「面を上げよ」
カイネギスの静かな声が響く。
しかし、は額を床に押し付けたまま、顔を上げることができなかった。謝罪など求められていないことはわかっていたが、そうせずにはいられない。イズカを前にしておきながら取り逃がした上、またも行方知らずとなってしまった。
「必ずこの手で仕留めると豪語しておきながら、この失態……お詫びの言葉もございません」
カイネギスが深いため息をついた。玉座から立ち上がり、恐れ多くもの傍まで歩み寄ったカイネギスの足先が視界に映る。「面を上げよ」と、もう一度告げるその言葉は、有無を言わせない絶対的な響きがあった。
は言葉に従い、顔を上げる。
下から見上げたその巨体に圧倒され、は真っ直ぐ顔を見つめることができなかった。責めるような雰囲気など一つもないにもかかわらず、威圧される。
「、わしが言った言葉を覚えているか」
「……はい、勿論でございます」
「ならば良い。こうして命あって戻ってきたこと、それだけで十分だ」
はしばし呆然としてから「御慈悲に感謝いたします」と首を垂れた。
「少しはガリアで身体を休めるが良い。すぐにクリミアに戻っては、モゥディらも寂しがるだろうでな」
モゥディ以外に別れを惜しむ者の顔は思い浮かばなかったが、は是を返した。
謁見の間を出ると、すぐにライの姿を見つけた。ライもに気づいて、軽く手を上げて「お疲れさん」と言った。
あまりに気安い態度を取るので、は思わず気後れしてしまう。言葉に詰まるに対し、ライが苦笑をこぼす。空色の尾が穏やかに左右に揺れているので、は自然とそれを目で追いかけた。ピンと緊張する尾ばかり目にしていたため、ひどく新鮮だった。
「おーい、まだ緊張してるのか?」
顔を覗き込まれ、ははっとする。
「いや……」
言葉少なに軽くかぶりを振る。ライとの近い距離が未だに慣れなかった。
ふうん、とライがさほど興味がなさそうに呟く。廊下を歩いても、突き刺さるような視線を感じることはない。
ライの許しを得ても、カイネギスの慈悲を受けても、にはまだ自責の念がある。
気安く護衛を受け、依頼人の怪しい素性を探りもせず、ガリアでの惨劇を引き起こした──すべての原因がにあるわけではない。けれど、変わり果てた獣牙族を数え切れないほど斬り伏せたのは、紛れもなく己の罪だ。
「また、眉間にしわ寄ってるぜ」
ぴん、と弾くようにライの指先が眉間に触れた。は足を止めて、眉間を手で押さえる。オッドアイが可笑しそうにを見つめている。
「あなたの変わりようには、ついていけない」
「頭の固い奴だな。もっと肩の力を抜いた方が、何事もうまくいくぜ?」
「……」
ライが肩をすくめておどける。
元々陽気でラグズとも親しくなれる性格だからなのか、わだかまりが解けたのちは、以前の棘のある態度が嘘のようだった。ライがそうして歩み寄ってくれているとわかっていても、どうしてもは一歩後ろに下がりがちだ。
「まあ、いいけどな。それがおまえなんだろうし」
ふ、とライが目を細めて笑った。同胞に見せるような顔を向けられると、すべてを許された気がする──けれど、にはまだ負い目があり、その笑みを直視することができなかった。
以前、イズカの行方を掴めたのは“火消し”フォルカに捜索を依頼したからだ。
再依頼しようにも、アイクとの契約終了後すでにユリシーズとの契約を交わしていたため、それは叶わなかった。アイクとの契約中から依頼をしていたというのだから、は一歩どころか十歩以上出遅れていたと言っても過言ではない。
「」
ふいに、ライの手の平に両頬を挟まれ、顔を持ち上げられる。綺麗なオッドアイには、困惑した己の顔が映っている。
「顔を上げて、堂々としてろ。今さらおまえを悪く言う奴はいない」
口を開こうにもぎゅっと頬を挟まれて、うまく話せそうもない。仕方なく唇を結ぶが「ははっ、変な顔になってるぜ」と、ライが屈託なく笑う。
誰のせいで、と口を開きかけるが、近づいてくる気配に気づいては恨みがましい視線を送るだけに留めた。悪びれる様子もなく、いまだ笑いの尾を引きながら、ライが手を離した。
「ライ隊長」
ライの部下にあたるのだろう。
ピンと伸びた背筋から、真面目な人柄が伺える。虎の獣牙族だが、モゥディよりは小柄そうだ。ちら、と視線が一瞬だけに向いた。
その視線に敵意は一切なかったが、反射的にの身体が強張る。ごく自然な仕草で、ライが庇うようにの前に立った。
「どうした?」
「お話のところお邪魔してすみません。夕餉の準備が整いました」
「ああ、ありがとう。すぐに行くよ」
はライの背中越しに、「はい。失礼しました」と、丁寧にお辞儀をして踵を返す、大柄な背を見つめた。
「あいつ、キサって言うんだけど、世話焼きだからおまえのこと気に入るかもな」
「は……」
思わず気の抜けた声が漏れて、は慌てて唇を結ぶ。
ガリアの獣牙族に気に入られる。夢にも思わず、まるで青天の霹靂のように感じる。は内心でひどく混乱した。
「わたしなんかに世話は焼かないだろう」
「どうだか。結構自分に無頓着で、無茶するだろ」
ライの指摘に言い返せない。無茶をしがちである自覚はある。勝ち誇ったように、ライが口角を上げた。
ぴくっ、と空色の耳が動いた。ライが素早く周囲へ視線を巡らせるが、にはなんの気配も感じ取れなかった。
「ライ?」
「……厄介だな」
小さく呟いたかと思えば、ライの手がの腕を掴んだ。
戸惑うを引っ張って、手近な扉を見つけてそこへと身を滑り込ませる。「物置部屋か」とのライの言葉通り、荷物に溢れている部屋は、少しだけ埃の湿った匂いがした。
荷物が窓を遮っているのか、部屋の中は暗い。明るい廊下から暗がりに入り、の視界は不明瞭だ。動いて荷を崩してはいけない、とはろくに身動きが取れない。
「ライ、」
「しっ」
ライの指先が唇に触れ、の言葉を制した。ぴたりと押し当てられたその指に、ライには見えていることに気づく。獣牙族は夜目が利くのだ。
いまだ腕は掴まれたまま、扉に挟まれるようにしてライと密着している。
は目を凝らしてみるが、近くにいるはずのライもよく見えはしなかった。じっと扉の向こうの様子を窺うライに倣って、もまた耳をすませた。「ライ隊長~?」と、甲高い声と軽やかな足音が聞こえてくる。
「あれぇ? おっかしいな~、キサがこっちから来たはずなのに……」
隊長、とライを探す声はしばらく続いた。
「も~せっかくガリアに帰ってきたのに、全然会えてない!」
憤慨する声に、ライが苦笑する。
そうして息を潜めるうちに、声の主は遠ざかっていったようだった。時間が経つにつれ、ようやくライの姿を目視できるようになった。だが、やはり辺りは暗く、近くしか見ることができない。
「もう行ったみたいだが」
ふう、とは小さく息を吐いて、身をよじる。
ライが「ああ、悪い」と、今しがたその距離に気づいたように素早く身を離した。見えていたなら、それは猫らしく、しなやかな動きだっただろう。
動いた際、指先が何かに当たる感触がして、はさっと手を胸に抱いた。
「大丈夫か? ああ……もしかして、見えてないのか」
「あなたはよく見えているようだ」
「勿論。近づかなくたって、よく見えるよ。おまえの照れた顔とか」
「なっ……」
動揺して半歩後ずさるが、素早く伸ばされたライの手がを抱き寄せる。どきりと心臓が跳ねて、まるでそれは痛みのように響いた。
「荷物が崩れたら危ないだろ。やたらめったら動くなよ」
「……誰の、せいで」
はなるべく顔を俯かせながら、恨みがましく呟く。ライが忍び笑いを漏らした。
廊下に出ると、その眩しさが目を突き刺すようだった。思わず、は目元に手をかざして瞳を閉じる。ライが覗き込むように顔を近づける気配があって、はすぐには目を開けられなかった。
「また照れてる」
「……」
ふい、とは顔を背け、睨むように横目でライを見た。
「あなたのせいで、夕食が冷めてしまう」
「そうだな。行こう」
ライが自然に手を差し出すので、は反射的にその手を取ってしまった。ぎゅっと握り締められてから、はっとする。
「意外と可愛げあるよな」
肩を揺らして笑うライを前に、はもはや憎まれ口すら叩く気にもならなかった。ため息を吐いて、は諦めた気持ちで手を握り返す。
揺れる空色の尾が一瞬だけ緊張したようにピンと立ったが、はそれを見逃した。