イズカが怪しげな実験をしているらしい、ということは、兵士の間でも実しやかにささやかれている。しかし、どれもこれもが噂話に過ぎず、眉唾物の話ばかりで碌な情報が得られない。どこでどのようなことが行われているのかは定かではなく、その実験についての詳細は謎に包まれているのだ。
 このデイン王国で、あの忌まわしき実験が今なお行われていると考えると、歯噛みする思いでならない。

、顔こえーよ」

 デイン軍の一兵士となったになにかと世話を焼く同僚が、眉間の皺を人差し指でつついてくる。この同僚は、酒が入ると特に饒舌になる。デイン生まれのデイン育ちで、よりもよほどこの国について詳しい。
 は眉間を指先で抑える。同僚がケラケラと笑った。

「で、なんだっけ、イズカ様? 前にさあ、イズカ様をちらっとだけ見たことあるんだけど、なんか人体実験でもしてんじゃないかってくらいの怪しい雰囲気? アシュナード王もそれであんだけ強くなってたりして、なんてなあ!」

 は記憶に残るイズカの姿を思い描く。見るからに怪しげな男だが、よくアシュナード王に取り入れたものだ。
 しかし、アシュナード王の行き過ぎだともいえる実力主義では、誰がどのような立場になったとしても不思議ではないのが現実だ。現在のデイン王国は、実力のあるものは身分や種族を問わず出世できる。クリミア出身であるがデイン兵になれたのもそのおかげだ。

 すでにできあがった状態である同僚のグラスが半分ほどになっている。そろそろ止めないと、とは適当に相槌を打ちながら、内心で考える。

「そういや、お前この間の半獣狩りでも手柄を立てたんだろ? 女だからって見くびれねーよなあ」

 ぴく、とグラスを持つ指先に、不自然に力がこもった。同僚がそれに気づいた様子はなく、上機嫌に話を続けている。

 半ラグズ思想が根強いデイン王国では、胸糞の悪くなることを定期的に行っている。半獣狩りと呼ばれるそれは、文字通りラグズを狩る―――話には聞いていたが、思っていた以上にデイン王国の反ラグズ思想が強い。ラグズという言葉は使わず半獣と蔑称し、不思議なほどにラグズを憎んでいる。デイン人であるこの同僚も、なんの引っ掛かりもなく半獣狩りについて口にし、心から感心して言っているのだ。
 もっとも、クリミアとガリアが同盟関係にあったとしても民間には根付いておらず、クリミア人でもラグズを嫌悪するものは多い。

 は目を伏せ、先日の光景を思い出す。半獣狩りに参加させられたのは、はじめてだった。

「あれは……たまたま、運が良かっただけだ」

 は軽くかぶりを振った。
 そんなことで手柄を立てても誇れはしないし、なによりライたちに顔向けができなくなる。これ以上、彼らを傷つけるつもりはないし、嫌われたくもない。あの途方もなくやさしいカイネギスに、恩を仇で返すような真似ができるわけがなかった。

 だから、は強制的に参加させられた半獣狩りで、デイン軍に気づかれぬように注意を払い、ひとりでラグズを惹きつけてそのまま逃がしただけだ。孤軍奮闘した、と勝手にそう取られてしまい、むしろは困惑している。

「お得意の謙遜か? ほんと、お前っていつの間にか、出世してそうで怖いわ」
「……さすがに飲みすぎだ。ほら、水を飲め」

 酒の入ったグラスを奪い、代わりに水を渡す。同僚が真っ赤な顔でふにゃふにゃに笑った。

ってさー、意外と世話焼きで、いい女だよなあ」

 は軽く肩をすくめ、酔っぱらいのたわごとを聞き流した。
 騒がしい酒場での戯言とはいえ、アシュナードについてまで冗談めかすとは、相当酔っているようだ。「寄宿舎に戻ろう」と、は同僚の肩を叩いて促す。

「うーん……眠くなってきたー」
「寝たら置いていくぞ」

 さすがにでも成人男性は担げない。冷たく言い放つと「わかったって! 帰るよ、帰る」同僚が慌てて立ち上がり、転びかける。足元が覚束ないので、は仕方なく肩を貸してやった。

「しっかりしろ」
「はいはい、大丈夫だってー」

 同僚の間延びした声を聞きながら、は眉をひそめて歩き出す。
 ──半獣狩りだなんて、ほんとうに胸糞が悪い。
 このときのは、まさかその半獣狩りによる功績が認められて、プラハの隊に迎えられるとは露にも思っていなかったのだ。





、おまえ確か、クリミア出身だったよな」

 いつになく同僚が真剣な顔で言うので、は準備していた手を止めた。彼とは別部隊に配置が決まったは、よりにもよってクリミアの王都へ向かうことになっている。

「……その、家族とか」

 言いよどむ同僚の言わんとしていることを察して、は小さく笑んだ。なんだかんだ、彼にはよくしてもらったし、色々と話を聞かせてもらった。その話の多くは、実のない無駄話であったが、楽しい時間を過ごすことができたことには違いない。

「わたしに家族はもうない。だから、そう気に病まないでくれ」


 ──クリミアを手にし、我が国はさらなる栄光を手にする。

 アシュナード王の宣言はあまりに唐突で、デイン兵にも動揺が走った。けれど、今はもうすでに、デイン兵はいかに手柄を立てるかを考え、士気は十分に高い。アシュナード王による実力主義のもとでは、手柄次第ではいかようにも出世できるからだ。
 に戸惑いや迷いがないわけではない。しかし、ここでデイン軍を抜け出すわけにはいかないのだ。朗報を待ってる、とライのその言葉が何度も頭をよぎる。

 同僚が気まずげにぽりぽりと頭を掻く。

「なんか、かえって悪いこと聞いちゃったな」
「……いや、ありがとう」
、無事にまた会おうな。で、祝杯あげようぜ」
「すこしは酒から離れろ」

 拳と拳を合わせて、挨拶を交わす。
 は腰元の剣の重みを確認して、同僚と視線を交わすと自分の隊へと向かった。


 カツ、カツ、とヒールの音が響く。緑の長い髪と赤い外套が、動きに合わせてなびく。
 四駿の紅一点であるプラハが、の前に立つ。「ふーん、あんたが……」値踏みするように上から下まで眺められる。ふっ、と赤い口紅に彩られる唇が弧を描く。

「半獣狩りでずいぶん活躍したんだって? あたしは半獣が大嫌いでね……よくやったじゃないか」
「お褒めに預かり光栄です」

 は首を垂れる。プラハが満足そうに笑った。

「明日の昼下がり、陛下が飛竜で強襲をかける。あたしたちは、王宮に騎兵で突撃する」
「はっ」
「いいね、失敗は絶対に許されない…覚悟するんだね」
「はっ」

 兵士たちが緊張感をもって敬礼する。
 プラハが残忍な笑みを浮かべている。その傍らには、軍師だというイナがあまり存在感なく佇んでいた。



 果たして、クリミア王都メリオルは、デイン軍の奇襲によってあっけなくアシュナードの手中に収まった。賢明たるクリミア国王ラモンとその妻は、すでにアシュナードによって亡き者となっている。
 は戦いの後が色濃く残る城内で、だれにも気づかれぬように、そっと祈りを捧げた。

「はぁ!? 今なんて言ったんだい?」

 プラハの苛立った声が聞こえ、はすぐに傍に控える。
 そこでは、プラハの部下であるダッコーワ将軍が蒼白な顔をして、彼女に縋っていた。プラハに冷たく見下されたダッコーワが震えあがる。

「プ、プラハ将軍。まことに、面目なく……」
「面目? そんなのどうだっていいんだよ。デイン軍規を忘れたとは言わせないよ」

 プラハが目を細め、ダッコーワに顔を寄せる。

「成功か失敗。生か死」

 ダッコーワから表情が消える。この先、彼がどうなるかはこの場にいるだれもが予想できた。プラハが興味は失せたといわんばかりに背を向け、吐き捨てるように言い放つ。

「おい、おまえ、こいつを連れて行きな!」

 デイン兵がもがくダッコーワを無理やり連れていく。
 静かになった部屋で、プラハが苛立たしげに髪をかき上げた。

「ったく……どいつもこいつも、まともに使えないねぇ」

 プラハとイナが言葉を交わすのを、を含めたデイン兵が黙って聞いている。
 クリミア国王に娘がいたというのは、クリミア人であるも知らぬことだった。ガリアへ向かう王女を、プラハが自ら追って出ると言う。プラハの視線がこちらに向いた。

「いいかい、あんたたちもしくじるんじゃないよ。ダッコーワのようになりたくないならね」

 プラハのぞっとするような物言いに、デイン兵たちに緊張が走るのがわかった。部下に非常に厳しく、失敗を決して許さず自ら制裁を与えることもあることを、はこの隊に配属されて知った。
 そして、ずいぶんと自信家である──


「負ける……? このあたしが…そんなバカな………」

 プラハのつぶやきがぽつりと落ちる。
 は傭兵団の攻撃を交わしながら、プラハを振り返った。傭兵団の団長との一騎打ちは、プラハのほうが劣勢のようだ。こちらもバルマがやられ、戦える兵士はほとんどいない。
 は正確に急所を狙って飛んでくる矢を弾き落とす。プラハに撤退を促そうにも迂闊に近づけない。

「いたぞっ!! こっちだっ!」

 不意に現れたデイン兵がプラハの背後に整列する。増援に気づいて撤退しようとする傭兵団を、デイン兵があっという間に包囲した。
 傭兵団の攻撃がやんだ隙に、は素早くプラハの近くへ身を滑り込ませた。「プラハ将軍」悔しげに歪んでいた顔が、勝ちを確信した笑みへと変わっている。はプラハと対峙していた傭兵団長へと視線を向けた。四駿であるプラハとやりあっていたというのに、余裕がうかがえる。

「くくく……形勢逆転だねぇ」

 プラハが調子を取り戻し、声高に叫ぶ。

「……全軍、突撃! あいつらを殺せっ!!」

 デイン兵が意気揚々と傭兵団に向かっていくが、突然の咆哮に動きがぴたりと止まった。「これは……」は小さくつぶやいて、周囲をうかがう。
 もう一度咆哮が聞こえて、デイン兵に大きな動揺が広がる。「獣だ!」「に、逃げろっ」口々に情けない声を上げて、逃げようとしている。プラハが慌てて声を張り上げた。

「ま、待ちなっ!! おまえたちっ! うろたえるなっ! 敵に背中を向けた奴は、この場であたしが黒焦げにするよ!!」
「ひっ……!」

 しかし、少数のデイン兵を残して、あっという間に逃げて行ってしまった。プラハが顔を歪ませて唇を噛みしめる。はプラハの傍で剣を構えるが、ほとんどラグズの気配に気を取られてしまう。
 現れたラグズのなかの一匹が、獣からひとへと姿を変える。
 見慣れたその姿には安堵さえ覚えるが、プラハに悟られぬように気を引き締める。

「デイン兵に告ぐ! ただちにこの場から去れ!! さもなくば、我がガリア軍が相手となるぞ!!」

 ライ、とその名を心の中でつぶやく。こんなことになるだなんて、すこし前までは考えもしないことだった。デインとクリミアの戦争は、予想できなかった。
 ライの言葉を受けてもなお、プラハが構える。

「……そう言われて、『はい』と返事ができるもんか。どのみち、陛下の元に戻れば処刑されるんだ。ここで戦って死ぬ方がまし…」
「プラハ将軍!」

 アシュナード王に心酔するプラハが、力なくつぶやく。は声をかけるが、反応はほとんどない。
 不意に現れた黒騎士に、は心臓が掴まれたような、ぞっとする感覚を覚えた。それが恐怖であると認識したのは、デイン兵が撤退を始めたころに、剣を持つ手のひらの汗に気づいてからだった。
 はプラハとともに撤退しながら、ライを振り返って見やった。視線が合うことはなかった。

名残りのまぼろし

(その姿が目に焼き付いて消えない)