デイン兵として再びクリミアに戻るとは思っていなかった。デイン=クリミア国境であるオルリベス大橋にて、プラハ率いるデイン軍はクリミア軍を迎え撃つ次第だ。プラハが直接クリミア軍と対峙するのは、彼らがまだ一傭兵団であったあの夜以来である。
 随分と昔のことのようにも感じられる。それなのに、いまだイズカに関する有益な情報が得られていない。

 は小さくため息を吐く。プラハに命じられ、はハール隊所属の名の元、彼を監視している。事情はよく知らないが、クリミア軍に討たれた将軍の仇のため、プラハに直訴してデイン軍についた竜騎士──ハールが騎竜の背に寝そべり、目を閉じている。眠っているのか定かではない。

「……ハール! お前の出番だよ」

 プラハの眉が吊り上がるのも無理はないかもしれない。ハールが呑気にも大きな欠伸をひとつ、隻眼の目尻に涙がにじむ。「まったく、ふぬけた男だね」とプラハが呆れ果て、吐き捨てるように呟く。
 軽く鼻を鳴らし、プラハが長い髪をなびかせて踵を返した。
 騎竜が大きく羽根を広げる。

「よーし……ハール隊、出るぞ」

 どこまでも呑気な声である。ハール隊がオルリベス大橋の下へと飛び立つが、はペガサスナイトでもドラゴンナイトでもない。羽ばたく騎竜を見つめるを、ハールの腕がさらった。

「ハー……」
「口は閉じてろ。舌噛むぞ」
「……」



 デイン王都を陥落させたクリミア軍の実力は推して知るべしである。
 橋の上では一進一退、国境を越えるには、橋を渡りきるほかない。プラハが仕掛けた罠に悪戦苦闘しながらも、クリミア軍は確実に進軍している。含むハール隊は、オルリベス大橋の下に身を潜め、頃合いを待っているところだ。
 ハールに抱えられたままのは、非常に居心地の悪い思いをしながらも、空中ゆえに身動きも取れない。

「……さて……」

 ハールが低く呟きを落とした。彼が手綱を握ると、騎竜が翼を大きく広げる。これほどまで近くで騎竜を目にするのは初めてである。思わず、はぎくりと身体を強張らせ、素早く剣の柄に手を添えた。
 眼帯をしていない瞳がを見下ろすが、すぐに視線は外される。

 気だるげに髪をかき上げたハールが、クリミア軍を挟み撃ちにするべく隊を動かす。「どうしたもんかね」と、小さな呟きは途方に暮れるわけでもなく、淡々として感情を持たなかった。
 地に足をついてなお、まだ浮遊しているような妙な感覚が残っていた。

「ハール殿、」
「……ま、やるだけやるかね」

 戦場においても、実に気だるげでやる気がない。はそんな彼を横目に、剣を抜いた。
 前を見据えると、見覚えのある傭兵団の面々に加えて、初めて見る顔も見受けられた。その中に、ライの姿を見つけて、は内心動揺する。彼がクリミア軍に加わったということは、ガリアがクリミアについたことを意味している──
 じわりと手のひらに滲んだ汗を誤魔化すように、は剣を握りなおす。

 クリミア軍のほうから騎竜が近づいてくるのを認め、は剣を構える。しかし、ハールの手がそれを制した。「ハール隊長……!?」と、騎竜に跨る少女が叫ぶ。
 二人の関係性を考える必要などない。はぐっと眉根を寄せる。

「ハール殿、寝返るつもりですか」
「おっと、そういや怖い監視役がいたわけだ」

 そう言いつつも、ハールが気にした風もなく、肩を竦めて見せる。

「た、隊長……そんな呑気な……」

 はハールに剣を向けるか迷い、少女とハールに視線を行き来する。「あんたはどうする?」ふう、と肩の力を抜きながら、ハールが囁くような静けさで告げた。

「あんた、デインの人間じゃないだろう」
「……デイン兵です」
「だとしても、まさかプラハ将軍とここで仲良く死ぬつもりじゃないだろう?」

 は一度、目を閉じる。そんなつもりは微塵もない。
 けれど、だからといって、クリミア軍に寝返るという簡単な話ではないのだ。は下ろしていた剣の切っ先を、ハールへと向けた。少女が顔を険しくして気色ばむが、ハールの飄々とした態度に変化はない。

「プラハ将軍は正しかった。あなたは初めから、敵だった」
「……そうかもしれんな」

 先ほどまでを抱きかかえていた手が斧を握るのだから、不思議なものである。隊長を務めていただけあって、ハールの判断は素早く的確だった。

「前線まで飛ぶぞ。逃げ足ならこっちが上だ」

 ハールの唇がかすかに動いたと同時、二人の竜騎士が羽ばたいた。

「二人は追わなくていい! 予定通り、背後からクリミア軍を攻める」

 残されたドラゴンナイトに指示を飛ばし、は剣を構えた。深追いしては意味がない。
 想像以上にクリミア軍の進軍が早い。プラハが講じた落とし穴の足止めも、気休め程度にしかなっていないようだ。シューターが占領されてしまっては、味方のドラゴンナイトも思うようには動けまい。

「は、半獣……!」

 デイン兵が恐れおののく。空色の獣が素早く目の前を横切り、ドラゴンナイトに鋭い爪で襲い掛かった。怯んだドラゴンナイトを容易く撃墜し、獣が人に姿を変える。

「……!」

 は小さく息を呑む。

「半獣狩りを楽しむ余裕はないのかい? デイン兵さんよ」

 ライが皮肉気に口角を上げる。
 ひっ、とデイン兵が引きつった悲鳴を上げた。そして、動揺した隙をつかれて、正確無比に飛んできた矢に射られる。それはついこの間を助けた弓矢だった。

「もう一矢来る!」

 赤毛の男が弦を引く。は反射的に叫ぶが、ドラゴンナイトの反応は遅かった。翼を射られた騎竜が崩れ落ちる。
 東に位置するデイン側からの援軍も、クリミア軍に迎え撃たれて挟撃もままならない。

「……ガリアは、クリミア王女の王都奪還を全面的に支援する」

 ぼそ、とライがだけに聞こえる声量で呟く。はなにも反応せずに、剣をぐっと握りしめる。
 ライが獣へと化身する。空色があまりに眩しく、は目を眇めた。

──!」

 ふいに、の腕を掴む手があった。「走れ!」と、有無を言わせないまま引っ張るので、は反射的に駆け出した。よく知る同僚の背には血が滲んでいる。

「待て、怪我を……」
「いいから! クリミア正規軍が来た。もう無理だ!」

 同僚が声を張り上げ、走る速度を上げた。背後からクリミア軍は追ってこなかった。


 の息が弾むころ、ようやく同僚が速度を緩めた。戦いの場から大分遠ざかっていた。
 腕を掴む手が離れたかと思えば、今度は両肩を掴まれる。ぐっと指が食い込んで痛いくらいだったが、はその手を振りほどかなかった。
 ひどく真剣な表情をしている。同僚のこんな顔を、は今まで見たことがない。

「……に、言わなきゃいけないことがある」

 けれど、言い淀むように一度口を閉じて、それからすこしの間をおいて同僚が唇を震わせた。

「グリトネア塔だ」
「え?」
「イズカ様はそこにいる。一度、警備をさせられた……」

 まるで懺悔をするように、同僚が苦し気に目を閉じた。

がイズカ様を探しているの知ってたし、伝えなきゃって思ってた。けどさ……あんなところに、本当は行ってほしくないんだ…」

 肩を掴む手から力が抜けて、おもむろにの身体を包み込んだ。「死ぬなよ、絶対」と、耳元に落とされた声は湿っぽかった。
 ふいに、ぐっと体重が圧し掛かってくる。支えるために背に回した手にべとりとした感触を覚えて、はぞっとする。慌てて覗き込んだ同僚の顔に血の気はなく、目を閉じたまま力なく笑う。

「火事場の馬鹿力かな……こんなに走れるなんてさ」
「冗談言ってる場合じゃないだろう!」
「……はは、やっぱ、結構いい女だよ……」

 同僚の全体重が掛かって、は支え切れずにずるずると倒れ込む。横たえた同僚の傷は思った以上に深く、この怪我で走れたことが不思議なくらいだった。

「…………ねむい……」

 同僚が寝入るように背を丸める。その目が二度と開くことはないとわかっていながら、は「おやすみ」と声をかけて指先で瞼をそっと撫でた。

終焉のひとひら

(そして、ぬくもりを失くす)