はあ、とこれみよがしにイングリットがため息を吐いた。眉間に刻まれた皺をからかおうかと思ったが、言いたいことはおおよそ見当がついているため、シルヴァンは口を噤む。

「……わかってるわね」
「な、何だよ。安心しろって、ほら、俺も随分とおとなしいもんだろ」
「当たり前のことをしているだけです。恋人がありながら、他の女性を口説くなんて言語道断。というものがありながら、そんな真似をしてみなさい」

 イングリットの瞳が鋭く細められる。「私は元より、殿下に鼻をへし折ってもらいます」と、拳を握りしめるイングリットの顔は真剣そのものだった。
 それはまさしく言葉通りに、引っ叩くという意だろう。
 冗談ではない。あの馬鹿力に殴られたら最後、この男前が吹き飛んでしまう。シルヴァンは引きつった笑いを漏らす。

「私が言ったこと、夢夢忘れないように頼むわよ。を、大事にしてあげて」

 言われずとも、大事にしているつもりだ。
 以外の女性とは縁を切ったし、今のところは目移りもしていない。側から見れば、シルヴァンはのおかげで更生したように映るはずだ。

「わーかってるって」
「信用ならないのよ。を泣かせでもしたら、承知しないから」

 イングリットに凄まれ、シルヴァンは両手を挙げて降参の意を示す。それでもなお、不服そうな顔をしながらイングリットが踵を返した。
 もうすでに、ある意味泣かせてしまった。なんてことは、口が裂けても言えない。

 「シルヴァンさま」と、か細く震える声には、なかなかくるものがあった。紅潮した頬を滑り落ちた涙が、なんだがひどく尊いもののように見えたのは、ほんのわずかに残る罪悪感せいだろうか。
 に告げた通りに、シルヴァンは彼女とお茶や食事を楽しんで、時折身体を重ねている。

 初めの数回は、にとって苦痛ばかりだったかも知れないが、艶っぽい声が漏れるくらいには馴染み始めているようだ。
 これがの“いい思い出”になるのかは甚だ疑問であるものの、自分で言い出した手前もはや撤回することもできない。半ばヤケクソであったことは認める。後悔にも似た気持ちが沸き起こるときには決まって、どうせと吐き捨てたくなる思いが生まれる。

 シルヴァンと同じように、遠くない未来には適当にあてがわれた相手に嫁ぐのだろう。
 やるせなくて腹立たしくて、けれどそれ以上に諦めの気持ちが強い。

「……まあ、だから何だってわけでもないけどな」

 そうだ、シルヴァンはそのこの上なくつまらない人生から逃げ出すことはない。を助け出すこともない。
 吹きつける風の冷たさに首を竦める。シルヴァンは婚約者と一度も顔を合わせないまま、聖辰の節を迎えていた。今節に控えた舞踏会に、ガルグ=マクは浮き足立った雰囲気に包まれている。
 舞踏会といえば、誕生会と称した場で散々踊ったことが思い出され、シルヴァンは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。やはり、踊った相手の顔は一人として記憶に残っていなかった。




 がこの寝台で眠りに落ちたことはない。
 皺くちゃになった制服を拾い上げるを、シルヴァンは寝そべったまま見つめた。「あまり、見ないでください」と、が気まずそうに言って袖を通す。

「恋人の特権だろ?」

 が横目でシルヴァンを見ながら、釦を止めていく。

「なあ、もうちょっとゆっくりして行ったらどうだ?」

 ほっそりとしたの指を握る。
 戸惑いに満ちた瞳が揺れていた。中途半端に止められた釦は、まるでこの関係のようだった。恋人と言ってみたものの、実際はひどく曖昧で宙ぶらりんの関係だ。シルヴァンの囁く好きに気持ちなどないし、その言葉にが応えることなどない。

「眼福」

 シルヴァンは小さく笑って、の谷間に指を這わせた。はっと息を飲んだが身を捩る。

「……こんな貧相な身体が、目の保養になるわけがありません」

 シルヴァンは目を丸くする。
 貧相、という表現は、に相応しくない。

「華奢なんだよ、は」

 軽く手を引けば、が容易く均衡を崩した。シルヴァンは倒れ込んできた身体を抱きとめ、組み敷く。
 細い首に指を添える。シルヴァンがその気になれば、折ってしまえそうだ。浮き出た鎖骨を撫でて、薄い肩へ指を沿わせる。ぎゅっとつぶられた瞳が、ゆっくりと開いた。

 の目にシルヴァンは、いったいどう映っているのだろう。じっと覗き込んだところで、わかるわけもなかった。

「お離しください」

 が非難がましい視線をぶつけてくる。シルヴァンはそれを笑って受け流し、首元に顔を埋めた。

「なあ、もう一回」
「なりません」

 ぴしゃりと跳ね除けられて、シルヴァンは身を起こした。縋るつもりなど毛頭なかった。
 素早く身支度を終えたが、扉の前で振り返った。どこか責めるふうにシルヴァンを見つめながら、けれど「おやすみなさい」と丁寧に会釈をした。



 そのちぐはぐさが引っかかって、シルヴァンは名を呼んでみる。
 シルヴァンを一瞥したが、物言わぬまま扉を開けた。そうっと廊下を伺ったの身体が、びくりと大袈裟なほどに震えると同時、慌てた様子で扉を閉めた。そうして、ぐっと扉を押さえつける。

「どうして、」

 が小さく呟く。
 扉の取っ手が、が握りしめる力などものともせず、ガチャと音を立てて動いた。
 外側から押し開けられる勢いに、がたたらを踏んだ。扉がみしりと悲鳴を上げる。シルヴァンはさすがに肝を冷やし、咄嗟にの肩を抱き寄せた。

「殿下……あんた、俺の部屋の扉を壊すつもりですか」

 ディミトリがはっとした顔をして「すまない」と口にしたが、その視線は鋭くシルヴァンを見据えている。

「…………噂は、本当だったのか」

 ディミトリが怒らせていた肩から力を抜いて、深くため息を吐く。
 一方で、シルヴァンの腕の中のの身体は、ひどく強張ったままだ。

「そうか。ならば、俺が何かを言うべきでは──

 思案するように黙り込んだディミトリが、シルヴァンから視線を外した。

「そうそう、殿下には迷惑かけませんって」
「……その言葉を信じよう。それにしても意外だな、お前たちは案外うまくやれているのか」
「はは、まあ見ての通りですよ」
「お前の悪癖はよく知っているし、どうなることかと思っていたが……杞憂だったか。辺境伯もさぞ安心されているだろう、今年は色々あったからな」

 ディミトリの妙な言い回しに、シルヴァンは眉をひそめた。

「正面、この婚約には懐疑的だった。しかし、お前もようやく心を入れ替えたようで安心したよ。シルヴァン、を頼む」

 がディミトリの口を塞ごうと手を伸ばしたが、遅かった。
 シルヴァンは思わずぽかんとして「はあ」と、間の抜けた相槌を打った。が気まずげに俯く。

?」
「……ディミトリ、あなたは本当に空気が読めない」

 随分と気安い態度に、がディミトリの遠縁であることを思い出す。それと同時に、父の言葉も朧げながらに蘇ってくる。

 今や地方の一貴族だが、その血筋をたどれば王家に所縁ある──婚約者の姿絵も拝まず、名前すら聞き流していたことを、シルヴァンは初めて後悔した。

 シルヴァンを振り返ったの顔は、まるで泣き出す一歩手前のように歪んでいた。

「申し訳ありません。今夜は、お暇させていただきます。おやすみなさいませ」

 が制服の裾を持ち上げて、一礼する。
 不思議そうなディミトリの背を押しやり、が廊下に出る。扉が静かに閉じられ、部屋に静寂が訪れる。

が、婚約者?」

 シルヴァンは脱力した身体を寝台に沈める。
 呟いた唇の端が、ひくりと引きつった。






 どうしたって、声をかける勇気が出なかった。
 何が火遊びだ。シルヴァンの考えなしで、あまりに薄っぺらい言葉を、がどう思ったのかなんて考えたくもない。

「後悔している?」

 無機質とさえ感じる声が問いかける。それがシルヴァンに向けた言葉ではないとわかっていても、どくんと心臓が音を立てた。
 そっと温室の中を伺いみれば、とベレトが並び立つ姿があった。

「わかりません。言わなくちゃと思うたびに、でもそれを伝えてしまったら終わりなのだと考えて……浅ましいわたしは、結局こんなところまでずるずると来てしまいました」
「浅ましい……」

 ベレトが不可解げに首を傾げているのが見えた。

「だって、シルヴァン様がわたしに興味のかけらもないと知っていてなお、この関係を許される限り続けていたかったのですもの。わたしは、浅ましくて愚かな、大馬鹿者です」

 最後のほうは、の声が震えていた。
 聞いてはいけないと思うのに、足がその場にくっついたかのように動いてくれなかった。

「……シルヴァン様に合わせる顔がありません」
「むしろ、それはシルヴァンのほうでは」
「シルヴァン様は、わたしの顔など見たくないのかもしれません。ずっと、シルヴァン様を騙していたのですから」

 そんなことはない、と声を上げられたらよかった。しかし、シルヴァンは相変わらず立ち尽くしたまま、下唇を噛んだ。

「どうした、入らないのか」

 背後から聞こえた声に、シルヴァンは思わず肩を揺らした。振り返れば、じょうろを手にしたドゥドゥーが立っていた。怪訝そうに眉根を寄せている。
 答えぬシルヴァンにため息をひとつ吐くと、ドゥドゥーが温室に足を踏み入れた。
 とベレトの視線が入り口に向いて、シルヴァンは慌てて身を隠した。ベレトの言うとおり、合わせる顔がないのはシルヴァンのほうである。

「すみません、ドゥドゥーさんお一人に水汲みを任せてしまって」
「構わない。……シルヴァンと、喧嘩でもしたのか」
「え?」
「いや……余計なことを聞いた。忘れてくれ」

 余計なことをしてくれるなよ、と内心で悪態をつきながら、シルヴァンはに見つからぬようその場を離れた。




「それで、まともに顔も合わせていないと?」

 華やかな場にふさわしくない、険しい顔をしたイングリットが腕組みをしてシルヴァンに詰め寄る。シルヴァンは視線を泳がせて、ジリジリと後退した。

「シルヴァン!」

 イングリットが声をひそめながらも、語気を強めた。

「いや、その、まあ……あれだ、お前にはわからない色々と複雑な事情が」
「ふざけるのもいい加減にして。大体、婚約者の顔も名前も知らないなんて、無責任にも程があるわ。つまりあなたは、婚約しながら他の女性にうつつを抜かしたというわけね? 最低です」

 イングリットが苦虫を噛み潰したような顔をする。シルヴァンを睨む瞳は侮蔑一色だ。
 フェリクスの視線が冷たいのは当然としても、ディミトリでさえも責めるようにシルヴァンを見ている。あまりの居心地の悪さに肩を竦める。楽しい舞踏会になるはずが、これではまったく楽しめない。

 一応、こんなことになってしまう前までは、舞踏会では一番初めにと踊るつもりだったのだ。そのせいか、誘われても他の女生徒と踊る気になれなかった。

「……はいはい、わかってますって。俺は最低の野郎ですよ」
「何をすべきかもわかっているな、シルヴァン」
「殿下は厳しいですねぇ。わかってます、ちゃんとと話しますよ。探してきます」

 シルヴァンはそう言って、幼なじみたちの輪を抜ける。踊っている生徒たちの中にの姿はなかった。大広間をうろうろしていれば「なら中庭に」と、ようやく踊りから解放されたらしいベレトが教えてくれた。