった。シルヴァンは、ただ唖然とした気持ちでを見つめる。
の手が、躊躇いながらシルヴァンの手に触れる。「ほんとうは」と、落ちる声は震えていた。
「あなたに手を下して欲しくなかった。マイクラン様を討つことで、あなたはまた責任を負ってしまうとわかっていました。好きになれない家のために、あなたは自分を犠牲にする」
「……仕方ないだろ。そういうもんだ」
頬の熱が引いていく。どうしても、吐き捨てるような物言いになってしまう。
仕方のないことだ。名門貴族に、紋章を持って生まれた時点で、将来はすでに決められたようなものだ。しかし、兄のような人生よりは余程マシなのだと──
「それでも、あなたが家や紋章から解放されたらいい、と願わずにはいられないのです」
「……随分、簡単に言ってくれるよなぁ」
「シルヴァン様が口にできないから、わたしが言うのです。わたしには責任も何もありませんから」
シルヴァンは、触れるだけのの手を取って指を絡める。ぴくっ、との指先が小さく跳ねた。
「俺の気持ちを代弁しているつもりか?」
責めるつもりはなかったが、シルヴァンの声音は固かった。
が睫毛を伏せた。繋がった指を見つめる瞳は、どこか悲しげで寂しげだ。
「わたしは貴族でもなく、紋章も持ちません。だから、シルヴァン様のお気持ちを理解することは、きっと一生叶いません」
代弁できたらどんなにいいか、とが小さく呟いた。
本音をひた隠しにしているのは、シルヴァンだ。「たとえば」と、シルヴァンは口を開いた。の瞳がシルヴァンを映す。
「俺が今、何を考えていると思う?」
「……お前に俺の何がわかるんだ、とお怒りですか?」
「はずれ」
シルヴァンは絡ませた手はそのままに、身を乗り出した。驚いて身を引こうとしたを、その手で制して顔を寄せる。鼻先が触れるほどの距離まで迫ると、が慌てて顔を背ける。
「今すぐ押し倒したい」
「え?」と恐らくほとんど反射的に開いた唇を、己のそれで塞いでしまう。
に気持ちを理解してもらおうだなんて思っていない。
むしろ、あまりに醜くみっともない心の内は、絶対に見せたくなどなかった。それに、理解はできなくたって、いつも寄り添ってくれている。シルヴァンが口を噤むとき、息を吐くとき、眉をひそめるとき、彼女の視線が窺うように見上げてくることを知っている。
──すこし臆病なところも、
重ねた唇が、思わず笑みを形どる。綺麗な上っ面をうまく繕ってきたつもりだったけれど、意外と綻びだらけだったのかもしれない。そんなふうに思われていたのでは、格好もつかないではないか。
「い、いけません、シルヴァン様。こんな夜更けに出歩いていたことを知られたら」
「いいって。小言でもなんでも、聞いてやる」
無償のものは少ない。
を手に入れることができるなら、よからぬ噂も説教も、喜んで甘んじて受けよう。