グリトネア塔はクリミア城の南西に位置する。
 デイン王国でイズカを探っても、国内にいないのだから、情報を得られないのは致し方ないことかもしれなかった。ガリアに近いところでなお研究を続けていたとは、には信じがたい。

 ──獣の匂いがする。
 は深くかぶった兜の下、顔を歪める。この塔ではおぞましい研究が行われており、姿を歪められた数多のラグズが閉じ込められている。獣の叫び声を聞くたびに、は同僚の言葉を思い出す。
 あんなところに本当は行ってほしくない。
 同僚の思いやりを無下にしてしまったような気持ちになるが、それでもには成すべきことがある。

 イズカを討つ。そのために、はデイン兵になったのだ。
 グリトネア塔を護衛するのはデイン兵である。彼らに紛れて塔内に潜り込むことは、容易かった。しかし、イズカに接触することは難しく、はいまだその姿を目にしていない。塔内には各地に見張りがおり、好き勝手に動いては怪しまれる。

 すぐ手の届くところにイズカがいる。焦燥ばかりが募っていくが、ここで下手を打ってはいけない。
 は目を閉じて、ライの姿を思い描く。
 ずくりと古傷が痛んだ気がした。の胸から腰にかけて、大きく皮膚を抉る三本線の爪痕は、かつて形を歪められた獣牙族によってつけられたものだ。醜い瘢痕となったそれは、の罪の証のように、存在を示している。

 にわかに塔内が騒がしくなったことに気づき、は顔を上げる。

「賊か?」
「こんなところに……」

 騒ぎ出すデイン兵を尻目に、はそっと身を潜めた。この混乱に生じればイズカを探し出せる。



 一年半前、目にした姿とそう変わりない。いかにも怪しげな風貌をしている。
 剣の柄を握る手が緊張で震えた。気づかれぬように気配を消してイズカの背後に迫る。そうして、は躊躇いなく剣を振るった。

「ひぃっ!?」

 イズカがに気づくことはなかった。しかし、の剣先がイズカに届くことはなく、受け止めたのは竜鱗族のなりそこないだった。

「な……」
「な、なんだおまえは! なにをする!」
「イズカ……!」

 の一撃などほとんど効いていないようで、なりそこないが咆哮を上げる。

「……く、くくく! 万が一のため、こいつを守りにつかせていて助かった。おまえ、デイン兵の格好をしているが何者だ? いや、まあいい、どうせここで死ぬんだからな!」

 イズカがにやにやと笑う。
 はなりそこないのブレスを躱し、イズカに狙いを定める。「無駄だ」と、イズカがなおも余裕ぶって笑う。地を蹴ったに向かって、なりそこないの尾が迫る。

「くくく……残念だったな」

 イズカの手にした魔導書が光を放つ。一瞬、目の前が眩むほどの強い光を放ったかと思えば、次に目を開けたときには跡形もなくイズカの姿は消えていた。
 残るのは、なりそこないと化した竜鱗族だけだ。獣牙族とも鳥翼族とも違う、威圧感がを襲う。
 緊張ではなく恐れで震えた手を誤魔化すように、はぐっと剣の柄を握った。





 千里眼を持つヤナフが気づいたのは当然のことなのだが、それを王であるティバーンに伝えるかどうかは、正直悩んだのだった。ティバーンの怒りが怒髪天を衝く勢いであることは明白であり、余計な口をはさむことは憚れたのだ。
 したがって、ヤナフがとった行動はどうやら知り合いらしいモゥディにこそっと耳打ちすることだった。

「訳ありのあの姉ちゃん、塔の中で虫の息だぜ」

 顔色を変えたモゥディがライを呼ぶ。オッドアイが大きく見開かれるのを、ヤナフの千里眼は見ていた。



 ぬる、と己の血で柄が滑る。
 斬り伏せても斬り伏せてもきりがない。壁に背を預けて座り込み、は自嘲の笑みを浮かべた。失血で思考も身体も鈍っている。
 だから、目の前に現れた“彼”が本物だなんて思いもしなかった。

「都合のいい夢だな……」

 ひゅっ、と不自然に空気が漏れた。あちこち痛くて、もはやどこをどう怪我しているのか、把握できない。随分と重い左手を持ち上げる。利き手から武器を手放さないのは、腐っても剣士だからか。
 伸ばした指先に触れる手の感触がして、思わずふっと笑みがこぼれた。

「……本当に、都合がいい……」

 瞼が重いが、ここで閉じるわけにはいかなかった。
 夢でもなんでもいい。たとえ、都合のいい脳みそが見せた幻でも構わない。の瞳は、たしかにライの姿を捉えていた。

──ライ、ごめん」

 空色を映し出した瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。透明なはずの涙は、まるで──空色のなみだのようだった。
 あるはずのない指の感触が涙を拭った。あるはずが、ない、のに。

「……ライ?」

 瞬きとともに涙が落ちる。「おまえはバカだ」いつかと同じ台詞をなぞるその声は、だけに聞こえたわけではないようだった。を包んだ腕はたしかなぬくもりをもっていた。

「死ぬなよ」

 なぜ、と言葉になることはなく、はライに身体を預けた。



 地下で見た惨状を思い出すと、自分ではとても消化しきれないような、負の気持ちが膨れ上がるようだった。もとより正の気が強い性質であるため、負の気には敏感に反応してしまう。グリトネア塔での一件、そして王都に近づくにつれ強まる負の気が、押しつぶすような苦しさをライに与える。
 いつも通りに振る舞おうとしても、全身の毛が逆立ってならない。
 ──けれど。

 ライは手のひらをじっと見つめる。
 の涙を拭ったこの指先。彼女のことを考えると、不思議なことに心が鎮まるのだ。
 ベオクの杖の力によって傷こそ消え去ったが、体力の消耗が激しく今も深い眠りについている。の傍には、モゥディが付きっきりになっているだろうから、なにも心配はいらない。そう考えても、そわそわと浮足立つような気持ちになるのは、気がかりなのだろう。

「……バカなのは、俺も一緒か」

 顔を見に行くことすらできないのだから。

鋭角の夜が明けるまで

(ただその時を待つだけ)