快く思わない者ばかりではないと知ったのは、目が覚めると毎日ベッドサイドに花が置かれていたからだ。しかし、それはいつもが眠っている時ばかりに届けられ、誰が訪ねてきているのかは知る由もない。
 近づく気配も悟れないなんて情けないが、それは殺気めいた気配ではない証拠でもあった。
 今ならば、寝首をかかれてもおかしくない状態だったが、カイネギスの言葉により表向きではあれ客人として扱われているようだった。

 はそっと花を手にとる。
 名も知らない花は、つい先刻摘んだばかりなのか、根がついているようにピンとしている。
 なにを思って花を置いているのだろうか。毎日一輪ずつ、花瓶に花が増えていく。数日前の花は、すこしばかり萎れていた。
 ふと、花を持つ手を見ると、傷やタコだらけで女性らしさの欠片もない。我ながら花が似合わない、とは自嘲して、花瓶に花を挿した。


 花瓶をちらりと見やったライが、なにか言うことはなかった。ただ、かすかに苦々しげに眉を寄せた。
 「調子はどうだ?」と、すこしも心配そうではない口ぶりで、朝食を運んでくると同時に開口一番のお決まりの台詞を言う。カイネギスの命とはいえ、憎悪を覚えるニンゲンの世話は不快極まりないだろう。それでも表面上は、ひどく甲斐甲斐しい世話人なのだから、可笑しいものである。

「おかげさまで」

 は短く答える。もとより、の言葉など知らぬといったように、ライが探るように視線を向ける。
 ライの手が伸び、は反射的に逃げるように身を捩った。一瞬だけ、躊躇うように止まった手が、おもむろにの頬に触れた。
 手のひらの冷たさが心地よく、思わず目を閉じる。しかし、手はすぐに離れた。

「まだ、熱が高いな」
「……この程度、大したことはない」
「…………」

 ライが苦虫を噛み潰したような顔をする。苛立たしげに尻尾が揺らいだ。
 は小さく肩を竦める。「わたしの体調はわたしが一番よくわかっている。違うか?」慣れない左手で掬い上げたスープは、独特の風味がした。ラグズとベオクとでは、食文化というものがすこし違っているのかもしれない。

「おまえのはただの強がりだ」

 背を向けたまま、振り向くこともなくライが言った。ぽたぽたとスープがスプーンからこぼれ落ちる。
 知ったような口を聞く。
 は胸がざわつくのを感じた。腹立たしくも切なく、ひどくやるせない。そして、どこかでうれしいと思っている。ライが少なくとも関心を寄せてくれている──は過ぎった考えを揉み消すように、目を閉じる。

 瞼が重い。は唇を噛みしめる。
 腕の痛み、発熱による倦怠感、加えて気を張っているせいで、体力の回復が遅い。おかげで、傷の治りも遅延している。
 身体が休息を求めているのは百も承知。の体調は、誰よりも自身がわかっていることだ。しかし、ラグズの殺気がいまだ抑えきれずに放たれている中で、寝てばかりはいられない。

 不意に、身体が揺れた。

「っ!」

 盆が床へ落ちて、スープがぶちまけられる。スプーンがカラン、と乾いた音を立てた。
 ライに馬乗りに圧し掛かられ、押さえつけられた腕が鋭く痛む。「な、にを」近くで交わった視線に動揺する。

「大したことない? ロクに抵抗もできやしないのに?」
「っく……」
「よく言うよ」

 嘲るように言うくせに、悲痛そうに顔を歪めている。

「言っただろ、簡単に死なれちゃ困る。大人しく休め。ここには誰も近づけない」

 猫らしく素早く飛び退き、ライが矢継ぎ早に告げる。は押し倒された体勢のまま、視線だけでライを追う。気まずそうにひっくり返ったスープを片付けているあたり、律儀だ。

「……スープを持ってくる」
「いや、いい。大人しく寝ることにするよ」

 ライが驚いたように、わずかに瞠目した。は口角を上げる。

「誰も来ないんだろう? だったら、遠慮なく眠らせてもらおう」


 ライが気遣うほど弱って見えるのだろうか。
 は小さくため息を吐く。これでは借りを返すどころか、貸しを増やしてしまうばかりだ。
 いくら強がっていても身体は正直で、目を閉じればすぐに眠気がやってくる。はふっと体の力を抜く。ライを前にすると、肩に力が入ってならない。

 ライが触れた腕をそっと指先で撫でる。心臓がうるさかった。




 ──むせ返るような血のにおいがする。

 血だまりの中に獣が倒れる。
 気がつけば、無数の獣が積み重なるようにして倒れていた。たたらを踏むと血が跳ね、獣の亡骸を踏みしめた。

 幾度とない咆哮にすでに身が竦むこともない。鋭い爪や牙に怯むこともない。そして、斬り殺すことに躊躇いすら覚えない。


 血を浴びた己の姿はまるで悪魔のように、


──……っ」

 ははっと息を呑み、飛び起きる。身体の動きに合わせて右腕と脇腹が痛んだ。つ、と額を汗が伝うのを不快に思い、手の甲で拭う。
 暗がりの中で巨体が動いた。は素早く、左手にナイフを握る。

「だれだ」

 身じろぐ気配がする。

「……すまナい。起こシてしマっタか?」

 殺気はない。静かな気配を持って近づいてくる。
 暗闇に目が慣れると、獣牙族の虎であることがわかった。その大きな手には、一輪の花が握られている。は花瓶を一瞥した。

「あなたが、花を?」
「モゥディ、見舞イたイと思った。ダから、花持っテきた」
「見舞い?」
「ソうだ」

 ラグズはモゥディと言うらしい。
 大きな図体には不釣り合いな一輪の花が、そっと差し出される。はナイフをしまい、花を受け取った。毎日、色の違う花を持ってきてくれるのだから、ありがたいことだ。おかげで、花瓶の花は色とりどりで鮮やかだ。
 花を持つ手が震えていることに気づいて、は自嘲する。

「傷、痛むノか?」

 心配そうに顔を覗き込まれる。「顔色が悪イ。ライを呼ぶカ?」問われて、は首を横に振る。

 顔色が悪い理由なんてわかりきっている。
 いやな夢だ。
 まるで忘れるなと言わんばかりに、こうして夢に思い出される。忘れてなどいないし、忘れてはいけないこともわかっているのに、夢はを責めるようだった。大きな手が労わるように肩を撫でる。戸惑いと狼狽と、やさしさを滲ませた瞳にさえ、見つめられると責め立てられるような感覚を覚える。は目を合わせられず、俯く。

「やっパり、ライを」
「なぜわたしの心配などする?」

 モゥディの動きが止まる。ぎこちない動作で振り向いたその顔には、意味が分からないというような表情が浮かんでいる。

「知らないわけではあるまい。わたしは、あなたの同胞を」

 は小さく息を吸い込む。声が震えないように気をつけなければならなかった。

「多くの同胞を、斬り捨てた」

 モゥディの瞳が悲しげに揺れた。

 どれだけのラグズを殺したのかわからない。
 そうするしかなかったと言えばそれまでだが、すべての原因はベオクにある。おぞましい実験によって、ラグズは理性を失い獣と化した。でさえもぞっとするような光景を、同胞たるラグズが見たのであれば、目に焼き付いて離れないだろう。憎悪が決して薄れないのと同じように。

 けれど、とは思う。
 レテに向けた剣先──あの瞬間、は確かに眼前のラグズを殺そうとしていた。そのことに気づいてひどく恐ろしくなった。
 もしかしたら、あれは愚かなベオクが起こした惨劇などではなく、自身のただの業なのかもしれない。


 すこしの沈黙の後、モゥディがゆっくりと口を開いた。

「仕方がナかった、と王モ言ってイた。本当は皆もわかっテる。デも、許せナいだけ」

 とりわけ仲間意識の強い獣牙族が、同胞殺しを許せるわけがない。なにより、同胞の姿を歪めるなどといった行為は、仕方がないで済ませるような簡単な感情では片付けられないだろう。

「モゥディは、ソんなの悲しイと思う」
「え?」
悪くナいのわかル。悪イのは、一緒にイた奴ら」

 半年前、はガリアへ赴く学者の護衛を請け負った。
 なにを目的にしていたのかなんて知る由もなかった。気づいた時には、なりそこないと化したラグズに取り囲まれていた。生き延びたベオクは逃走してしまい、責任を問われることをしない。罪を背負うこともない。
 それでも、は卑怯だとは思っていない。どうせだって同じだ、卑怯であるのに変わりはない。

 死にたい、とどこかで思っている。死は逃げ道でしかないのに。

「……あなたはなにもわかっていない! わたしは、あなたが思っているような」

 ふと気配が増えて、振り返ったモゥディの背に、吐き捨てるようには言う。

「あなたが思っているようなニンゲンじゃない」

 傷ついたような顔をするモゥディがずるいと思った。肩を落としてとぼとぼと歩くモゥディの肩を、励ますように叩いたのはライだ。モゥディの気配が遠ざかるのを、は目を閉じながら感じる。
 ライが静かに薬湯を差し出した。は顔を上げる。

「だったら、どんなニンゲンなんだ?」

いつかすべて枯れゆく

(優しさはいらない)