つう、と額を流れる汗をぬぐい、空を仰ぐ。
 鬱蒼と茂る森が日差しを遮ってくれていることが、せめてもの救いである。いい加減、蒸し暑さにうんざりする。は小さくため息をついて、しかし歩みを止めることなく樹海を進む。

 ふと、足取りが重くなっていることに気づいて、は眉を顰めた。
 の記憶によれば、もうそろそろ樹海を抜けるはずだ。半年前の記憶を呼び起こせば、自然と思い出したくないことまでもが思い出されてゆく。
 この先にあるガリアでの思い出は、あまり良いものではない。

 ──あかい。
 ちり、と脳裏を掠めた映像に、古傷が痛んだ気がした。不意に視界が開け、ははっとして顔を上げた。
 樹海を抜けたのだ。思わず、躊躇いに足が止まる。記憶に色づく空色は、未だにを責め立ててやまない。決して許すことのないだろう強い憤り。


 見つめる憎悪の視線。絡みつく殺気。思い出すだけでも足が竦む。恐怖ではなく、もっと別の違う感情によって。


「立ち去れ、ニンゲン!」

 鋭い声が飛ぶ。それと同時に、数人の殺気がを取り囲んだ。
 はゆったりとした動きで、辺りを見回した。

「お前は──

 ぞくり。
 辺りを包む殺気が膨れ上がり、息苦しささえ感じる。は懐かしいような妙な心地を覚える。半年前もこうだった。
 は両手を上げて見せ、ゆっくりと口を開く。

「あなたたちに危害を加えるつもりはない」
「ならば何故来た」

 間髪入れずに言葉が返る。耳を打ったその声音に、知らず表情がこわばる。
 は短く息を呑み、視界に移った空色を食い入るように見つめた。震えた唇がかすれた声を紡いだ。

「ライ」

 まるで、刃物のように鋭い眼差しがを射抜く。一瞬も躊躇わずにを殺すことができるだろう。ともすれば、次の瞬間にも鋭い牙が、もしくは爪が襲いかかるのではないか──そんな緊張感の中、視線が合わさったまま沈黙が続く。

 記憶の空色も、眼前の空色も、どちらも変わらず自分を憎んでいることが何故だか可笑しく思える。
 同時にひどく哀しく、しかし安堵している自分がいる。ほんとうに何ひとつ変わってやしない。
 はきゅっと唇を噛みしめた。そして、強張りを解くように、口元を笑みの形へと変えていく。それは、ぎこちない笑みだった。

「半年前の、借りを返しに来た」

 さわり、と風が木の葉を揺らし、頬を撫ぜた。



 不審に満ちた視線がまとわりつく。ラグズの中にベオクがひとり、というのは滑稽なほどに浮いている。
 は目の前を歩くラグズの、ピンと張りつめた空色の尻尾をじっと見つめた。

 警戒されている。
 仕方のないことだ。は小さくため息をついて、視線を外す。姿こそ見えないが、相当な数のラグズがこちらを伺っているようだ。すこしも隠されることのない殺気は、今にもを殺さんとしているようにも感じる。

「相も変わらず、といったところか」
「……」
「半年ぶりだというのに、つれない奴らだ」

 冗談めいて小さく笑えば、「無駄口を叩くな」とライが振り向くことなく言い放った。

「……ライ、」

 はライの腕を捉えようと手を伸ばす。しかし、その手がとらえたのは慣れ親しんだ剣の柄だった。素早く剣を抜き、唐突に襲いかかってきた爪を刃で受け流す。不意打ちに衝撃を耐えきれず、は思わず膝を付く。手が痺れて剣が落ちる。
 リン、と涼やかに鈴が鳴った。
 橙色の獣が軽やかに距離を取り、再び地を蹴って襲い来る。体勢を整えるのが間に合わない。

「っ……!」

 爪が深く利き腕を切り裂く。ぱっと鮮血が舞った。

「レテ!」

 ライの声が鋭く飛ぶ。
 確実に喉元めがけて喰らいつこうと飛びかかる獣が眼前に迫り、は反射的に血の滴る腕で剣を取り、その牙を受け止めた。決して軽くはない衝撃に歯を食いしばる。

「レテ、やりすぎだ」

 獣の姿が若い女へと変わる。そうして、噛みつくような勢いで叫ぶように言う。

「なぜ止める! 邪魔をするな! そのニンゲンはっ!!」
「……落ち着け、レテ」

 は血の流れる自身の腕を見つめた。
 ぽたぽたと滴り落ちる鮮血が、地面を赤く染め上げていく。


 ──血だまり、


「……っ」

 息がつまる。
 手から滑り落ちた剣が地面にぶつかり、カランッと乾いた音を立てた。力が抜けて膝を付く。腕の傷なんかよりもずっと、胸が軋んで痛い。

「結構深いな。とりあえず、止血を……」
「!」

 腕を持ち上げたライの手を払いのける。
 はライを見上げた。空色を映し出した瞳がゆらめく──恐怖に、あるいは哀愁に。

 驚いた顔をしたライから視線を逸らし、は無言で立ち上がる。それからゆっくりと、レテと呼ばれたラグズへと視線を移した。
 なおも殺気立ち睨み付けているが、は臆することなくレテを見つめ、口元を歪めた。

「不意打ちとは感心しないな。誇り高きラグズの戦士」
「バカ、煽るな!」
「ライ、あなたは黙っていろ」

 ぴしゃりと跳ね除ける。ライが口を噤んだことを確認してから、は改めて彼女へと向き直った。

「わたしは。あなたの名は?」
「……レテ」
「ではレテ、わたしを殺せる正式な場をつくろう。皆の前でわたしを殺せるのならば、満足だろう」
「……いいだろう、お前の喉を噛み切ってやる」

 瞳をぎらつかせたレテを見て、は頷く。

「おまえ、本気で言ってるのか」
「なんだ、ライ。あなたも私を殺したいというのか? だがしかし、わたしの命は一つしか……」
「そう言うことじゃないだろ!」

 ライが苛立たしげに声を張り上げた。怒りに尻尾の毛が逆立っている。は言うに困り、ただ苦笑した。

「明日、早朝に。場所はそちらに任せる」

 は言って、剣を拾い上げる。
 フンと鼻と、そして鈴を鳴らして踵を返したレテを見やり、そうしてライを目線で促した。

「おまえはバカだ」

 ライがそれだけ言って歩き出す。どこか憮然とした様子に、は首を傾げながらもついていく。
 ふと、腕の出血がいまだに止まっていないことに気づいて、は自身の服を切り裂いて傷口に巻きつけた。じわり、と血が滲んで布を赤く染める。ライの視線が腕へと向いた。

「……手当ぐらいはしてやる。こっちだ」

 そう言って再び歩き出したライの背を、は複雑な表情で見つめた。
 ライの方がよっぽど馬鹿だ。
 嫌いならば、憎むならば、情をかける必要などない。放っておけばいいのに──レテを止めたことも、傷を気にかけることも、には不思議でたまらない。ライはやさしすぎる。




 ぎゅっ、と傷口を抑えたガーゼに血が滲む。
 は血を見ていられずに目を閉じた。ぴちゃり、と遠いどこかで血の滴る音がする。思い出したくないのに、忘れられない。

 忘れることなど赦されないこともわかっている。
 それでも、すべてを投げ出せたらいいのに、と思わずにはいられない。
 緋色の記憶に苛まれることも、赦されることのない罪を背負うことも、そして──空色の獣に恋い焦がれることも。全て、なくなってしまえばいい。


 ぴりり、と小さな痛みが走る。
 視線を腕へと戻せば、傷薬が塗りつけられていた。止血されたことによって見えた傷は、どうやら想像以上に深いようだった。白い包帯が傷を覆い隠していく。
 器用だ。はぼんやりとライの手つきを見て、思う。

「すまない」
「そう思うなら、余計な真似をするな」

 の性質では是とは言えない。答えないに対し、ライがため息をついた。「変わってないのは、おまえの方だ」言われてみればその通りかもしれなかった。

「ライ、わたしが憎いか」
「……ああ、憎いさ」

 包帯や傷薬を元あった場所に戻しながら、振り向きもせずにライが答えた。

「だろうな」

 ふっ、とは小さく笑みをこぼした。ライがおもむろに振り向く。
 ぞくり、と全身が粟立つ。殺気に当てられて身体が震えた。オッドアイの奥に炎がゆらめいている。静かな、それでいて深い憎悪。

 そうあるべきだ。
 情けもなにもいらない。あるのは憎悪だけでいい。そう思うのに、手を伸ばしてしまいそうになる。「わたしも嫌われたものだ」は苦く笑って、包帯をそうっと撫ぜる。
 ライの視線が外れると同時に殺気が消える。しかし、空気は張りつめたままで、沈黙が痛い。
 ぴん、と空色の尻尾は緊張したままで、揺れることもなかった。

どうかピリオドを打って

(あなたの手で死ねるなら、本望なのに)