夢ではなかった。
目を開けても辺りは薄暗かったが、傍らで静かに眠るモゥディの姿を認めて、はすぐにそう思い至った。大きな手に包まれた左手を、そうっと引き抜く。ずっと付いていてくれたのだろうか、モゥディが起きる気配はなかった。
どうやら身体の傷はきれいさっぱり癒えているようだった。簡易ベッドから立ち上がると、軽いめまいに襲われる。思った以上に失血が多かったのだろうか。痛みはないが、身体が重い。はよろよろと天幕の入り口までたどり着くと、外の様子を窺った。
──クリミア軍である。間違いない。
デイン兵であるを捕虜扱いにしていないのは、ライたちの恩情だろうか。事情があるにしろ、は幾度もエリンシア王女の前に敵として立ちはだかった。
は天幕を出て、視線を巡らせる。緊張した面持ちで兵士たちが忙しなく動いており、空気は張りつめている。開戦が近い様子である。だれものことなど気に留めていないのをいいことに、行く当てもないが辺りをぶらつくことにした。
すこし歩いただけで額に汗が滲んだ。はわずかに上がった息を整えるために、足を止める。話し声を捉えて、伏せていた顔を上げれば見覚えのある姿が前方に見えた。
「塔の地下は……とにかく、ひどい有様だったからな。あんたを連れていかなくて良かったよ」
そう言うアイクの顔は苦い。あんた、と呼ばれたクリミア王女もまた、己の痛みを堪えるように目を伏せる。
ぞっ、と背筋が凍るような心地がした。
はその光景を目にしてはいないが、容易に想像がついた。研究所を一つ潰したところで、研究者をどうにかしなければ意味がない。場所を変えて、また実験を繰り返すのだろう。
イズカをみすみす逃がしてしまったことが、心底悔やまれてならない。
ふいに、ぐっと肩を掴まれる。は鋭く息を呑んで振り向いた。
「──今の話、聞いたのか」
その問いに、はすぐには答えられなかった。薄く開いた唇からは、喘ぐように吐息が漏れるのみで、言葉を紡ぐことが叶わない。オッドアイがひどく真摯にじっと見つめてくる。
返事をしないに苛立ったのか、ライの手に力が籠ってわずかに爪が肩に食い込む。
「……おまえには、聞かせたくなかった。言うつもりもなかった」
「何故……」
「勝手に、責任を背負い込むに決まってる。いまだって、自分のせいだって顔してる」
は無理やり視線を逸らして、瞼を伏せる。
「わたしのせいだろう」
「違う」
ライが間髪入れずに返した。
は思わず、ライを凝視した。まるで手のひら返しされたような気分だ。あれほどまでに憎悪し、嫌悪していた存在なのだから、好機とばかりに責め立てればいい。獅子王に啖呵を切ったくせに、イズカの首を取ることは叶わなかった。
違わない、と軽くかぶりを振りながら、はライの手を振り払った。
「カイネギス様に申し訳が立たない。あなたにだって、合わせる顔がない」
ライがぐっと眉をひそめる。そして「いい加減にしろ」と、低く呟いた。その声音には明らかに苛立ちが含まれており、を睨む瞳には怒りが籠っている。彼がこんなにも感情をあらわにするのは珍しい。
ぴんと立った尾の毛が逆立っていることに気づいたときには、ライの手が振りかぶられていた。
反射的に目を瞑って衝撃に備えるが、その手がを傷つけることはなかった。
「本当に、いい加減にしてくれ……」
ざらついたライの声がひどく近くで聞こえて、は己が彼の腕の中にいることを知った。殴られるよりもよっぽど衝撃的だった。
は我に返って、慌ててライの身体を押し返す。手のひらに鍛え上げられた胸筋の感触が伝わってくる。本調子でないせいか、ろくに力が入らない。すぐに息が上がってしまい、しっとりと全身が汗ばむ。は無駄な抵抗をやめる。
訳がわからない。混乱したまま、はライを見上げた。
「なんで、」
そう呟くの声は震えていた。
の視界を遮るようにきつく抱きしめられる。耳元に落とされたライの声色は、すこしだけやわらかく響いた気がした。
「もういいよ。頼むから、自分を許してやってくれ」
──なんで、あなたがそんなことを、言うんだ。
目の前が暗くなる。