いつもシルヴァンの口角は上がっていたけれど、ちっとも楽しそうではなかった。少なくとも、にはそう見えていた。ゴーティエ家は彼の生家であるにも関わらず、安らぎを覚えることもなければ、幸福を感じることもなかったのかもしれない。
 それが大貴族の、紋章をもって生まれた嫡男の、宿命にも似た何かなのだろうか。

 だからこそ、ガルグ=マクでの一年間は、楽しい思い出をたくさん作って欲しかった。先生と、幼馴染と、同級生と笑い合うシルヴァンの姿を見て、はより一層強くそう思ったのだ。
 結局、シルヴァンが士官学校を卒業することはなかった。
 アドラステア帝国がガルグ=マクに攻め入ってから、もう五年もの月日が流れた。

 ファーガス神聖王国は様変わりしてしまった。帝国への抵抗と、北方のスレン族への牽制とで、ゴーティエ領の緊張感は強まるばかりだ。次期当主であるシルヴァンへの期待や責任は、計り知れない。


「悪いけど、ちょっと留守にするわ」

 買い物にでも出かけてくる、というような物言いで、シルヴァンが告げた。
 本来ならば、大規模な祝祭”千年祭”が行われるはずだった星辰の節を迎えたばかりである。シルヴァンの言う「ちょっと」がどの程度なのか、どこへ行くというのか、には知る由もない。

 暖炉に薪をくべる手を止めて、は振り返る。
 シルヴァンがふーっと長いため息を吐いて、髪をかき上げる。「今日も寒いな」と、寝椅子に身を沈めたシルヴァンの視線は、を捉えてはいなかった。
 ゴーティエの冬の寒さは厳しい。何度経験してきても、堪えるものがある。
 パチリ、と暖炉の炎が小さく爆ぜる。

「シルヴァン様」

 はシルヴァンにひざ掛けを手渡して、彼の目前に膝を付いた。
 俯いたその顔に笑みはなかった。見慣れた貼りつけたような笑みを見るよりも、ずっといい。はそっと、膝の上で組まれたシルヴァンの手に触れた。指先が冷たい。

「旦那様には、わたしがお伝えしておきます。シルヴァン様の留守はお任せください」

 シルヴァンが小さく息を呑んで、一瞬だけ痛みを堪えるような顔をした。ふいに、ぎゅうっと手を握りしめられる。手が冷たさに包まれるのを感じると同時に、の視界が覆いつくされる。

「……悪い」

 シルヴァンの声が耳元に落ちる。縋りつくような力強さで片腕がを抱きしめるので、は息苦しさを覚えながらもシルヴァンの背へ手を回す。
 ──もし抱きしめたら、また俺のことを抱きしめ返してくれるか?
 の脳裏に、いつかのシルヴァンの声が過る。たとえ何年経とうとも、シルヴァンの言葉を忘れたりはしない。

 はは、とシルヴァンが力なく小さく笑い声を漏らした。

「突き飛ばしたっていいんだぜ。なあ、……俺を、あんまり甘やかすなよ」
「できません」
「……相変わらず、本当に馬鹿だな」

 シルヴァンの腕が緩んで、顔を覗き込まれる。ふ、とシルヴァンが吐息を漏らすように笑んだ。

「この五年、ろくに構ってやれなかったってのに、まだそんな顔してくれるんだな」

 指先が頬をなぞるように触れる。
 熱を持った頬のせいで、なおさら指先の冷たさを感じるようだった。部屋は温まっているはずだが、暖をとるには足りないだろうか。

「お寒いですか? あたたかい飲み物をご用意しましょうか?」
「いや、いい。こうしてるほうが温まる」

 言いながら、シルヴァンの両腕がを抱きすくめる。それは到底温もりを求めるものではなかった。存在を確かめるように、抵抗を恐れるように、恐々した様子で腕に力が込められていく。

 シルヴァンはわかっているようで、わかっていない。
 はシルヴァンを否定したりしない。拒むこともない。絶対に、彼を傷つけることだけは、しない。

「……殿下は、どっかで生きてんのかね。先生が居てくれたら」

 静かに落ちる声が途切れる。は、とその唇から漏れたのは、自嘲めいた諦めたような笑いだった。

「やめだ、やめやめ。たらればなんてのは、虚しくなるだけだな」

 シルヴァンが弱音をこぼすのは珍しい。
 幼馴染の中でも頼れる兄貴分であり、ゴーティエ家においても頼みの綱のような存在だ。

 ほんとうは、もっと、弱音も泣き言も吐いてほしい。

 シルヴァンがくれる言葉はやさしくて耳障りが良いけれど、そのぶんまるで本音が見えてこない。嘘を吐かれているわけではない。けれど、きっと、ほかにも思っていることがたくさんあるのだろうなと思うのだ。
 それを口にすることはできなくて、はただ、慰めるようにシルヴァンの背をやさしくさする。
 大きく広い背だ。しかし、その背に肩に乗せられた重荷は、彼を押しつぶしてしまわないかと心配になる。

「明日の朝、ここを発つ」
「はい。馬は一頭でよろしいですか?」
「あー……そうだな、一頭でいい」

 シルヴァンが立ち上がる。そうして、膝を付いたままのに対して、手を差し出した。広げられた手のひらは、いくつも胼胝のある戦う者の手をしている。口では何と言おうとも、シルヴァンが鍛錬を怠っていないことがよくわかる。

「何呆けているんだよ。ほら、立てって」

 じっと手のひらを見つめていれば、焦れたシルヴァンに手を掴まれて引っ張り上げられる。よろけた身体が、シルヴァンの胸元にとんと軽く触れた。

「す、すみません」
「床に座り込んでたら、何か冷えちまったな。やっぱり、紅茶でも淹れてもらっていいか?」
「はい、只今」

 冷えてしまったと言う割りには、シルヴァンの手は温もっていた。



 茶器にお湯を注ぐ手が、震える。
 行かないで、という言葉を何度呑み込んだことだろう。このご時世、離れてしまったら二度と会うことが叶わないかもしれない。

 涙で視界がぼやけて滲み、思わずお湯を溢れさせてしまった。慌てて布巾で拭くと、動揺のせいか指先が茶器に触れてしまう。は小さく声を上げて、指先を口に含んだ。

「どうした?」

 声が聞こえてしまったのか、ひょいとシルヴァンが顔を覗かせる。
 振り向くことができなくて、は背を向けたまま「何でもありません。もうすこしだけお待ちください」と、答えた。声が震えることはなかった。

、こっち向けよ」

 戸口に立ったまま、シルヴァンが近づく気配はなかった。
 は顔を伏せたまま、身体ごと振り返る。すぐに涙を止めることなどできなかったが、シルヴァンの命に背くことなどもっとできなかった。

「はあ……なぁんで俺の前で泣かないのかね。やけにあっさりしすぎてるから、さすがに愛想尽かされたかと思っただろ」
「今さら何があったって、愛想を尽かしたりしません」
「何か含みのある言い方だな。まあ、それ相応のことをしてきた自覚はあるとはいえ、胸にくるものがあるな……」

 に近づいたシルヴァンが、指を引っかけて顎をすくう。

「まだ、俺のことが好きか」

 そう問うシルヴァンは、この上なく真剣な顔をしていた。涙でよく見えなくてもわかる。

「勿論です。お慕い申し上げます」

 とシルヴァンはあくまでも主従関係でしかない。
 ろくに構ってやれなかった、との言葉通りに、とシルヴァンの間には何もなかった。情勢が変わってそれどころではなかったというのもあるが、とはいえシルヴァンの火遊びは続いている。

「報われたいなんて思っていません。わたしは、あなたのお役に立てれば十分です」

 寧ろ、こうして傍に置いてくれるだけで、はもう報われた思いである。
 だからこそ、困らせてはいけないし、迷惑を掛けまいと思うのに、涙は止まってくれる気配がない。

「俺はさ、この家が息苦しくて仕方がなかった。兄上を疎み、俺に期待して媚びるような視線も、大嫌いだった。今だって、ここを好きになれないけど、見ての通り逃げることもできないわけで」

 シルヴァンが軽く肩を竦める。

「だけど、お前がおかえりって迎えてくれるから、帰ってくることができた」
「シルヴァンさま、」
「待たせてばっかりでごめんな。俺の中で、本当はとっくに答えは出てる」

 おもむろに広げられたシルヴァンの腕が、を包んだ。あまりの驚きには抱きしめ返すことができずに、呆然と身を任せる。まるで夢を見ているような心地だった。

「俺は、必ずの元に帰ってくるよ」

 やさしい抱擁だ。息が詰まることもない。けれど、は声が出なかった。

「言葉だけじゃ不安だって言うなら、一緒に来るか?」

 軽薄な口ぶりだったが、シルヴァンからは緊張が伝わってきた。涙を拭う手の動きが、らしくもなく、やけにぎこちない。

「よろしいのですか?」
「……寧ろ、俺がに来てほしい」

 ふ、と思わずの口から笑みが漏れる。
 ようやく涙が治まって、シルヴァンの顔がよく見える。眉尻をわずかに下げて、苦笑にも似た笑みを浮かべた顔は、薄っすらと赤い。

「あなたが望むのなら、地獄にだってお供いたします」
「いやいや。さすがに、地獄には付き合わせられねぇって……」

 シルヴァンが呆れたように笑った。

 気がついたときには、茶器の紅茶は冷めて、渋くなってしまっていた。淹れなおそうと湯沸かしに手を掛けたを制するように、シルヴァンの大きな手が重なる。

「紅茶はもういい。十分、温まっただろ?」

 の赤くなった頬に、温かいシルヴァンの手が触れた。







「ほんとうに一頭だけでよろしかったのですか?」

 ブルルっと馬が鼻を鳴らす。
 雪は降っていなかったが、吹き付ける風はひどく冷たい。これがゴーティエの冬である。

「ん? ああ、これでいいんだよ……っと」

 シルヴァンがひょいと軽い仕草で馬に跨る。そして、の手を引いて己の前に座らせる。ぴたりと身体が密着するので、は恥ずかしさに身じろぐ。

「ほら、こうしてくっついたら暖かいだろ? 暖もとれて、とこんなに近くにいれて、一石二鳥だな」

 耳元でシルヴァンが楽しそうに笑う。
 風は相変わらず冷たいのに、の身体は熱を帯びていく。赤くなった耳朶に、シルヴァンの唇がちゅっと触れる。

「あー、可愛い」
「シルヴァンさまっ」
「よし、ガルグ=マクへ出発!」

 咎めるようなの声を無視して、シルヴァンがなおも笑いながら馬の腹を蹴った。

そののなかに

(抱きしめて包み込まれるのは、俺のほうだ)