負の感情を持ち続けるということは、難しい。
ライは、やりきれないことは嫌いだ。怒りや憎しみが薄れるわけではないし、無残な同胞の姿はいまも鮮明に覚えている。けれども、カイネギスの言うように自責も償いももう十分だった。モゥディの言うようには悪くないのだ。
「だったら、どんなニンゲンなんだ?」
ライは以前、にそう問いかけた。答えはなかった。ただ、自嘲するように唇がいびつな笑みを形づくって、ライを見つめた瞳は泣き出しそうに揺れた。
彼女を知ろうともしなかったくせに。彼女の言葉に耳を傾けなかったくせに。彼女の傷を見ないふりをしたくせに。
感情的な獣牙族にしては理知的なほうではあったが、幼稚で頑なであった己の態度に、つくづく嫌気がさす。青白い顔で静かに眠るの頬に、そっと指先で触れる。いつか、触れることの叶わなかったその肌は、やわい感触とやや低い体温を伝えてくる。
もっと早くに、こうすることができたらよかった。ライは頬をひと撫でして、手を離した。
許すべきは、ライでもレテでも、ましてやガリア王でもない。自身だ。
「ライ、娘は目覚めぬか」
「ジフカさま。はい、ご覧の通り……当分、このままかと」
そうか、と頷きを返して、ジフカがの顔を覗き込んだ。そして、ライへと視線を向ける。「迷いは消えたか」と、独り言を呟くように静かに告げるので、ライは一瞬虚を突かれる。
「おまえは、娘にどう接したらよいのか、迷っているようだったな」
「……! そんなつもりは、なかったのですが……」
「ふ……王に報告することが、ひとつ増えたようだ」
「ジフカさま!」
からかうように言われ、ライは思わず咎めるように名を呼んだ。ライは部隊長を務めるとはいえ、ジフカやカイネギスに比べれば若輩者である。どうしても己の未熟さが浮き彫りになった気がしてしまう。
ライは気まずさから、思わずジフカから視線を逸らした。
「負けられんな」
ジフカの静かな声が夜に溶けて消える。「はい」と、ライは頷きを返した。
メダリオンの負の気を近くに感じていながらも、こうも穏やかな気持ちでいられるのは、の寝顔があるからかもしれなかった。
目を覚ました、という報せを受けて部屋を訪ねたときには、すでに旅装束に身を包んで剣を腰に下げたの姿があった。モゥディが止めようとしているが、狼狽えるばかりで何にもならない。
が軽く目を見開いて、それからすぐにひどくばつの悪そうな顔をする。
「迷惑をかけたようで、すまない」
ライはため息を一つ吐いて、の肩を掴んだ。びく、とが震える。それは、驚きのようにも怯えのようにも見えた。
「イズカを追う気だな?」
「当然だ」
「何のために?」
じっ、との瞳を覗き込む。
その視線から逃れるようにわずかに身を捩っただが、それでも目を逸らすことはなかった。たじろぐように、小さく息を呑んだ唇が結ばれる。逡巡する間があった。細い吐息と共に開かれた口元には、自嘲の笑みが浮かんでいた。
「わたしにできるのはそれだけだ」
モゥディが静かに首を横に振った。大きな背が丸められて、打ちひしがれているような背中に見えた。
「俺たちに許しを請うためか? 無残に殺されたあいつらの仇討とでも?」
の肩を掴む手に無意識に力が籠った。
「違うね、おまえのそれは逃げだ。そうしている間は、なにも考えなくていい。俺たちに向き合わなくていい」
が耐えきれないというように、目を伏せた。
怒りや憎しみ、悲しみに瞳を曇らせ、に向き合ってこなかったのは、獣牙族も同じだ。けれど、モゥディのようにを理解しようとする者もいるし、カイネギスのようにを守ろうとする者もいるのだ。彼女はそれをわかっていない。
「言っただろ、いい加減にしろって」
「……」
「おまえが死んだって、誰も喜んだりしない。泣く奴はいるけどな」
モゥディがの背にそっと手を添えた。「、行くナ。ガリアを発つときに、ソう伝えれば良かった」いまにも泣きそうなほど悲し気に響いたその言葉に、ライは苦笑を漏らす。
「知らなかった、仕方がなかった──そんな言葉で、片付けられるようなことじゃない。わたしは、許されるべきじゃない」
の瞳がライを見つめた。
零れ落ちそうなほどに涙が湛えられ、その潤んだ瞳にはライの空色が映り込んでいる。
「それでも、俺たちは……俺は、おまえを許すよ」
目尻に触れると涙がはじけて落ちた。
「もう、行くのか?」
アイクに呼び止められ、ライは振り向いた。「あんたは、確か……」と、傍らにいるを見て、アイクが眉をひそめた。
「です。戦場で、数度見えましたね。アイク将軍」
「いいって、アイク相手に畏まらなくたって」
ライはひらりと手を振った。将軍だろうと傭兵団長だろうと、肩書などアイクにすればあってないようなものだ。
「それはそうだが……なぜライが言うんだ?」
「ま、そんなことは置いといて。王の元に、大事なお客さんをお連れしないといけないからな」
「客?」
不思議そうな顔をしたアイクの前に、リアーネとリュシオンが歩み寄る。二人と言葉を交わすアイクを見ていると、種族や立場など、本当に無意味なもののように思えるから不思議なものだ。
彼らを尻目に、「わたしも、またガリアを訪ねていいんだろうか」と、が表情を曇らせる。
「忘れたのか? おまえも立派な王の客人だよ」
「その通りだ」
「ジフカ殿……」
「さて、そろそろ行かねばならぬな」
ジフカがリアーネたちを促し、アイクと二、三言葉を交わす。あのレテでさえも尻尾を緩やかに揺らして、アイクと別れの挨拶を交わしている。その様子を見たが感嘆した。
「アイク殿はすごいな……」
「あいつは特別。あんなベオク、そうそういないから」
ぽん、とライは気安くの肩を叩いた。
が肩を手で押さえながら、なんとも言えない表情でライを見上げた。ライはライで、ひどく奇妙な感覚を覚える。ずっと冷たく突き放していた相手──思えば、笑いかけることさえも初めてかもしれない。
そんなことを考えながら、ライは口元に弧を描いた。
「ガリアに帰ろう」
がほっとしたように眉尻を下げて、小さく頷く。そんなの顔を見るのも初めてである。ライは新鮮な気持ちを覚えながら、故郷へと一歩踏み出した。空色の尾が嬉しそうに揺れたことに、ライは気づかなかった。