シルヴァンがこれまで付き合ってきた女は、利己的で打算に満ちていた。
だからこそ、の瞳から目を背けたくなる。どこまでも己を信じて、すこしも疑うこともなく、値踏みすることもない真っ直ぐな視線が、シルヴァンには怖ろしくもあった。いつかその視線が、ちがう色を帯びるのではないかなんてことを、頭の片隅で考えてしまう自分にほとほと呆れる。
だけは違うと信じ切れない。
知っているのだ。
しなだれかかる女の狡猾さを、やさしく微笑む女の醜さを、ゴーティエ家の名が持つ意味もその身に宿す紋章の価値も、シルヴァンは嫌というほど知っている。
懐かしのガルグ=マク大修道院の補修はだいぶ進み、シルヴァンの部屋はすっかり元通りである。隣室のディミトリの様は面影すらも怪しいが、うるさい小言や説教がなくなった分、シルヴァンは以前よりも伸び伸びできている。
その代わりと言っては何だが、イングリットの目はより一層厳しくなったような気がする。
「シルヴァン、あなたと言う人は……!」
修道女にちょっと声を掛けていていただけでこれだ。花を愛でるその横顔が美しかったので、正直に「花よりもあなたから目が離せない」と囁いただけで、お茶に誘ってすらいない。
シルヴァンはため息を一つ吐いて、肩をすくめる。
「に申し訳ないと思わないのですか?」
「……に?」
うーん、とシルヴァンは形だけ考えるようなそぶりをする。
それだけで、イングリットの双眸がきつく吊り上がっていく。今にも槍を手にして襲い掛かりそうな形相である。
申し訳ないという気持ちは沸いてこない。
シルヴァンにとって女性に対する美辞麗句は、もはや挨拶のようなもので、沁みついた習慣にも似ている。そこに心がこもっていないなんて言えば、イングリットをますます怒らせるだけだ。
そもそもシルヴァンは、まだ一度だってに好きだと告げていない。
「シルヴァン様?」
ぎくりと肩が強張る。
シルヴァンは口元を引きつらせながら「よう、」と、軽薄さを装って振り返った。の視線がシルヴァンを飛び越えて、イングリットを見つける。
これから温室の掃除や植物の世話をするのだろう。道具を手にしたが「ご歓談を妨げてすみません」と、丁寧に腰を折った。
「、そんなに気にしないでください。私はもう行きます」
イングリットが最後にひと睨みして、さっさと行ってしまう。には柔らかい笑みを向けて会釈する。その態度の差は、間違いなく己の素行に起因している。
「お邪魔してしまいましたか?」
「いんや、全然。寧ろ、が来てくれて助かった。あいつは口を開けば、説教ばっかりだからな」
ふふ、とが小さく笑って「仲がよろしい証拠ですね」と、穏やかに言った。
ただの幼馴染だといくら説明しようとも、イングリットと話すたびに目くじらを立てるような、そんな今までの遊んできた女とはまるで違う。
が箒を手にして掃除を始める。当たり前だが、ひどく手慣れている。
温室に入り込む柔らかな日差しが、すこし俯いたの睫毛の影を繊細に作っている。立ち尽くしたままのシルヴァンを、不思議そうな顔がわずかに傾げられて振り向いた。
やわらかい眼差しがシルヴァンを捉えて、一層やさしげに細められる。
「どうかなさいましたか?」
シルヴァンは思わず、小さく息を飲んでさっと目を逸らした。
「……いや、は働き者だなぁと」
当たり障りのないことを口にして、へらりと笑う。
シルヴァンの言葉の軽薄さを知りながら「ありがとうございます」と、はにかむように笑った。
「なあ、それが終わったらお茶でもどうだ?」
「すみません、シルヴァン様。この後は厩舎の掃除と、馬のお世話があって……」
「おいおい、まだ働くのか? ここはゴーティエの屋敷じゃないんだぜ」
「すこしでもシルヴァン様のお役に立ちたいのです」
真面目くさった返答に、シルヴァンは眉尻を下げた。到底真似できないし、真似したくない。シルヴァンがうんざりした顔でため息をつく間にも、の手は忙しなく動いている。
「別にそんなに一生懸命働かなくてもいいだろ? 俺の役に立ちたいなら、一緒にお茶を飲んで、可愛く笑ってくれたほうがよっぽど役立つと思うけどね」
手を止めないまま、が困ったようにシルヴァンを見た。
「わたしが働きもしないで、のんびりしていたら、シルヴァン様にもご迷惑をおかけしてしまいます」
「……ああ、大貴族ってのも困ったもんだな」
ゴーティエ家を離れてなお、その名を勝手に背負わせる。
嫌悪感を覚えて、シルヴァンは吐き捨てるように呟いた。がますます困ったように眉を八の字にして、ついには手を止めた。シルヴァンを見上げるの瞳には憐れみなどなく、ただ歪んだ己の顔が映っているだけだ。
シルヴァンは無理やり口角を上げる。
ぎこちない笑みを貼り付けて、シルヴァンはの頭をぽんと軽く叩いた。
「それじゃあ、邪魔者は退散するとしますか」
「シルヴァン様をお邪魔だと思ったことなんてありません」
「わかってるって。だからって、ここでお前をぼーっと見てるわけにもいかないだろ? 誰かさんにどやされる前に、ちょっとは真面目に鍛錬するさ」
ひらりと手を振って、シルヴァンは温室を後にする。その足は、柄にもなく宣言通りに訓練場に向かっていた。
「努力しないで強くなれたらなぁ……」
そうぼやいてしまう程度に、疲れた身体をうんと伸ばす。
これまた誰かに聞かれていたら眉をひそめられるだろう。シルヴァンは首根っこを揉み解しながら、周囲へ視線を向けた。幸い、人っ子一人見当たらなかった。
汗を流してから食堂へ行こう、と浴場へ向かいながら、シルヴァンはのことを考える。ガルグ=マクの居心地が良いのは、シルヴァンにとってここがかつての学び舎だからだ。家よりずっと、空気がうまい。
けれど、にはそうではない。
知らない土地で、知らない人に囲まれて、それでも愚痴も文句も一つも言ってこない。
「珍しい。真面目に鍛錬?」
ふいに声をかけられて、シルヴァンは足を止める。顎先に指を添えて小首を傾げるその顔は、ほとんど表情がない。対して、シルヴァンは引きつった笑みを浮かべた。
「先生、そりゃああんまりじゃありません? 俺だって、意外と真面目なんですって。知ってるでしょう」
「いいや。残念だけど、知らないな」
べレスがすこし眉尻を下げて、首を横に振る。
この様子では、学生時代べレスによく思われようと真面目ぶってみせたことも、見透かされていていそうだ。シルヴァンは「それは本当に残念ですねぇ」と、力なく笑った。
「」
「え?」
「だったかな? 君が連れてきた……恋人、で合ってる?」
シルヴァンはすぐに頷くことができなかった。
「一度、コナン塔で見たよね?」
べレスが確認するように、シルヴァンの顔を覗き込む。
ぼうっとしているように見えるし、すっとぼけたところもあるが、意外と抜け目ない。よく覚えているもんだ、とシルヴァンは関心を覚える。
「そうですよ、です。兄上に攫われた。……で、何かありました?」
「夕食を作ってくれたんだ。すごく美味しかったよ、早く行かないとなくなりそうだ」
シルヴァンは探るような瞳を一転、きょとんと丸くする。
ぽん、とべレスがシルヴァンの肩を叩く。「鍛錬の後だ、腹も空いているだろう」と、ほんのわずかに口角を上げて、べレスが揶揄うような響きで言った。
毛先がまだ湿っていたが、シルヴァンは気にすることなく、食堂に足を踏み入れた。
夕食時をすこし過ぎたくらいだが、まだ多くの人で賑わっている。ちら、とシルヴァンは食卓の食事を見やった。シルヴァンのよく知るファーガスの料理ではない。立ち上る湯気とその食欲をそそる匂いに、シルヴァンは無意識にごくりと唾を飲み込む。
ファーガスの土地は広いが、寒冷すぎる。
野菜は育たないし、長く寒い冬を越すため保存が効くように塩辛い。ゴーティエと名のつく乾酪も癖が強く、シルヴァンはあまり好きではない。
ぐるりと食堂を見回せば、の姿はすぐに見つかった。「ご馳走さま」やら「美味しかったよ」と声をかけられるたび、丁寧に腰を折っている。の肩に気安く男の手が伸ばされるのが見えて、シルヴァンは大股で近づいた。そして、その手から奪うようにして、を抱き寄せる。
に届くことのなかった手が、慌てたように引っ込められる。シルヴァンは牽制の意味を込めてそれを一瞥すると、の顔を覗き込んだ。
「、飯は済ませたのか? まだなら一緒にどうだ?」
驚いた瞳がシルヴァンを見て、さらに丸くなる。の指先が髪に触れた。
「シルヴァン様、お風邪を召してしまいます!」
「ん? 大丈夫だって、ここはゴーティエじゃねぇんだ」
「油断なさってはいけません。いま温かいものをご用意致しますので、お座りください」
がきゅっと眉間に小さな皺を作る。純粋に、ただひたすらにシルヴァンを心配する瞳を向けられて、つい目を伏せてしまう。
慌てて厨房に入っていくの背中を、やっと直視する。
「! 自分の分忘れるなよ、一緒に食おうな」
が振り返って「はい」と、律儀に頷く。
シルヴァンは頬杖をついて、手のひらで笑みを消した口元を隠す。我ながら心の狭小さに嫌気がさす。
に触れて欲しくない。それがたとえ、ディミトリやフェリクスであっても、許せそうになかった。シルヴァンは目を閉じて、長いため息を吐き出す。
「へぇ、本当に急いで来たんだ」
ぱち、とシルヴァンは目を開ける。シルヴァンが口を開くより早く、べレスが目の前の席に腰を下ろした。
「素行が改まったという話は聞かないけど」
「……どういう意味です?」
手のひらの下で、口の端が引きつる。
「そのままの意味だよ。イングリットが前にも増して、目を光らせているようだね。理由は明白だと思うけど、君は目を背けている」
何を考えているのかよくわからないような顔をしているくせに、その顔つきは間違いなく教師だった。シルヴァンは頭に浮かんだ適当な言葉の羅列を、口にはできなかった。
思わず、眉がひそまる。
「シルヴァン。君はもう士官学校の生徒ではない。五年も経ったというのに、まさか変わったのは髪型だけとは言わないね?」
「……いつになく、辛辣じゃないですか」
「さて、これ以上何か助言や指導が必要かな? もっと言ってもいいなら言おうか」
「いやいや、もう十分ですって! わかりましたよ、わかってます。自分でも、腹が立つほど情けないことくらい……知ってますから」
そう、と言ってべレスが席を立つ。
「先生、俺はね……無償の愛なんざ信じてないんです。親でさえそうだったんですから、他人なんて尚更。誰だって、見返りを求めるもんでしょう」
シルヴァンは苦笑も愛想笑いもなくした顔を、べレスへ向ける。硝子玉のように澄んだべレスの瞳は、諭すように静かだった。言葉が、感情が、そのまま自分に返ってくるような気がした。
「そうだね、無償のものというのは少ない」
べレスが頷く。それ以上、何かを言うつもりはないようだった。
入れ替わるように盆を持ったがやってきて、不思議そうにシルヴァンとべレスを見やる。
「べレスさん、まだお食べになりますか?」
「美味しかったけど、もう食べられそうにないな。それじゃあ」
べレスが首を横に振り、軽く片手を上げて立ち去る。
「すみません、お待たせ致しました」
配膳を済ませて、先ほどまでべレスが座っていた席に、が腰を落ち着ける。
シルヴァンは片肘をついたまま、を見つめる。とくに意図もなかったのだが、が恥ずかしそうに赤らめた頬を隠すように手を添える。
「あの、お口に合うかどうか……ファーガスとは勝手が違って、料理長にも色々教わったのですけど」
「俺も、修道院に来て初めて、ファーガスの料理が不味いって気付かされたね。先生も美味いって言ってたし、心配いらないだろ。うん、美味そうだ」
一口食べて「美味い」と告げれば、がうれしそうに顔を綻ばせた。その顔から目が離せずに、手が止まる。口先だけではなくて心の底から、の幸せそうな笑みを見つめていたいのだ。
そのくせ、すぐに目を逸らしてしまうなんて矛盾している。
元より、自分のうちなんて矛盾だらけだ。
いつかべレスにぶつけた苛烈な感情は、軽口で誤魔化してはみたもののあれはシルヴァンの本音だ。焦がれるほどの憧憬も、殺したいくらいの憎悪も今だってある。自分に群がる女性を嫌悪しながらも、試すような真似をして温もりや救いを求めている。家や紋章など関係なく、己を見てくれるのではないかと、諦めながらも期待している。
「」
はい、と答えたがじっとシルヴァンを見つめる。たじろぎそうになるが、シルヴァンは目を背けることなく見つめ返した。
「後で、部屋に行ってもいいか」
何度も似たような言葉を口にしてきたと言うのに、喉に張り付いたようにうまく声が出てくれなかった。
シルヴァンの期待や不安、緊張を吹き飛ばすようにがすこしも躊躇わずに頷く。
「はい、勿論です」
無意識に詰めていた息を吐き出して、シルヴァンはようやく手を動かし始める。満たされていくのは、腹だけではなかった。