カタ、と椅子が揺れる音は小さく、雨音にかき消されてしまいそうだった。顔を覗き込まれて、シルヴァンが膝をついていることに気がつく。驚いて飛び上がりそうになったを、握りしめるシルヴァンの手が制する。

「し、シルヴァンさまっ」
は一緒じゃなかった。そんなことにも気づかないで酷いことをした俺を、まだ好きでいてくれるんだな」
「シルヴァン様……?」

 は不思議に瞳を瞬いた。シルヴァンがやさしげな目元を柔らかく細めて、困ったように笑う。

「兄上の世話係を嫌々やっていたんじゃないか、俺の世話係になって嬉々としているんじゃないか、そんなことばかり考えて、俺はお前のことを見てすらいなかった」

 シルヴァンの指先がの頬をなぞるように触れる。
 シルヴァンの生家が納めるゴーティエ領は王国の中でも最北端に位置する。寒い土地柄のせいか肌の色は薄いが、は少し毛色が違っている。「スレンの血が混じっているんだな」とのシルヴァンの言葉通り、異邦の血が四分の一この身体には流れている。

 北方の民スレン族は、長い間王国を侵攻しようとゴーティエ領で諍いを続けている。ファーガス神聖王国において、そんなスレン族が好意的な目で見られるはずがない。母はよりもスレン族の特徴が出ていて、一緒にくっついていた幼い頃はよく罵倒されたし、石を投げられたこともある。
 手を差し伸べてくれるのは、ほんの一握りだけ──シルヴァンもそのうちの一人だった、ということは、誰にも話したことがない。当人の記憶だって、もうだいぶ薄れていることだろう。

「馬鹿だな……俺がに声をかけたのは、冷遇されている兄上の姿が重なったからで、お前に同情したからじゃない。兄上に対する罪悪感をすこしでも軽くしたかっただけなのに」

 ぎゅっと両手で包んだの手を額に押し当てて、まるで懺悔するかのようにシルヴァンが言葉を紡ぐ。

 シルヴァンがあんな些細なことを覚えてくれていたことが、嬉しい。
 は静かに瞼を下ろす。
 もっともらしい理由なんて必要なかった。くだらない見栄や、ちっぽけな正義感でも構わなかった。だって、それでも手のひらは暖かいし、言葉はやさしく響くことに変わりはない。幼いシルヴァンの姿もまた、の瞼の裏には存在している。
 空いている手で赤みの強い橙色の髪に触れて、頭を抱きしめる。緊張が走ったように、シルヴァンの身体が一瞬強張った。

「いいんです。可哀想だなんて、そんなふうに思われるのは御免ですから」

 シルヴァンが顔を上げる。「本当に、馬鹿だなぁ」と、言うシルヴァンの声音はやさしくて、触れる手も暖かい。
 こつり、とシルヴァンの額が膝にくっつく。

「シルヴァン様、どうかお立ちください。わたしなどの前に跪かないでください」

 小さな苦笑と共に、シルヴァンが立ち上がった。ふっ、とにかかる影が近づいて、色濃くなる。はっとしては慌てて身を引くが後頭部に回された手が、逃げることを許さなかった。
 
 唇にやわらかい感触が優しく触れて、反射的には目も唇もきつく閉じる。
 すぐに離れた唇にほっと息をつく間もなく、今度は唇全体を食むようにして再び口づけられる。シルヴァンの舌が唇の表面を舐めて、ぴたりと閉じた唇の中に入りたがるように、やさしく突いてくる。

「っは……」

 あまりの緊張から無意識に息を止めていたらしく、は口を開けて息を吸った。酸素と同時に口腔内へぬるりと舌が入り込む。奥に引っ込めた舌を絡め取られ、吸いつかれる。
 シルヴァンの胸を押し返してみるが、びくともしない。
 歯の裏側を舌先が丁寧に舐めて、もっと奥へと伸びたそれが口蓋をこするように舐め上げる。ぞわりとくすぐったさにも似た感覚が、背筋を駆け上る。は思わず、シルヴァンに縋るようにしがみついた。

 腰を屈めていたシルヴァンが、膝を折って寝台に乗り上げる。ギシ、とばねが軋む。
 離れた唇が、ちゅっと顎先を啄ばみ、首筋に触れる。

「あ……」

 後頭部にあった手がうなじを支えて、を寝台にやさしく押し倒す。
 目を開けるとシルヴァンの顔がすぐそばにあった。

「シルヴァン様、」

 の頬をシルヴァンの指先が撫でる。先ほどされたのと同じような動きだったのに、まったく違うように感じるのは、の顔が熱を帯びているからだろうか。

「その顔が見たかった」
「かお、ですか?」
「首の方まで真っ赤にした、恥ずかしそうな顔だよ。俺のことが好きだ、って雄弁に伝えてくる、ちょっと潤んだ目がさ……可愛くてしょうがない」
「や、やめてください」

 は羞恥から顔を背けた。シルヴァンの指が顎を掴んで、覗き込むように視線を合わせてくる。

「……可愛い、って本気で思ってたよ。揶揄っているつもりなんてなかった」

 シルヴァンの親指の腹が、ぷくりと下唇を押さえる。やわらかさを確かめるように何度か指で触れてから、輪郭に沿ってずれた手のひら全体が頬を包む。

「なあ、今度こそちゃんとのこと見るよ。もし抱きしめたら、また俺のことを抱きしめ返してくれるか?」

 を見つめる薄茶色の瞳に、懇願するような色が見えるのが不思議だった。

「勿論です。あなたが望むのなら、何だってします」
「……そりゃ頼もしい。けど、今回みたいな真似はもうしないでくれよ。女の子ってのは、男が守るもんだしな」
「お約束できかねます」

 の言葉に、シルヴァンが眉尻を下げて笑った。

「とことんブレないな。そういうところも、結構」

 シルヴァンが一度唇を結ぶ。
 すこしの間が空いたのは、躊躇ったのかもしれない。

──結構、好きなんだぜ」

 雨音は、なおも激しい。
 やさしく吐息を漏らすようにシルヴァンが言うから、耳をすませていなければは聞き逃していただろう。
 答えるべき言葉を持っていなかったが、この上なく赤くなったの顔を見て、シルヴァンが満足そうに目を眇めた。

「可愛いな。このまま、ガルグ=マクに連れて帰りたいくらいだ」

 これで揶揄っているつもりがないなんて、冗談じゃない。は軽く眉を寄せる。不服を表すために尖らせた唇は、シルヴァンのそれで覆われる。「可愛いおねだりだな」と、シルヴァンが笑いを含んで囁く。口づけをねだったわけではないとわかっている口ぶりだ。

「シルヴァン様、」

 は咎めるように名を呼ぶが、主人に小言など言えるわけがない。ぽんぽん、とシルヴァンが幼子をあやすように軽く頭を撫でる。

「ちょっとした冗談だろ? 可愛いのは本当だけどな」
「……もうお部屋にお戻りください」

 の言葉など聞こえなかったように、シルヴァンが隣に身体を横たえる。一人用の寝台で大人二人が並ぶとひどく狭く、シルヴァンがを抱き込むようにして密着する。
 シルヴァンの顔が首に埋められて、吐息が肌に触れる。

「このまま眠らせてくれ」

 はすぐに頷くことができなかった。けれど、このまま追い返すのも憚られる気がして、は目を閉じて身を委ねる。「ありがとう」と呟く声はひどく小さかったけれど、ようやっと雨がおさまってきたのか、しっかりとの耳に届いた。
 シルヴァンの腕の中は心地よく、すぐに微睡みがやってきた。
 はゆっくりと唇を動かす。

「おやすみなさい、シルヴァンさま」

 おやすみ、とシルヴァンの声が唇のすぐそばで、聞こえたような気がした。

モラトリアム

(紋章がなければと願い、紋章がなくてもと祈る)