まだ陽が昇り始める薄暗い中、人影が動く。
ぐぐっとしなやかな仕草で身体を伸ばしたライは、その様子を遠目に見つけて目を細める。ぶつかり合う二人は体格差が大きい上、小さく華奢な人影の動きはやや鈍い。「よくやるな~」呆れたふうに呟くものの、零れた笑みは決して苦いものではなかった。
組手というにはやや激しい。
気のやさしいモゥディは遠慮がちのように見えるが、終始優勢を保っている。
ラグズは化身をせずとも、総じてベオクよりも身体能力が高い。モゥディは猫の獣牙族に比べれば素早さに劣るが、それでもベオクと比べればそれなりの速さを誇るし、何より体力と力が強みである。モゥディの一撃を流しきれずに、の身体が軽く吹き飛んだ。
受け身をとっただが、呼吸が随分と荒い。モゥディが心配そうに眉尻を下げる。
「その辺にしておけよ」
ライはのすぐ傍に立つ。膝を折ったままのがおもむろに顔を上げ、眉をひそめる。
「おまえは身体を休めることを知らないのか?」
その不満げなの顔を覗き込むため、ライはしゃがみこむ。
彼女が本調子でないことは、目に見えて明らかだ。クリミアからガリアに来る道すがらも苦しげな様子だった。グリトネア塔での怪我の影響だろう。
「クリミアに戻る前に、体力を戻したいんだ」
「だからって、無理すると倒れるぜ? 王も休むように言ってただろ」
「……だが、そう悠長にするわけにもいかないだろう」
ライは肩をすくめて、手を差し出した。が躊躇いながらもその手を借りて立ち上がる。足元が少しばかりふらついていることから、相当負荷がかかっているのだろう。
「、大丈夫カ?」
モゥディが慌てて駆け寄る。「ああ、平気だ」と答えるの顔はばつが悪そうだ。
「あんまり心配かけるなよ」
「わかっている」
目を伏せて、が頷く。
ライは腰を屈めて、下からを見やる。「俺も、心配してるんだけど?」と、からかうように言えば、がぎょっとしたように瞠目して身を引いた。
それは、ライの本音である。瀕死の彼女を見つけた時、自分でも驚くほど肝が冷えたのだ。あんな思いは二度と御免である。どうせのことだから、何本も釘を刺さなければ、己の身を顧みない。
が訝しむようにライを見て、その視線はモゥディへと移る。開いた唇からは言葉がなく、吐息だけが漏れた。
「さて、飯にするか」
の困惑を察して、ライは空気を変えるように明るく言った。
暇を持て余すを見かねて、ライは彼女を連れ出した。
鍛錬場に足を踏み入れると、隊長たるライに対して若いガリアの戦士たちに緊張が走るのがわかった。次いで、の姿を認めて騒めくも、そこに殺気や敵意はない。
「あっ、ライ隊長!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を振るのは、リィレだ。先日はつい身を隠してしまったが、隊長と部下という関係である以上、いつまでも避けるわけにはいかない。ライは苦笑を漏らす。
「ちょっとリィレ、真面目にやりなさいよ!」
「はいはぁい」
対峙しているキサが眦を吊り上げている。のんびりと返事をするリィレの尾は、緊張感もなく揺らめく。
「……随分、慕われているようだな」
が呟くように言った。
感心したような、呆れたような、どっちにも取れるような物言いである。ライは探るようにその顔を見つめたが、不思議そうに見つめ返されるだけで、そこにある感情はよくわからない。
「まあ、有難いことにな」
ライは軽く肩をすくめる。少々慕われ過ぎているところもあるが、嫌われるよりはマシだろう。
「ライ隊長~、見ててくださいね!」
「いえ、隊長! リィレよりもあたしを!」
リィレとキサが、相変わらずかしましく張り合っている。
がはたと気づいた様子で「先日の、」と、呆然と首を傾げる。真面目ぶったキサとは一転、女性らしい言葉遣いや仕草に驚いているのだろう。でかい図体に野太い声だ、不釣り合いにも程があるというものだ。もっとも、ライはもう慣れてしまったため何とも思わない。
「リィレはレテの双子の妹なんだぜ」
「え?」
「似てないだろ」
目を丸くするを見て、ライは小さく声を立てて笑う。
いつも毛を逆立てていたのは、何もライのほうばかりではない。もまた、気難しい顔ばかりしていた。こんな表情は見たことがない。
「言われてみれば、背格好や顔立ちはそっくりだな。だが、こうも雰囲気が違うとは」
不思議だ、とが瞳を瞬く。レテと揃いのリィレの鈴が、チリンと音を鳴らした。
ラグズの鍛錬など見てもつまらないかとも思ったが、意外にもは目を輝かせて見入っていた。戦いに身を置くものとして、興味深いものがあったらしい。
「お疲れさん」
ライは部下に声をかけてやる。
デイン=クリミア戦争で長くガリアを空けていたが、皆鍛錬は怠っていなかったようだ。不真面目なリィレも、キサが目を光らせてくれていたのだろう。
「ライ隊長っ、ちゃんと見ててくれました?」
「ああ、いい動きだった」
「リィレなんかより、あたしのほうが真面目にやってましたよね!」
「あー……まあ、そうかもな」
嫌われるよりはマシとは言え、このやりとりには辟易する。
ライは曖昧に笑って、リィレとキサから視線を外した。
「ライ、ガリアの鍛錬はいつもこうなのか?」
「ん?」
黙っていた がふいに口を開いた。こう、の意味を捉えかねて、ライは首を傾げる。
「……鍛錬の域を超えている」
「はは、血の気が多いやつばっかりだからなあ」
すぐに本気の取っ組み合いになっては、流血沙汰だ。しかし、これはラグズの性である。ライは呑気に笑った。
乱れた髪を直していたリィレが、ふと気づいたようにを見つめる。甘えるようにライに擦り寄って、リィレが「ねぇ、ライ隊長~」とこれまた甘えた声を出す。キサがそれを制するが、リィレが意に介することはない。
「王の客人だからってぇ、ちょっとベッタリ過ぎません?」
「はあ?」
「あたしだってライ隊長とご飯食べたいし、いっぱいお喋りしたいのに!」
ぷくりと頬を膨らませて、リィレが睨みつける。敵意というにはあまりにも可愛らしいが、がたじろぐ。
キサもまたへと視線を向けた。背筋を正したその姿は、生真面目なガリアの戦士そのものである。ただ、気心の知れた同胞ばかりで気が緩んでいるのか、ベオクを前にしても口調は改まっていない。
「それよりも隊長、あたしが気になるのは……」
キサがに向かって手を伸ばす。体格に見合った大きな手が、の髪の毛に触れた。ライは一瞬だけ、警戒に尾を強張らせる。
「このボサボサの髪! ボロボロの服! いくらなんでもあんまりよ!」
ぽかん、とがキサを見上げた。
「戦士だって、身だしなみには気を使うものよ? ま、リィレに至ってはやり過ぎだけど……あの子は戦場でも毛づくろいするから」
はあ、とキサがやけに女性らしい仕草でため息を吐いた。「そ、そうなのか」と、答えるの顔は何とも言えない表情をしている。
「どうかしら?」
キサに肩を抱かれて、背を後押しされたが、遠慮がちにライを見上げた。
伸ばしっぱなしで毛先の痛んだ髪が、綺麗に切り揃えられている。ボロボロの服、とキサに称された服も新調され、たったそれだけのことなのに見違えるようだった。ライは瞳をぱちりと瞬く。
何故だかその姿を目にした瞬間、ライは抱きしめたときのの柔らかい感触と、汗と血に混じった仄かに甘いような香りを思い出した。思わず、さっと目を逸らす。
「うふふ、結構器用でしょう? なかなか可愛くなったと思うんですけど」
「か、可愛い?」
やめてくれ、とがかすかに頬を赤らめて、顔をしかめる。
「ライ隊長? ほら、ちゃんと見てあげてくださいよ」
「あ、ああ」
「……ライ、無理することはない。似合わないのならはっきり言って構わない」
ライはの頭のてっぺんからつま先まで、不躾に視線を這わせる。
言葉遣いも仕草も、はあまり女性らしくない。けれど、こうして身なりを整えた様はそれなりに綺麗だし、照れたような表情は可愛らしく見える。
窺うようなの目を見つめられずに、ライは視線を伏せる。
「いや、似合ってるよ」
の肩の強張りが、すこしだけ緩んだようだった。
「でしょう!? お手入れのやり方、あたしが教えてあげるわ」
「いや、その必要は」
「いいんじゃないか? どうせ暇だろ」
「ライ、」
身体を動かすことを制された以上、のやることなどほとんどないと言っていい。非難がましい視線を向けられるが、ライは悪びれずに笑った。