人気のない中庭に、所在なさげに佇むの姿があった。季節によっては美しい花が咲き誇る庭も、聖辰の節ともなれば葉を落としてしまって、寂しい限りだ。
正直、今さら何を言えばよいのかわかりかねた。
らしくもなく緊張を覚え、握った手のひらに汗が滲む。シルヴァンは無理やり口角を上げた。
「風邪を引きますよ、お嬢さん」
なるべく軽い口調でいつも通りを装い、シルヴァンはの肩に上着を掛けてやる。
が信じられないものを見るような顔を向けるので、シルヴァンは軽く肩を竦めた。の手を握る。ほっそりとした指が冷たい。
「ほら、こんなに冷えちまってる」
「あ……ご心配には及びません。今、戻るところでしたから」
そう言って、がシルヴァンの手を振り解く。
逃げるように足を踏み出したの行く手を遮り、シルヴァンは困惑に満ちる視線を受け止めた。苦笑を漏らしながら、シルヴァンはもう一度の手を取った。
「広間に戻る前に、話がしたい」
が目を伏せる。
たっぷりとした沈黙ののち「わかりました」と、が小さく告げた。
手を引かれる間、が言葉を発することはなかった。
人っ子一人いない教室に足を踏み入れて、シルヴァンは適当な席に腰を下ろす。手を引けば、が戸惑いがちに隣に座った。
室内は薄暗かったが、月明かりによって何とか互いの顔を認識することができた。はっきりとは見えないが、化粧を施しているらしく、いつもと印象が違う。
「寒くないか?」
「はい。シルヴァン様こそ、風邪を召されてしまいます」
「そんなに軟じゃないさ。何せファーガス最北端出身なんでね」
上着を返そうとするの手を止めて、シルヴァンはおどけて言った。わずかに抵抗する手を抑え込めば、が渋々といったふうに頷く。
シルヴァンはそのままの手を握り締めた。
「ごめん」
がはっと息を呑んで、慌ててかぶりを振った。
「いいえ! いいえ、シルヴァン様が謝ることなど何ひとつないのです。打ち明けることができなかったわたしが悪いのです」
いっそのこと、責めてくれたらよかった。イングリットのように容赦なく、最低だと糾弾してくれたほうが、ずっと胸が軽くなったに違いない。
「違う。間違いなく、悪いのは全部俺だよ」
「そんなことは」
「婚約者から目を背けてた俺が悪いし、軽い気持ちでに手を出した俺が悪い。しかも、いまの今までお前と向き合うことから逃げてたんだぜ」
「……逃げていたのは、わたしも同じです」
がくしゃりと顔を歪めた。
表情を繕えないことを恥じ入るように、が顔を伏せた。
「いいえ、わたしは考えないようにしてきたのです。シルヴァン様が、婚約者がわたしだと知ったときのことを、ずっと考えないようにしてきました」
の声がか細く震えている。ぽた、と小さな粒が落ちた。
「あなたに、わたしを見ていてほしかったから」
シルヴァンは、の頬にそっと手を伸ばした。
涙の生ぬるい感触が指先に触れる。
「嫌いになれよ。こんな最低な屑野郎と結婚だなんて願い下げだって、平手の一つでも食らわせてくれよ、なぁ」
手のひらで頬を包み、その顔を持ち上げる。涙に濡れた瞳がシルヴァンを見た。
──今さら、胸が痛むなんてどうかしている。
婚約者に興味などなかったし、にだって愛情などなかった。だからこそ、万が一拗れたとしたって、いつものように容易く別れるだけだと思っていたくらいだ。
後悔しているのか、と問うベレトの声が脳裏によみがえる。
もし、シルヴァンが問われたのならきっと、頷くほかないだろう。けれども、後悔先に立たずとはよく言ったもので、もう散々を傷つけてしまった。詫びのしようもない。この涙を拭う資格など、シルヴァンにあるわけがなかった。
「……それは、わたしとの婚約を解消したいということですか」
「そういう意味じゃない。ただ、はそれでいいのか?」
「わたしは」
が覚悟を決めるように、一度唇を引き結んだ。
「あなたを、お慕いしています」
じっと見つめるその瞳には、シルヴァンの情けなく眉尻を下げた顔が映っていた。涙の膜がその顔をいびつに歪ませる。
「……俺が言うのもなんだが、は男を見る目がなさすぎる」
シルヴァンは苦笑を漏らし、の目尻に指を這わせた。縁に溜まった涙が弾けるようにあふれる。
ふ、とが目元を緩ませて、かすかに笑んだ。
「いいえ、シルヴァン様はわたしの知る殿方の中で、一番素敵な方です」
それは、聞き慣れた世辞ではない。嘘偽りのない、の心からの言葉だった。「はあ?」と、思わずシルヴァンは胡乱げにを見た。柔らかい眼差しが返ってくる。
頬に集まっていく熱をどうすることもできずに、シルヴァンは顔を背けた。
「まあそりゃゴーティエの次期当主で、紋章持ちで、その上色男だからな」
それは照れ隠しであり、本音でもあり、嫌味でもあった。
の手が、そっとシルヴァンの顔に伸びる。冷たい指先が頬を掠めるように撫でた。
「わたしを見て。わたしも、あなたをちゃんと見ます」
「…………」
「家柄も紋章も、婚約者という肩書きも取り払って、見てください」
目を逸らさずに、とが続ける。
シルヴァンは小さく息を呑む。
「あなたが言ったんですよ」
が涙に濡れた顔を、そうっと綻ばせた。
あのくだらない誕生会で一番初めに踊った令嬢の顔が、鮮やかによみがえる。誰一人として顔も名前も覚えたつもりなどなかったが、案外記憶に刻まれているものだ。
同時に、淡い甘い香りが呼び起こされた。
目を逸らさないで、俺を見て。
ちゃんちゃらおかしい台詞だ。見ていなかったのはシルヴァンばかりだった。
シルヴァンは跪いて、の指先に口づける。
「踊ってくれるか?」
「……はい」
頷いた拍子にまた一つ、涙が落ちる。「あんまり泣いたら、せっかくの可愛い顔が台無しだ」と、シルヴァンは冗談めいて手巾をの頬に押し当てた。
軽口でも叩かなければ、涙を拭ってやれそうになかった。
の気持ちに向き合うには、まだ時間がかかる。
けれどもそれでいい。この学生生活が終わっても、は隣にいるのだ。の目に、己がどう映っているのかは、これからいくらだって知れる。
大広間で踊る姿はだいぶまばらだったが、シルヴァンは臆することなくの手を引いた。恋人であり、婚約者なのだから、恥じ入る理由など一つもない。
緊張した面持ちで、がシルヴァンを見上げた。
「恥ずかしながら、踊りは不得手なのです」
「言うほどじゃないだろ。大丈夫、俺に身を任せてくれりゃあなんの心配もいらないさ」
シルヴァンは笑って、の腰を引き寄せた。ふわり、とほのかな甘い香りが鼻先に触れる。
いつも温室に足を運んで、花に囲まれているから、その香りが移ったのだろうか。
「……なあ」
「っ」
耳元で囁けば、が以前と同じように均衡を崩した。
「おっと」
「し、シルヴァン様、お願いですから耳元で話すのはおやめください」
「……」
長い睫毛が伏せられて、の視線がシルヴァンから逸れる。の首元まで、薄らと赤みを帯びていた。
シルヴァンとは、いわゆる深い仲だ。
寝台で甘言を囁いたとて、これほど反応は得られなかった。耳元で話しかけただけで、これほど顔を真っ赤にさせるとは──「可愛い」と、その言葉はほとんど無意識に落ちた。
「シルヴァン様」
が咎めるように、シルヴァンを軽く睨む。揶揄われている、と思ったのだろう。
「悪い、心の声が漏れた」
「……ご冗談を」
の足運びが乱れる。なんて素直な反応だ。
小さく笑えば、がふいと目を背けた。
「目と目を合わせる。踊りの基本だろ?」
「それは、そうですが」
そろり、とが視線をあげる。
「シルヴァン様は、意地悪です……」
がまなじりが赤いのは、泣いたせいではない。シルヴァンはふ、と笑みをこぼした。
「知らなかったのか?」
わざと耳朶に唇を付けて、息を吹き込むように囁く。思わず、というふうに目を伏せたに、シルヴァンは畳みかける。
「目を逸らすなよ」
が「もう、転んでしまいそう」と、震える声で根を上げた。
の足取りには力がない。シルヴァンは、ぐっとの身体を抱き寄せる。
「言ったろ? ほら、俺に身を任せて」
が恥ずかしそうに、小さく頷いた。
「仲がいいんだな」
席を外していたはずのベレトが、いつの間にか隣に立っていた。「誰と誰が?」と、反射的に口をついて出たせいで、傍にいたイングリットの顔が険しさを帯びる。
「シルヴァンとのことだが……」
「はあ、まあ恋人なんで」
恋人、とベレトがおうむ返しに呟き、何故かかすかに眉をひそめた。シルヴァンの投げやりな受け答えが気に食わなかったのだろうか。
曲の終わりと共に「飲み物を持ってきます」と、逃げるように踵を返したが戻ってくる。
「あ……ベレト先生、何か飲まれますか?」
「いや、必要ない」
から飲み物を受け取って、シルヴァンは腰に手を回して引き寄せる。
「見ての通りなんで、心配には及びませんよ」
「し、シルヴァン様」
「そうか。、シルヴァンと話ができたようでよかった」
「はい……その節はご相談に乗ってくださり、ありがとうございました」
がシルヴァンの手を払い、ベレトへ丁寧に頭を下げた。
ベレトが物言いたげな視線をシルヴァンに向ける。まさか、その相談を聞いていたとは口が裂けても言えずに、シルヴァンは大人しく唇を結んだ。
「合わせる顔があったようで何よりだ」
ため息交じりにベレトが告げる。その言葉は、まぎれもなくシルヴァンに対してのものだった。そうとも知らずに、顔をあげたが神妙に頷いている。
「あー……まあ、ほんとうに、心配いらないんで」
「ああ、信じる」
意外にも、すんなりと頷いたベレトが、他の生徒に呼ばれてその場を離れていく。
シルヴァンはその後姿を見つめながら、自然と緊張していた肩から力を抜いた。ベレトに見つめられると、何もかもを見透かされてしまうような気がするのだ。
「心配いらない、ね」
「奴がそう簡単に変わるとは思えんが」
「しかし、あまり俺たちが首を突っ込んでもな」
幼なじみたちが顔を突き合わせて、揃って胡乱げな目を向けてくる。まったく声を潜めていないので丸聞こえである。
言い返しては、火に油を注ぎかねない。
シルヴァンは聞こえなかったふりをして、イングリットたちに背を向けた。が「よいのですか?」と、気遣わしげに背後を見やる。
「いいって。それより、全然楽しめてないだろ?」
がきょとんと瞳を瞬く。
「いいえ。シルヴァン様と踊れただけで、わたしには夢のような時間でした」
「は……」
そんなふうに言われるとは思わず、シルヴァンは言葉をなくした。
ただの世辞だと受け流すことができないのは、それが本音であると透けてしまっているからだろうか。
は蟻などではない。シルヴァンが”甘い蜜”だからすり寄るのではない。
はにかんだ微笑みから、つい目を逸らしそうになったが、シルヴァンはじっとを見つめた。
「そんなことでいいなら、毎日夢を見させてやるよ」
「え?」
「というわけで、もう一曲どうだい? お嬢さん」
シルヴァンはの手を取って、指先に口づける。
が顔を赤らめて「け、結構です」と、かぶりを振った。
「シルヴァン様の足を踏まない自信がありません……」
がひどく、小さな声で告げるので、シルヴァンは声を立てて笑った。
婚約者など誰でも変わりがないと思っていたが、それは間違いだった。「でよかったよ」と誰に言うでもなく呟いて、シルヴァンはの手を取って広間に躍り出た。
「そう言わずに、学生生活を楽しもうぜ」
が困ったように眉毛を下げながら、躊躇いがちにシルヴァンの手を握り返した。