は静かにレテを見据えた。
まだ顔をのぞかせたばかりの太陽の光を受け、橙色が爛々と輝いている。ラグズは、美しく気高い──卑劣なベオクとは違う。
レテの射殺さんとした視線にも、放たれる尋常ではない殺気にも、は臆することなく無表情で佇む。群がるラグズの中に空色を見つけて、はそっと目を伏せた。
ふ、と短く息を吐きだし、意識を集中させる。
死が逃げ道だなんてわかりきったことだ。はかすかに、自嘲して口元を歪める。
──逃げ道を選ぼうとする自分に抗わなければならない。は視線を上げる。指先がわずかな震えを持って、柄に触れた。
ぴん、と空気が張り詰める。それに呑まれたように、場がしんと静まり返った。
「はじめッ!」
高らかに響いた声と同時に、レテが獣へと姿を変えた。
は昨日と同様、レテの鋭い爪を剣で受け止めた。そうしてそのまま弾き飛ばす。しかし、受け身をとって地に足を付けたその瞬間に、レテが地面を蹴りあげて飛びかかってくる。すこしも体勢を崩していないどころか、飛ばされた勢いを乗せているようだった。
さすがはラグズ。身体能力がベオクとは桁違いだ。
悠長に感心を覚えながら、振るわれた爪をかわす。ひゅっ、と風を切るような音が耳につく。
攻撃を受け止めるのは得策ではない。負傷した利き腕では、そう何度もできそうにはなかった。たった一撃を受け止めただけだというのに、腕がびりびりと痺れている。速いだけではなく、力も強い。
反射的に身をよじったが、鋭い爪は脇腹を浅く抉った。は大きく舌を打ち、強く地面を蹴って飛び退いた。
すこしの距離ができ、様子を伺うように睨み合う。「殺しちまえ!」と誰かが叫び、動いたのはレテの方だった。距離は瞬く間に詰められ、牙を剥く獣が眼前に迫る。
──知っている。
牙が、爪が、今にも喉元を掻き切らんと迫るその感覚。四方を囲む獣が飛びかかってくるその瞬間。どうしたら、身を守れるのかを、わたしは知っている。
身体が自然と構えをとった。
弧を描くようにして剣を引き、地面と水平に合わせて、その剣先を獣へと向ける。殺し方を、知っている。
「!」
声を張り上げたのは誰か、判断すらつかなかった。ははっとして、自分がなにをしようとしていたか、気がついた。
眼前の獣を、
ぞくりと背を恐怖が駆けのぼる。あれは、愚かなベオクが起こした惨劇などではなく、ただのわたしの業なのかもしれない。目の前が赤く染まったような気がした。
は咄嗟に剣を投げ捨てる。
むなしく響いた乾いた音を聞きながら、崩れた体勢を整えることもできず、はただ迫る牙を見つめた。終われる、とひどく冷静に思ったのに、身体が足掻くように動いた。
真摯なオッドアイが脳裏にこびりついて離れない。
「──っ!!」
声にならない悲鳴が上がる。
牙を受け止めた利き腕が、鮮血を飛ばす。力を失った腕が重力に従って、だらりと下がる。使いものにならない、と瞬時に判断して、左手で剣を拾う。もう一撃がすぐに迫っていた。
「レテ!」
それはまるで咆哮のように響き、辺りに静寂をもたらした。水を打ったような静けさの中、の荒い呼吸がやけに耳に付く。
レテが、ライが、獣牙族全員が、膝を付いて頭を垂れている。は視線だけを向けた。
「ガリア、王、」
その存在感は圧倒的で気圧される。
「お前たち、客人に対してこのような扱いは許されんぞ」
「しかしっ……」
「ライ、手当てを」
レテの言葉を一蹴し、カイネギスが続ける。はい、と従順に答えたライの心情はわからない。
言葉なく辺りの気配がざわめく。の死を望む者は多い。もちろん、客人などとは微塵も思っていない者が大半である。
「……馬鹿な真似をするな」
はカイネギスを直視できずに俯いた。
「ライ、を頼んだぞ」
「はっ」
ライの手に抱きかかえられるが、抗うことさえもできなかった。はライを見やったが、視線が交わることはなかった。
痛みにきつく唇を噛みしめる。思わず、腕を引っ込ませようと動いて、しかし押さえつけられてびくともしない。
昨日巻きつけられた包帯は赤く染まり、見るも無残に喰いちぎられている。腕ごと持っていかれなかったことが不思議なくらいだ。はぎゅうと目を瞑る。
ライが苛立たしげに舌打ちした。「くそ、血が止まらない」傷口を圧迫され、堪えきれずに声が漏れた。失血のせいか意識が彷彿とする。肩口できつく腕を縛られる。
つん、と血のにおいが鼻をつく。でさえも不快に思うのだから、嗅覚にも優れたライにとっても、不快極まりないだろう。
「すまない」
「謝るくらいなら、」
「ああ、本当に。その通りだな」
「……」
ライの手が止まる。は瞼を押し上げて、ライを見た。
オッドアイにじっと見つめられると居心地が悪い。
「簡単に死なせてなんか、やらないさ」
憎まれ口を叩くように言うので、は思わず笑ってしまった。
「様がないな。すこしの間でもガリアにいることを、認めさせようと思ったのだがな」
死闘でもなんでも受ける、という意思表示のようなものだった。
真面目に向き合うことで誠意を示したかった。借りを返すためには、ガリアに滞在する必要がある。
りん、と小さく鈴の音が鳴った。焼きつくような視線と、抑えきれない殺気が向けられる。戸口に立つレテから庇うように、ライがに背を向ける。
「王の客人だ、何もしない」
ライを一瞥して、レテが踵を返す。去り際に、呟くように言った言葉は、まるで呪詛のようだった。
「だが忘れるな。我らが、お前を許すことはない」
は、という静かな問いかけに、「眠っています」とライは膝を付いて答えた。
レテが去ってすぐに意識を失ったが、ベッドに死んだように眠っている。ひどく静かな呼吸だ。腕の傷はひどいものだったが、出血もようやく治まってきて、状態は安定している。
カイネギスがに近づき、その寝顔を見下ろす。大きな手がの頬に触れる。
「顔色が悪いな」
「出血が酷かったので……」
「そうか。手間をかけたな」
「いえ」
もともと色白のであるが、今は青白くさえ見える。
「まったく、無茶をする」
カイネギスの物言いは、聞き分けのない子どもを叱るようである。ライはちらりとその横顔を盗み見る。同胞を見るのと同じように、やさしく厳しい眼差しが、に向けられている。
ライは目を伏せる。
あのとき、名を呼ばなければ、彼女の剣はレテを斬り殺していたことだろう。
「ライ、お前にの世話を任せる」
ライは素早く是と答える。
カイネギスが去ったのを見送り、ライはを見下ろした。カイネギスがしたように、頬に触れようと手を伸ばす。
「……!」
不意に、が飛び起きる。ライは反射的に手を引っ込めた。
「痛ぅ……っ!」
が腕を押さえてうずくまる。痛みを堪えるようにしばらく押し黙り、視線だけが辺りを探るように動いた。
ゆっくりと息を吐いて、が顔を上げた。額には汗が滲んでいる。
ライは薬湯を手渡した。癒しの杖などないラグズは、薬草によって傷を治すほかない。もとより、ベオクよりも治癒能力は高いため、大半は休息をとることで十分な効果が得られる。だが、は違う。ただのベオクである。
「っ、苦いな……」
薬湯を呑んで、が顔を歪める。良薬は口に苦し、とはよく言ったものだ。
ふと、視線を落としたが、眉を顰めた。包帯の巻かれていない左手が、脇腹に触れる。
「見たのか」
「仕方がないだろ。不可抗力だ」
が唇を噛みしめる。ライは、脇腹に巻かれた包帯を見やる。
脇腹の傷は深いものではなかったため、出血もすぐに止まった。包帯を巻くため、すこしだが服を捲らせてもらった。女性らしい滑らかな肌には、剣士という職業柄細かな傷痕が見られていた。傷があることは不思議なことではないし、ライ自身見慣れている。
──ただ、一際大きな爪痕は、異様だ。腰まで続く爪痕は、いったいどこから始まっているのだろうか。
「……ひとりにしてくれないか」
おもむろに持ち上がった左腕が、目元を覆う。
ライはしばらくの顔を見つめ、「わかった」と答えて去ることにした。ライ、と呼びとめる声に、足を止める。
「すまない」
ライはなにも言わなかった。謝られたって困るだけだ。許す、なんて言えやしない。