雨が降っていた。
 コナン塔を思い出させるような悪天候に、の気持ちが重く沈んでいく。ゴーティエ家督騒動のあった節よりもずいぶんと寒く、冷たい雨は数日も経てば雪へと変わりそうだった。
 ただし、の指先が冷たいのは、寒さのせいだけではなかった。

 隣に座るリンハルトが、俯くの顔を覗き込む。「寒い?」と、尋ねるリンハルトの鼻の頭が赤い。

「寒いでしょ。雨降ってるし」
「ついてねぇよなあ」

 が首を横に振るより早く、ハピが口を開いた。ユーリスが肩を竦めて、窓にかかる垂れ幕を指で掬った。

「こりゃしばらく止みそうにもないぜ」

 分厚い雲に覆われて、窓の外は暗い。
 リンハルトの視線がいまだ己を捉えていることに気づいて、は顔をあげる。ぎゅう、と冷たい指先を握りしめて、は懸命に口角を上げた。

「わたしは大丈夫です。王国で、生まれ育ちましたから……」

 ふいに、リンハルトの手がの指に触れる。
 驚いたは思わずその手を払いそうになるが、男らしい力強さで握られて、身動きが取れなくなる。

「冷たい」

 ぽつりと落ちたリンハルトの呟きに、フェリクスが苛立たし気に舌を打った。



 久しぶりに見た屋敷は己の生家だというのに、懐かしいと感じることもなかった。「お帰りをお待ちしておりました、お嬢様」と、言葉だけはもっともらしく、しかし到底歓迎しているようには見えない顔で使用人が玄関の扉を開ける。
 その先では、使用人たちが左右にずらりと並び、首を垂れていた。
 直々の先触れを出したディミトリが、あまりに仰々しい出迎えに苦笑を漏らす。

「楽にしてくれないか。俺はあくまで、の学友として訪ねている」
「ディミトリ殿下、いやはやご足労感謝いたします」

 揉み手をしながら近づいてきた伯爵が、笑みを浮かべたままを見やる。びくり、と無意識に肩が跳ねた。

、早く殿下方を客間にご案内しなさい」
「あ……は、はい」
「気の利かない娘でお恥ずかしい限りです」

 こんなふうにしなくてもいい謙遜で、その実を責め立て貶めるのは、いつものことだった。それに比べて──と、引き合いに出される姉の姿はここにはない。
 はそのことに内心安堵していた。ここにきてなお、覚悟ができていないのだ。

「そんなことはない」

 ふいに、平坦な声が入り込んで、は顔をあげた。

「彼女は、よく気の利く生徒だ」

 ベレトが真面目腐った顔で告げる。まっすぐとしたその視線に射抜かれ、伯爵がたじろぐ。張りついた笑みがわずかに引きつっていた。

「そ、そうですか。ああ、あなたが担任の──

 その言外には”傭兵上がりの”という、侮蔑にも似た感情が含まれている。伯爵がベレトを値踏みするように見やるのがわかって、は眉をひそめた。
 なんて貴族らしい。
 しかし、ベレトがそれを気にする様子は微塵もない。眉ひとつ動かさないまま、頷く。

「ベレトだ」
「いつも娘がお世話になっています。さあ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」

 
 暖炉に火が灯った客間は暖かく、ハピがほっとした様子で首巻きを外していく。その傍らで、リンハルトが大口を開けて欠伸をしているのを「呑気だなあ」と、ユーリスが小突いた。

「ご無沙汰してます、伯爵。うちの醜聞はもう耳にしているでしょうが、エリアーヌ嬢はお変わりありませんか?」

 伯爵の前に進み出たシルヴァンが、右手を胸に当てて恭しく頭を下げた。
 シルヴァンの顔にも、声にも、いつもの軽薄さはない。ゴーティエの嫡男たる責任を十二分に理解しているのだ、とわかる。

 はその横顔を見上げてから、父親へと視線を移した。伯爵が憂げに目を伏せるが、その内心は実娘であるにだって正確に推し測ることはできない。

「……マイクランくんのことは、残念だったね。君も大変だっただろう」
「お心遣い、痛み入ります」
「もちろんエリアーヌは胸を痛め、ひどく動揺していたがね、いまはだいぶ落ち着いているよ」
「それを聞いて安心しました」

 伯爵が励ますように、ぽんとシルヴァンの肩を叩く。

「それにしても……久しぶりだね、フェリクスくん。君がこうして我が家を訪ねてくれるのは、いつぶりだろう」
「……覚えもないほど、昔のことかと」

 懐かしげに目を細める伯爵に対し、フェリクスの態度は素っ気ない。
 隣接した領地であり、年の近い子どももいる。だというのに、交流が途切れてしまったのは、よほどたちとフェリクスたちの相性がよくなかったのだろう。フェリクスには、ではない仲のよい幼なじみがいる。
 
 沈黙が落ちる。取りつく島もないとばかりに、フェリクスが顔を背けてしまう。ディミトリが咎める視線を送っているし、シルヴァンも呆れた顔をしているが、どこ吹く風だ。
 フェリクスがの家族を快く思っていないことは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。

 何か言って、とりなすべきだろうか。困惑するを、ユーリスが興味深げに眺めている。リンハルトがもう一度、小さく欠伸をした。


 
 ふいに、伯爵がを振りかぶった。反射的に身体が強張る。

「いつまでそこで呆けているつもりだ? お前には皆さまをもてなそうという気持ちがないのか?」
「あ、い、いえ、申し訳あり──
伯爵」

 やや険のある声が、の謝罪を遮った。眉をひそめたディミトリが、の肩を引き寄せる。ぐ、と肩を掴むその手が温かい。

は俺たちと同じように、もてなされる側だと思うが、違うだろうか」

 ディミトリの怪訝そうな視線を受けて、伯爵が笑みをわずかに崩した。

「そ、そうでしたな。つい、いつもの癖で」
「…………」
「いやしかし、実は妻が体調を崩しておりまして、の手を借りたいのです」

 初耳である。は信じられない気持ちで、伯爵を見つめた。毎節送っている手紙の返事がほしいとは言わないが、何かあったのなら一言あってもいいはずだ。
 道理で母の姿が、屋敷に来てから一度も見えないわけだ。

 の動揺は、肩を抱くディミトリにも伝わってしまっている。
 
「伯爵夫人が? それは心配だな、大丈夫なのか?」
「ええ、ええ。ここだけの話、”かの聖女”に力添えいただいているので、何も心配はいらないのです」
「かの聖女?」

 口を開いたのはベレトだ。「ああ、麗しき”聖女”コルネリア様ですね?」と、シルヴァンがぽんと手を叩く。
 ファーガス神聖王国において、コルネリアを知らぬ者はいない。

「二十年程前、王国で流行った疫病を食い止めたのが、コルネリア様です。王都じゃ王妃様が死んじまったり何だり、国中大騒ぎだったと聞いてます。そりゃ聖女と呼ばれるわけです。すっげぇ美人ですしね」

 シルヴァンが最後にぱちりと片目をつぶってみせる。ベレトがゆっくりと瞬いて、頷きをひとつ返した。

 励ますように、ディミトリの手が肩を叩くのに気づいて、は慌てて頭を下げた。小さな声で「気を遣わせてしまい、すみません」と言えば、気にするなとディミトリが笑みを返してくれる。
 に向けられた眼差しは穏やかだったが、伯爵を見る瞳はどこか鋭い。

「コルネリアねえ……その功績が認められて、王家つきの魔導士になったはずだろ? 王都とここじゃ、ちょっと遠すぎる気がするけどなあ」

 藤色の瞳が、探るように伯爵を捉える。挑発的な笑みは美しく、凄みがあった。
 気分を害したのか、伯爵が片眉を跳ね上げる。

 
「失礼いたします」

 
 決して、大きな声ではなかった。鈴が転がるような愛らしさをもって、しかし、凛と澄んだ声は耳に心地がよい。
 客間の入り口に、配膳台を押す使用人を連れたエリアーヌの姿があった。
 どくん、と心臓が跳ねる。は俯いて、つま先を見つめた。姉の顔を見ることができなかったのだ。コツ、コツと近づく足音に、はますます顔を俯かせた。フェリクスの視線が突き刺さる。
 
「長女のエリアーヌです。妻に代わり、皆さまをおもてなしさせていただきます」
「エリアーヌ=サラ=と申します。いつも、妹がお世話になっております」

 エリアーヌが慣れた様子で、膝折礼をしてみせる。挨拶ひとつとっても優雅で洗礼されており、華がある。
 社交界の薔薇。とは違う。
 
「エリアーヌ、この場は任せたぞ。では、私は失礼します。殿下」

 伯爵が退出するが、その際に「学友だからと失礼のないように」とに釘を刺すのも忘れない。
 肩に触れるディミトリの手に、わずかばかりに力がこもる。不快に思われたのかもしれなかったが、俯くばかりのにはディミトリの顔を確認することすらできなかった。
 
「至らぬ点も多いかと思いますが、尽くしますわ」

 ほっそりとした白い指が、微笑む唇に添えられる。エリアーヌがユーリスへ、身体ごと向けた。
 
「お言葉ですが、コルネリア様は聖女と讃えられるお方です。慈悲深くあって当然ですわ」
「慈悲深く、か……」

 傍らのディミトリが、顎先に指を添えて思案するように呟く。わずかに顔をあげれば、エリアーヌがこちらを見ていた。びくっ、と肩が跳ねる。

「お母様のことは心配しなくても大丈夫よ。お手紙を送っていたのだけれど、入れ違いになってしまったのね」

 エリアーヌがやさしげに双眸を細める。その声音は柔らかく、どこまでも姉らしい。
 
「皆さまお座りになって、どうぞおくつろぎください」

 肩に置かれたままのディミトリの手に目を留めたエリアーヌが、自然な仕草での腕を引き寄せた。ぐ、と腕に指先が食い込む。
 ディミトリらに笑いかけるエリアーヌのその視線は、を一瞥すらしなかった。

 温もったはずの指先が、熱を失っていく。
 ──貴様らに俺”たち”の惨めさはわからんだろうよ!
 雨音をかき消したマイクランの怒号が思い起こされる。そうだ、にはわからない。紋章しか持ちえないに、姉が嫉妬や劣等感を抱いているだなんて、想像したことすらなかった。
 少なくともは、自分が恵まれていると思ったことなど、これまで一度たりともない。

「……チッ」

 フェリクスが唸るように、小さく舌打ちをした。
 いい加減、認めなくてはならない。マイクランの言葉は事実だった──は、エリアーヌに疎まれている。
 
 心配そうにこちらを窺っていたシルヴァンが、慌てた様子でエリアーヌへ手を差し出す。

「ご無沙汰しています、エリアーヌ嬢。いやあ、相変わらずお美しい!」

 ぱっとの腕を解放して、エリアーヌがシルヴァンの手を取った。「まあ、お上手ですわね。シルヴァン」と、微笑むエリアーヌは、立ち尽くすなど露ほどにも気に留めることはない。
 
 身体の芯まで冷え切って、目の前が暗くなる。自分が立っているのか座っているのか、足元の感覚がおぼつかない。
 先ほどの馬車のときと同じく、冷たい指先を握る手があった。

「冷たいな。ほら、暖炉で温まりなよ」

 リンハルトがの手を引いて、暖炉近くの長椅子へと座らせてくれる。「やっぱり、興味が湧かないな」と、当然のようにの隣に腰を下ろしたリンハルトが、何でもないふうに呟いた。
 辟易していたリンハルトの強引さが、いまはありがたかった。
 



 
「まさかがご学友を連れて帰ってくるなんて、夢にも思いませんでしたわ」

 ぱちっ、と暖炉の火が小さく爆ぜる音に、エリアーヌの静かな笑い声が紛れる。
 エリアーヌの声音に、馬鹿にする響きは一切なかった。恐る恐るは、エリアーヌへ視線を向ける。以前と変わらぬ微笑みが、そこにはある。
 
「さぞかし迷惑だっただろうな」

 フン、と小さく鼻を鳴らすフェリクスを見やって、エリアーヌが困ったふうに小首を傾げた。

「まさか、驚いただけですのよ。士官学校でうまくやれているようで、安心いたしました」
「あっはっは! うまくやれてる? 冗談だろ?」

 ユーリスが大口を開けて笑う。エリアーヌがわずかに柳眉をひそめるのを、は見逃さなかった。

「この数節は、ほんとうに怒涛だったよ。なあ、先生?」
「……確かに、そうかもしれない」
「気づいたか? の手が肉刺だらけだって。知ってるか? 俺たちが昨日、何をしてきたのか」

 す、とエリアーヌの視線が動く。それが自分を捉えて口を開くより早く、は立ち上がった。ユーリスがつまらなそうに、ため息を吐く。

「すみません、あの、わたし、少し母の様子を見てきます」
「ああ、そうするといい。が戻ったら、俺たちも出発しよう。長居をするわけにもいかないからな」

 何かを言いかけたエリアーヌの言葉を遮って、ディミトリがを後押ししてくれる。
 気遣わしげな視線をいくつも感じて、は「すぐに戻ります」と深く首を垂れて、顔を隠した。皆のやさしさに、泣いてしまいそうだった。


 「」と、たったその一言が、の足を床に縫いつけてしまった。
 客間を出てすぐ、エリアーヌがあとを追いかけてきたようだった。はひどくぎこちない動きで、振り向いた。

 見慣れた微笑みをたたえて、エリアーヌが近づいてくる。
 
「お母様にはお会いしないで」
「え? で、でも」
「あなたの顔を見たら、よけいな心労をかけてしまうかもしれないわ」

 ふう、とエリアーヌが小さく息を吐いた。微笑みが消えて、視線がふいと逸らされる。
 は何も言えずに、立ち尽くす。
 
「あなたの耳は飾りだったのかしら」

 エリアーヌの手が肩に触れて、声が耳元で聞こえる。くす、と耳朶に触れたその笑い声は、嘲りを含んでいた。

丁寧に、手折るまで