翠雨の節らしく、降り続ける雨音に混じって戦いの音が段々と近づいてくる。はそれに気がついて、首をもたげる。

「動くな」

 刃先が首筋に触れる。ただ押し当てられたそれが皮膚を斬り裂くことはなかったが、の身体は硬直し、喉がごくりと上下する。「妙な真似をしようだなんて、思っちゃいないだろうな」と、低い声が頭上から降ってくる。
 は唇を結んだまま視線を上げる。手足を拘束された状態では抵抗しようもないが、何か言うつもりにもなれなかった。

 その姿を目にするのは、実に三年ぶりであった。ゴーティエ家の長子でありながら、紋章を持たぬことを理由に廃嫡されたマイクランが、に槍を突きつけている。
 禍々しいその槍は、ゴーティエ家が所持する英雄の遺産たる破裂の槍だ。
 マイクランには本来それを持つ資格はない。

 を見下ろすマイクランの瞳は暗いように見えた。その髪の色も瞳の色も、弟と同じであるというのに、額中央の傷跡も相まって全く異なった印象を与える顔立ちをしている。

「お頭、奴らが迫って来やがる!」
「フン……迎え撃て。焦る必要はない、俺には槍がある」

 マイクランがぐっと破裂の槍を握り直し、より一層の肌に刃を押しつける。

 英雄の遺産を盗み出しておいて、ただで済むなどとは思っているはずがない。そんなことはわかりきっているのだ。
 けれども、マイクランには理由がある。ゴーティエ家に対する憎しみや恨みは、根が深い。そして、それは一層弟にも向けられたものでもある。破裂の槍は、いずれ次期当主となる弟が手にするだろう。

「“お嬢さん”は何でも持っているんだ。一つや二つ、俺が奪ったって構いやしないだろう」
「……」
「なあ、。お前もそう思うだろう?」

 は瞳を伏せる。
 マイクランの事情を知っているからこそ、かけるべき言葉を持たないのだ。紋章をもって生まれた故に、蝶よ花よと育てられた弟を揶揄して、“お嬢さん”とマイクランが嗤う。

 けれど彼は、一つ思い違いをしている。のことも弟から奪ったつもりのようだが、残念ながらは彼にとって何の価値もない。ただの使用人、それどころか嫌悪されているかもしれなかった。
 シルヴァン様、とは胸中でその名を祈るように呟いた。


 マイクランの討伐に当たっているのは、セイロス騎士団ではないらしい。士官学校の制服が目に入り、は咄嗟に顔ぶれを確認した。兄を討つなんて真似をして欲しくなかったのに、シルヴァンの姿を見つけては息を呑む。

「マイクラン様、」

 もはや逃げ場などない。
 見上げたマイクランの顔は、憎々しげにシルヴァンを睨んでいた。

「何しに来やがった……紋章持ちの“お嬢さん”がよう……!」

 マイクランがぎり、歯を噛み鳴らした。そこにあるのは単なる兄弟の愛憎ではない。
 を見て丸く見開かれたシルヴァンの瞳が、鋭く細められる。「決まってるだろ。破裂の槍、取り返しに来たんだよ」と、静かに告げるシルヴァンの声は、感情を押し殺しているように聞こえた。

 ひたりとの首筋に刃先が添えられ、近づくシルヴァンが足を止めた。

がどうなってもいいのか?」
「……とことん屑野郎に成り下がっちまったな」

 ちら、とシルヴァンの視線がを一瞥する。
 構えていた槍を下ろし「は関係ないだろ」と、シルヴァンが少しばかり怒りを滲ませて言った。

「俺は貴様の大事なものを奪うんだよ」

 ──シルヴァンの大事なものになんて、なれやしなかった。は瞼を下ろす。

 ふいに、蛇腹に伸びた剣がマイクランに迫る。
 死角からの攻撃だったが、素早くそれに反応したマイクランが身を低くしてを盾にする。剣はすぐに手元へと戻っていき、を傷つけることはなかった。チッ、とマイクランが舌を打つ。
 マイクランが体勢を立て直すより早く、シルヴァンが槍を振るった。マイクランの肩を穂先が抉る。

 マイクランが呻き、は地面に転がった。「大丈夫?」と、すぐに抱えてくれる手があり、手足の拘束も解いてくれる。あちこち擦りむいて痛かったが、は頷きを返した。

「貴様さえ……貴様さえいなけりゃあ……!」

 まるで呪詛のようだった。シルヴァンが軽く肩を竦めるような仕草をして、槍を握り直す。

「その台詞は、もう聞き飽きたぜ。……そろそろ黙ってもらおうか、兄上」

 は抱えてくれている彼女の腰元に括られた短剣を拝借して、その腕を抜け出す。
 対峙するシルヴァンとマイクランの間に身を滑り込ませ、短剣を振りかぶる。マイクランの左腕を浅く斬るのに留まったが、はシルヴァンを背に庇うように立って剣を構える。

「シルヴァン様が尻拭いなさる必要はありません」

 には剣や槍の心得などはない。緊張と恐怖に手が震えるが、だからといって今さら怖気づいて引くわけにはいかなかった。ぎゅっと唇を噛みしめる。廃嫡されたとはいえ、にとってマイクランはシルヴァンの兄であり、本来なら刃を向けることなど許されない。
 けれど、シルヴァンの為ならば、は剣にも盾にもなれる。

「わたしの命など好きになさって構いません。ですが、シルヴァン様には傷一つ負わせは致しません」
「フン、侍女如きがほざけ! 望み通り、貴様から殺してやる!」

 マイクランの凶刃がに迫ることはなかった。
 破裂の槍に嵌め込まれた紋章石が赤い光を放ったかと思えば、黒い触手のようなものが伸びてマイクランに絡みついたからだ。それは彼を飲み込んでいくようだった。

「下がって!」

 呆然とするを背に押しやったのは、先ほど抱きかかえてくれた女性だった。はようやく彼女が身に纏うのが制服ではないことに気づく。「これは返してもらうよ」と、嗜めるように言って、彼女がの手から短剣を取り上げた。

「先生、こりゃあ一体……」

 シルヴァンの呟きは引きつれていた。
 あっという間に黒い何かに覆われたマイクランの身体が、巨大な異形へと姿を変える。人ならざるものは、硬い石のような表皮をしている。頭と背に鋭い角を有し、唸り声を漏らす口元にも大きな牙が覗く。

 蜘蛛の子を散らすようにマイクランの仲間たちが逃げていくが、尻餅をついた一人が大きな爪を持つ禍々しい手によって捕らえられる。
 さっとの視界を塞いだのは、シルヴァンだった。抱きしめるようにして、の顔を胸に押しつけるその手が微かに震えているような気がした。悲痛な悲鳴が消えて、見えなくても何が起きたのか想像がつく。

 はぎゅうと目を瞑る。轟く雷鳴に、思わずびくりと身体が震えた。

「みんな、一旦距離をとって!」

 先生、と呼ばれた女性が声を張り上げた。

「シルヴァン、安全な場所まで下がるんだ」
「いや、俺が下がるわけにはいかないでしょう。ケリはちゃんとつけますよ」
「彼女の思いを無下にしてはいけない」
「……これは、俺の家の不祥事です。だから、こればっかりは、悪いが先生には従えない」

 はおもむろに顔を上げて、シルヴァンを見やる。「悪い」と、シルヴァンが短く告げる。そして、の背を押しやった。

「やっぱり、尻を拭うのは弟の仕事だからさ」

 すこしだけ眉尻を下げてシルヴァンが寂しげに笑った。はもうそれ以上、何かを言い募ることはできなかった。マイクランだったものの咆哮を背に、走るほかない。そうして、シルヴァンの槍が獣を貫き、身体が崩れたそこにマイクランと破裂の槍が現れる様を遠くからただ見ていた。
 立ち尽くすシルヴァンがぎゅうと槍を握りしめる。

「……兄上」

 ──シルヴァンにとってもまた、廃嫡されてもマイクランは兄なのだ。






 コンコン、と静かに扉を叩く音が聞こえては顔を上げた。
 マイクランが根城としていたコナン塔は、フラルダリウス領である。当然ながらガルグ=マク大修道院からは距離があり、ゴーティエの屋敷からも距離があるため、は討伐隊と共に宿の一室にいた。頑なに遠慮するを強引に部屋に押し込めたのは、シルヴァンだ。

「……起きてるか」

 は慌てて扉を開ける。

「シルヴァン様」
「疲れてるだろうに、悪い」
「いいえ、構いません。まだ……眠れそうにない、ですから」

 だよなあ、と苦笑をこぼすシルヴァンを部屋に招いて、一つだけある椅子を勧める。

も座れよ」
「いえ、わたしはこのままで」
「寝台が空いてるだろ」

 早くと促されるので、は言われた通りに寝台に腰を下ろす。
 項垂れたシルヴァンが深いため息を吐いた。前屈みになったまま、膝に肘をついて手のひらに顎を乗せると、シルヴァンが視線をに向ける。背の高いシルヴァンが見上げるような格好になるので、は何故だか居たたまれないような心地がする。シルヴァンに傅く身としては、つい膝をつきたくなってしまう。

「どうしてが居るんだよ」

 棘のある声音だった。

「屋敷でマイクラン様と鉢合わせてしまって」
「わかってる。ただの偶然で、不運だったって、わかっちゃいるんだ」

 シルヴァンがもう一度吐いたため息は、震えていた。伏せられた瞳がいまにも泣き出しそうに見えて、は思わず手を伸ばしかける。

「兄上は、俺が何でも持っていると妬んだが、俺が欲しかったものなんて一握りもありゃしないのにな」

 シルヴァンが悲しげに、嘲るように、唇を歪める。

 手を伸ばしたのは、シルヴァンのほうだった。躊躇うような動きを見せてから、その手はに触れて遠慮がちに指先を握る。まるで拒絶を恐れているように見えた。
 は何も言わずにシルヴァンの瞳にかかる睫毛を見つめる。
 何度かの瞬きののち、おもむろに視線がを捉えた。

、お前はその一握りのうちだよ」
「え?」
「だから、兄上に奪われなくてよかったって、心底思ってる」

 は信じられない気持ちで、瞠目する。
 沈黙が落ちる。止んでいた雨がまた降り出したようで、雨音が聞こえてくる。雨脚が次第に強まり、段々と窓を叩きつけるような激しいものに変わっていく。

「シルヴァン様は、わたしのことがお嫌いなのだとばかり思っていました」

 どいつもこいつも一緒だな、と吐き捨てるように言ったシルヴァンのことを、まるで昨日のことのように思い出せる。温度なく見下ろす瞳は、いまも瞼の裏に焼き付いている。
 元はマイクランの世話係を任されていたは、彼が廃嫡と同時に家を出た折に、シルヴァンの世話係になった。シルヴァンの可愛いだの何だのという褒め言葉を真に受けて、一々顔を赤くさせていた自分が恥ずかしい。抱きしめられて、同じように抱きしめ返したら、先の一言を放たれたのだ。

「わたしは、あなたの大嫌いな浅ましい女でしょう」

 指先から移って、手全体を握りしめられる。嫌な気持ちひとつ湧いてこないのが、何よりも浅ましい証拠のようだった。まっすぐ向けられるシルヴァンの視線から逃れるように、は俯く。

「……まだ、あなたをお慕いしています」

 何とか絞り出した声は、みっともなく震えていた。