熱が下がったおかげで随分と楽になった。腕は未だに痛むものの、無理に動かさなければ問題ない。
はモゥディに手渡された花を花瓶に差し、萎れた花を取り除く。相変わらず、毎日花は一輪ずつ増えていく。変わったのは、寝ている間に置かれているのではなく、モゥディに直接手渡しされる点だ。モゥディには申し訳ないことをしてしまったと思う。それでも、見舞ってくれるモゥディにはありがたい限りだ。
ライが無言で食事を差し出す。花を見て、眉が顰められる。モゥディの行いを快く思っていないのだろう。
ライ、と声をかけると視線だけが向けられる。研ぎ澄ましたような殺気がかすかに漏れた。
「ガリア王に謁見したい」
「……」
一瞬の沈黙ののち、ライが口角を上げた。「ようやく俺もお役目御免か」肩の荷が下りる、といったような言い方だが、その表情はどこか浮かばない。
「伝えておくよ」
オッドアイが逡巡するように揺れた。
は探るようにライを見つめるが、すぐに視線を逸らされて肩を竦める。
獣牙族の多くは、レテのように感情を露わにする。モゥディにも然り、感情はすぐに尾や耳に表れるものだが、ライには負の感情を極力抑えこむきらいがあるようだ。だからこそ、に対してもあまり憎悪や嫌悪をぶつけてこない。腸が煮えくり返っていても──は揺れる尻尾を見つめるが、感情を見出すことはできなかった。
ふ、と自然と口元が緩み、弧を描く。
「助かる。あなたには、本当に感謝しているよ」
「お前の感謝の言葉なんて、聞きたくない」
オッドアイの冷たい視線がを見下ろす。
「……謝罪だって、何の意味も成さない」
吐き捨てるように言って、ライが背を向ける。空色の尾が、ざわつくように毛を逆立てるのを、は見た。けれど、次の瞬間には何事もなかったかのように、ゆらりと尾が揺れる。
「それでも言わせてくれ。ありがとう、ライ」
は囁くように告げたが、聴力に長けるライには、十二分に届いただろう。
優秀なガリアの戦士は、すぐにカイネギスとの謁見を取り成してくれた。
ガリアの獅子王──勇猛であり思慮深く、そして博識──目にするだけでもその巨体に圧倒されるが、人となりを知るほどに委縮を覚える。は深く頭をたれながら、周囲を窺う。ジフカが影のように寄り添う以外、側近を従えていない。ライがの傍らに控えているのみ、ずいぶんと信用されているのか舐められているのか。
どちらにせよ、カイネギスの配慮によるものだ。にとっても、ラグズたちにとっても、なるべく接触は避けたい。
「久しいな、。顔を上げるがよい」
「はい」
「怪我の具合はどうだ」
「はい、お陰様で万全にございます」
そうか、とカイネギスが呵々と笑う。「わしの部下は優秀でな」ちらと見やったライの表情は、苦々しい。
「お前がここに来たということは、半年前の件についてか」
「……はい」
半年前。
は目を伏せる。
は傭兵剣士であり、様々な仕事を請け負ってきた。しかし、あれほど胸糞の悪くなる仕事は先にも後にもない。
護衛対象であった学者たちが、ラグズに生物実験を行い、結果として暴走したラグズが多くの命を散らした。が正気を失ったラグズを相手にしている間に、学者たちは散り散りとなって逃げ、その行方は掴めぬままであった──が、ようやく尻尾を掴んだのがつい先月のことだ。
「あの忌まわしい実験の首謀者は、デイン王国に仕えるイズカという男であることがわかりました」
「…!」
ライから放たれた鋭い殺気に襲われ、じわと冷や汗が滲む。息をすることさえつらく、は喘ぐように息を吐いた。「ライ、押さえろ。は病み上がりだ」カイネギスがため息交じりに言えば、傍らからたじろぐ気配と共に殺気が治まる。
「デイン兵となることがもう決まっています。わたしが、必ずこの男を殺します──ですから、それまではどうかご温情を」
ラグズはベオクとはちがう。ベオクはラグズを半獣と蔑み、排除しようとする。デイン王国では尚更その傾向が強い。
いかにラグズの彼らがイズカを殺したくても、デインにいるとなれば近づくことは困難である。
「お前を、信じろって言うのか」
感情を押し殺したようなライの言葉に、カイネギスが目を細めた。
は静かに頷きを返す。
「信じてくれとは言いません。ただ、時間をいただきたいのです」
「王、俺は反対です。情報が定かかも怪しいのでは?」
「ではは、命乞いのためだけに、ガリアに舞い戻ったと? ライ、ここ数日を間近に見てどう思った。どう感じた。負の感情を整理するのは簡単ではないだろうが、頭のよいお前は理解しているはずだ。だからこそ、お前にを任せた」
決して詰めるような口ぶりではない。はライを振りかぶる。オッドアイが射抜くようにを見つめ、躊躇いがちに逸らされた。
「そして、お前は諦めるのが早すぎる。自責も償いも、もうよい。すでに過ぎ去ったことは、捻じ曲げることなどできまい。あやつらの供養のためにも、その命は大事にせよ」
「ガリア王」
「我ら獣牙族の無念を晴らしたいのならば、好きにするがよい。ただし、死んでくれるな。お前は十分に後悔をして、懺悔もしただろう。再び、こうしてガリアに出向いたことが何よりの証拠。その情報はありがたくいただこう」
「……あなたは、あまりに、慈悲深い」
は視線を床へと落とし、呟くように言った。顔をあげることさえも憚られる。
「これがわしの、ひいてはガリアの意思だ。くれぐれもお前に危害は加えないと誓おう」
下がれ、とカイネギスが手を向ける。
ライが素早く是と返し、もまた深く首を垂れて従った。
カイネギスとの謁見から数日後、は久々に旅装束に身を包み、腰に剣を携えた。カチャリ、と鳴る金属の重みがすこしばかり懐かしく感じるほど長く、休息を得たようだ。
手に花を持ったモゥディがしゅんと尻尾を垂らしている。そのすぐ傍ではライが壁に背を預けて佇む。
は小さく笑い、モゥディを見上げた。
「なんだか、ひどく悪いことをしている気分だ。そう落ち込んでくれるな」
「……モう、行くのカ?」
「ああ、随分世話になった。毎日欠かさず見舞いに来てくれてありがとう、モゥディ」
モゥディの差し出した花を、はできるだけ大事に受け取った。
「マた、ガリアに来てクれ。モゥディ、待っテる」
「モゥディ」
ライが咎めるように名を呼ぶのに、モゥディが大きな躯体を縮める。その様子にわずかばかり、ライがばつが悪そうに顔を歪めた。
はそんなライの肩をぽん、と気軽に叩いた。
「ライ、本当にあなたには迷惑をかけたな。ありがとう」
「……おれは、王に従っただけだ」
「ああ、そうだったな」
逸らされた視線に、は肩をすくめる。相変わらずつれない態度だ。まあ仕方がない、は苦笑しながら踵を返す。
「」
ぽつりと落とされた名に振り向く。ライがおもむろに尾を揺らす。は美しい空色の獣を前にして、目を眇めた。もう会うこともないかもしれないと思うと、は感傷を覚える。
「……王の言葉を忘れるな」
オッドアイが真摯に見つめてくる。は頷き、ひらりと手を振った。
「当たり前だ。言われなくとも、簡単に死んだりしないさ」
己の命を軽んじていたことは否めない。苦い記憶から逃げだしたいがために死を望んでいたことも、恥ずべき事実だ。けれど、生きるための理由は──
はちら、とライを見やった。
もう一度彼にあいたい。その思いがあったが故に、はこうして再びガリアに来られたようなものだ。
「樹海の入り口まで送る。もう準備は済んだろ、行くぞ」
「、気ヲ付けテ」
「ありがとう、モゥディ」
モゥディの名残惜しそうなその姿に、は口元を緩める。
「モゥディはやさしいな」
「……あいつは、やさしすぎるよ」
ライが苦々しく呟く。ベオクとラグズの関係を思えば、ライの杞憂は理解できる。やさしいモゥディが傷つくことは、多いかもしれなかった。「わたしはあなたも十分やさしいと思うが」ライの視線が一瞬だけを見た。
は気づいていた。いまだを快く思わぬ多くのラグズたちと出会わぬように、ライが配慮してくれていることに。いくらガリア王の言葉があれども、感情を抑えることは難しい。ガリアを出るまでの道すがら、殺気を向けられることくらいは予想していたが、ラグズの気配をほとんど感じない。
ふっ、と思わずは笑みをこぼす。
「ライ」
「……なんだ」
ライの返事はそっけなく、目が合うこともない。
「最後まですまない。そして、ありがとう」
は樹海を仰ぎ見た。葉の隙間から、空色がかすかにのぞいている。
「…………朗報を、待ってる」
思わぬ言葉に振り向くが、すでに空色の獣が遠くを走り去るところだ。は小さく笑い、肩をすくめると樹海へと歩き出した。