デイン軍の正規兵に加えて、多くの傭兵が行き交う。成り上がりを目指す者にはごろつきと変わりない輩も多く、戦の気配も近いためかひどく殺伐とした雰囲気である。そして、味方であるとはいえキルヴァスのラグズの姿が緊張感を増長させている。
「よっ、久しぶりだな。」
ぽん、と軽く肩を叩かれる。
デインを発つ前と変わらぬ気安さを持って、同僚が笑った。
然したる怪我もないのは、彼がその程度には優秀である証だろうか。は笑みを浮かべるでもなく、目だけで彼に答えて、早々に視線を外した。
肩をすくめた同僚が、それでも気分を害した様子もなく、に並ぶ。吐き出した息が白く消えていった。ベグニオン=デイン国境に位置するトレガレン長城の廊下は、雪の降りしきる外気のせいで、ひどく冷え冷えとしている。
「なあ、どうだったんだ?」
同僚が気遣わし気に、すこしだけ躊躇いがちに口を開いた。は足を止めて、同僚を見上げた。抽象的な問いだったが、言わんとしていることはわかる。以前に、すでに家族はいないと話している、しかし、にとってクリミアが故郷であることには変わりがない。
荒れ果てた王城の様子が脳裏に過ぎって、は思わず言葉に詰まる。
「あ、いや、話したくないならいいんだけどさ」
「……故郷が、蹂躙される様は、気持ちのいいものではないのは確かだ」
「そりゃ、そうだよな」
同僚が痛まし気に顔を歪める。
は先ほど己がされたように、同僚の肩を手で叩いた。
「わかっていたことだ。前にも言った通り、気に病むな」
「……そうだな。じゃあ、とりあえず落ち着いたら、再開を祝して一杯やろうぜ」
無理やりにつくった笑みを張り付けて、同僚がくい、と酒を煽る仕草をする。呆れも覚えるが、同僚のやさしさは素直に嬉しく、は頷いた。
落ち着いたら、との言葉通りにいまは、互いの再開に浮かれている場合ではない。
デイン王国は、クリミアを容易く陥落したが、樹海に覆われたガリアの侵略に手間取っている。加えて、いまだにクリミア王女も捕らえることができていない。それどころか、ベグニオン帝国から一軍を借り受けて、デインに攻め込もうとしている。
あのとき王女を捕らえれていれば、とプラハが呪詛のように呟くのを、は幾度となく耳にしていた。プラハと共にデインに戻ったは、国境を守るように命じられた。
にとっては都合がいい。
デイン王国には、イズカがいる。その姿を目にさえできていないが、デイン国内にいればいずれは──
「、まーた怖い顔してら」
眉間を指でつつかれ、はふっと肩の力を抜いた。「そうそう、戦場じゃあないんだから、力抜いとけって」と、間もなく戦場になるというのに、同僚が朗らかに笑った。
は、と短く息を吐けば、白く煙る。寒さが体力を奪っていくのを感じながら、はぐっと剣を握りなおす。
「ガリアの半獣だけじゃなかったのかよォ……」
情けなく呟くのは、デイン兵だ。相も変わらず、ひどい反ラグズ思想であるが、このときばかりはも同様の苦い思いを抱いた。いつの間に鳥翼族を従えていたのか、驚くことに白鷲の姿さえある。上空から襲い来る鋭い大爪を剣で弾くが、は反動で体勢を崩した。
ひゅん、と風を切る音が聞こえて、矢が鷹に向かって飛んでいく。そのおかげで二撃目が迫ることはなく、は素早く体勢を整えて振り返る。弓を構えた男の姿には見覚えがあった。
「あなたは」
何故、と唇からこぼれ落ちる音を拾って、男が怪訝そうに片眉を跳ね上げた。
かつてプラハを追い込んだ傭兵団の一員──つまり、彼はかつての仲間と戦っている。傭兵とはいえよりにもよってデイン兵になるとは、と思うが、もクリミア人なので人のことを言えた立場ではない。
「いや、なんでもない。助かった。ありがとう」
「ケッ」
男が悪態をつく。に視線すら寄こさずに「来るぞ」と、再び弓を構える。彼の実力は、身をもって知っている。は舞い落ちる羽根に目を細めた。
戦況は芳しくない。早々に怖気づいたデイン兵と、士気の低いキルヴァスの戦士に対し、正規軍ではないとはいえ祖国奪還のために戦う彼らは、一枚岩となっている。こうなることは目に見えていたのかもしれない、とは空を仰いだ。
チラチラと雪の降る空は曇天である。かじかんだ指先を解すように動かして、は剣を構える。
けれど、対峙した相手は、敵意の欠片もなかった。
──いつかはこうなるとわかっていた。
化身を解いたモゥディの悲しげな視線を受けて、は思わず視線を逸らした。トハの港で相まみえたときは、言葉を交わさなかった。
「…………」
今にも泣きだしそうな声だった。モゥディ、と名を呼んで応えられたらよかった。
けれど、いまはそうすることができない。デイン兵という立場上、ラグズと気安くするわけにはいかなかった。
は俯きがちに、首を横に振る。そうして、剣の切っ先をモゥディへと向けた。形だけでもやりあわなければ不審に思われる。
「……っ、……ドうして……!」
モゥディの顔を真っすぐ見ることができない。ガリアで交わしたやりとりが脳裏を過り、の動きを鈍らせる。心優しい彼に剣を向けるなんて許されないことだ。
「訳ありってことか、道理で攻撃が手ぬるいわけだ」
「……!」
鷹の鋭い爪が肩口を浅く裂いた。「っ!」モゥディが悲痛な声を上げるが、は近寄るのを手で制する。ぽたり、と鮮血が落ちて白い雪を汚した。
「俺たちを舐めてもらっちゃ困る。殺す気でこないと、やられるぜ」
化身を解いた姿は、想像していたよりも小柄だった。子どものようにも見えるが、外見だけではラグズの年齢は測れない。
は傷口を押さえながら、鷹の民を見上げる。
「おっと、だれか来る。逢引はそこまでにしときな」
ばさ、と羽根をはためかせて鷹の民が飛んでいく。モゥディが後ろ髪を引かれるようにしながら、踵を返した。モゥディの背が見えなくなってもなお立ち尽くすの肩を、ぐいと掴む手があった。
「、大丈夫か! って、うわ、血が出て……」
同僚の言葉が途切れる。少しだけ神妙な顔をして、同僚の指がの頬を拭った。
「トレガレンはもう落ちる。さっさとずらかろう」
「だが、撤退命令は出ていない」
「こんなとこで死ぬより、お咎め受ける方が百倍マシだろ」
生きてりゃどうにかなる、と同僚がぽつりとつぶやきを落として、の固まった指から剣を取り上げた。ずず、と赤くなった鼻を啜って、同僚が小さく笑った。
「あんま深い傷じゃなさそうだけど、泣くほど痛かったのか?」
そう言われて初めて、は自分が涙していていたことに気がついた。同僚が拭ったのは血ではなく、涙だったのか。気恥ずかしさを覚え、は慌てて手で頬を擦った。同僚が笑みを含んだまま、剣を手渡してくる。
カチン、と音を立てて剣を鞘に仕舞い、は振り返る。後ろ髪を引かれる思いはも同じだ。
あんな顔をさせるつもりは──
は軽くがぶりを振って、同僚の後を追った。
クリミア軍が国境を越えたことは、早駆けの伝令がすでにプラハに伝えていたらしい。プラハの怒りと焦りは火を見るよりも明らかで、いつそれが自分に向くのかと周囲のデイン兵を委縮させている。「プラハ将軍って美人なのにこえーよな」と、同僚がいつもの調子で耳打ちしてくる。肝の座った男だ。
キルヴァス王ネサラがプラハの傍らに降り立つ。白銀の雪の中、鴉の黒い羽根はよく映える。プラハがいくら食って掛かろうとも、ネサラが口元の笑みを崩すことはなかった。
「ハッ!」
嫌悪をすべて吐き出すように、プラハが嘲笑する。
「半獣の中でもカラスは最低の部類だね。少しでも隙を見せようものなら、目玉をくりぬかれちまう」
まったく信用ならない男だよ、と忌々し気に呟いて、プラハが手綱を握りなおす。それに倣って、たちも手綱を握る。しかし、プラハが馬を蹴ることはなく、周囲に視線を巡らせた。蛇が絡みつくような視線で、兵士を値踏みしたプラハが、ふんと小さく鼻を鳴らす。
「これ以上の失敗は許されない……お前たちも、よく理解しておくんだね」
プラハが今度こそ馬を蹴って走り出す。彼女の長い髪が風になびいた。
はプラハに続く前に、ちらりとネサラへと視線を向けた。確かに鴉の民は狡猾で鼻持ちならない。漆黒の翼に、は鷹の民を重ねて目を伏せる。彼はを訳ありと称した。とモゥディの関係になにか勘づいたのかもしれない。じくりと肩の傷が痛んだ気がした。
目的を果たすまでは、とは唇を結ぶ。一拍遅れてついてきたを、同僚が気遣わし気に見やった。
「平気だ」
は短く答え、吹き付ける雪に目を細めた。穏やかな気候のクリミアでは、冬はこれほどまでに厳しくはない。
デインの深い雪がせめてクリミア軍の進軍を阻んでくれればよいが、そううまくはいかなかったようだ。ネサラがキルヴァス兵を撤退させたことによりデイン軍は総崩れとなり、指揮を任されていたホマサも敗れた──恐縮しきった伝令兵の言葉に、プラハが目を閉じて深く息を吐いた。
「……わかってたさ。カラスなんか、最初から信用なんかしてなかったしね」
怒りに燃えるプラハの瞳が伝令兵を捉え、怯えた彼がびくりと後ずさる。プラハの傍らに控える兵士たちにも緊張が走り、の隣に立つ同僚もまた背筋を伸ばした。伝令兵を叱咤したプラハが、荒々しく髪をかき上げる。
「……何か、上手い方策を練らなくては……この調子では……陛下に見限られちまう…………」
プラハの赤い唇がぎりりと噛み締められるのが見えた。