ハンネマンの部屋を出ると、そこには壁に背を預けてリンハルトが立っていた。手にしていた書物に向けられていた視線が、へと向く。ぱたん、と本が閉じる音を聞きながら、は軽く会釈をした。
 そのまま目の前を通り抜けるが、当然のようにリンハルトが隣に並んだ。

「ハンネマン先生に御用があるのでは……」

 戸惑いに足を止めたを、「ん?」と小首を傾げながらリンハルトが見下ろす。長い睫毛に縁どられた大きな瞳は、丸い宝石のようだった。

を待ってたんだよ」

 欠伸混じりに告げるから、その瞳がわずかに潤む。「待ちくたびれた」と、リンハルトがのんびりと呟いて、歩き出した。もつられてその後を追うが、数歩進んだところでリンハルトが不思議そうな顔をして振り返る。
 もまた、不思議な顔でリンハルトを見上げた。

「なんで後ろを歩くの?」
「え?」
「隣においでよ」

 言うが否やリンハルトに手を引かれて、はたたらを踏んだ。ぎゅ、と一瞬だけの手を握る力が強くなって、身体の均衡を保ってくれる。
 リンハルトの手はすぐに離れたが、は落ち着かない気持ちでその手を胸に抱いた。

「フレン、無事でよかったね」

 他人事のように言ったリンハルトが「どこもかしこもピリピリした空気で、昼寝どころじゃなくてさ」と、続ける。
 はリンハルトの横顔をちらりと見やって、すぐに視線を足元へと落とした。唇を結んだままのをどう思ったのか知らないが、リンハルトが欠伸をひとつ零して、口を開く。

「それにしても、巷で噂の”死神騎士が”実在したうえ、その正体がイエリッツァ先生だったとは驚きだよ」

 不気味な仮面をつけた、鎌を手にした黒づくめの騎士──
 は胸に抱く手をぎゅうと握りしめる。指先の震えを悟られないようにしたつもりだったが、リンハルトの視線はの手元を捉えていた。
 首を傾げるリンハルトの動きに合わせて、深緑色の髪がさらりと揺れる。

「ああ、君って結構怖がりだったね」
「こ、怖がりでは……」

 ないとは言い切ることができずに、は言い淀む。アッシュやアネットほどではないにしろ、は臆病である。

 ちらりと見えた医務室の扉は閉ざされていた。
 イエリッツァの部屋で倒れていたマヌエラは、怪我を負っていたものの命に別状はなく、今節いっぱい大事をとって休養するそうだ。フレンも、そして一緒に発見された女子生徒も、順調に回復していると聞いている。
 セイロス教の総本山であるガルグ=マク大修道院において、生徒の安全が脅かされるようなことが起こるとは、入学前には微塵も想像していなかった。

「あ、

 ふいに、リンハルトが肩を掴んでを制止した。
 曲がり角の向こうの人影に、はそこで初めて気がついた。足音が近づく。はっと息を呑んで顔をあげた先、目に飛び込んできたのは輝くような純白だった。次いで、背後にたたずむ影のような存在に目が留まる。

 は邪魔にならないように道を開けたが、リンハルトがのんびりと「やあ、エーデルガルトさん」と右手を上げた。自国の次期皇帝に対して、随分と気安い態度である。

「リンハルト、ようやく見つけたわよ」
「うーん……僕を探すのに労力を割くなんて、無駄だと思いませんか?」
「り、リンハルトさん」

 にべもない物言いに、は思わず口を挟んでしまう。ため息を吐いたエーデルガルトの視線が、を捉えた。

「あなたはたしか、青獅子の……」
「は、はい。=セレネ=と申します」

 が丁寧に腰を折れば「顔をあげて」と、声が降ってくる。

「畏まる必要はないわ」
「そうだよ、は帝国貴族でもないしね」
「その道理でいけば、あなたは畏まる必要があるわね。リンハルト」

 エーデルガルトに睨まれてなお、リンハルトは素知らぬ顔をしている。あまりにも不敬なその態度に、は当事者でもないのに身を竦ませてしまう。リンハルトは心臓に毛でも生えているのだろうか。
 ちら、とはエーデルガルトの背後を窺った。
 ヒューベルトの口角はかすかに上がっているが、リンハルトを見下ろすその瞳はひどく冷たい。背丈も身幅もドゥドゥーのほうがあるはずなのに、ヒューベルトの威圧感のほうがよほど強く思えた。ドゥドゥーの穏やかな人柄を知っているせいかもしれない。

「あの、わたしは席を外しますね」

 一礼して立ち去ろうとするも、リンハルトに腕を掴まれて身動きが取れない。「ひどいな、僕は君を待ってたのに」と、リンハルトがわざとらしく唇を尖らせる。

「……仲がいいのね」

 意外そうに呟くエーデルガルトを、は困惑しながら見つめた。
 リンハルトの魂胆はわかっている。を利用して、エーデルガルトを追い払おうとしているのだ。はリンハルトを視線で責めるが、彼は一瞥もくれなかった。

「ということで、お説教はまた今度にしてもらえますか?」
「……怠惰を注意されたくなければ、講義に顔を出すことね。次はないわよ」

 踵を返したエーデルガルトの髪が、絹糸のようになびく。遠ざかっていくその背を見つめながら、リンハルトがの腕を解放した。

「やれやれ、エーデルガルトさんは面倒だな」
「……不敬が過ぎますよ」
も僕の身になってみればわかるよ。あれこれ口を出されるのなんて、誰だって嫌でしょ」
「…………」

 歩き出そうとしたリンハルトが「あ」と、声を上げて振り返る。

「他学級に移れば、さすがのエーデルガルトさんも口出ししないかな?」

 名案とばかりに、リンハルトがぽんと手を叩く。は思わず、胡乱な目でリンハルトを見るが、宝石のような瞳が見つめ返してくるばかりだ。

「それに、君をこんなふうに待つ必要もなくなるしね」

 悪戯っぽく言って、ふっとリンハルトが微笑む。
 が言葉に窮していると「見つけたぞ」と、斬り込むような鋭さをもって、声が割り込んだ。びく、と反射的に肩を震わせれば、苛立たしげに舌が打たれる。

「おい、その反応は何だ」
「そりゃあ、君のことが怖いんじゃない?」

 リンハルトがそう言いながら、を背に押しやった。
 は、意外に思いながらリンハルトの背を見つめる。面倒ごとはごめんとばかりに、巻き込まれないように立ち去るものと思っていた。立ち去るまではいかずとも、口を挟むことはないと思っていた。

 気だるげな物言いは、わざとフェリクスの神経を逆撫でするかのようだった。殺気じみたものが肌を撫でるが、それは一瞬のことだった。
 ため息を吐いて怒りを堪えたらしいフェリクスが、荒っぽく前髪をかき上げる。

「ゴーティエ領に行くぞ、準備をしろ」
「……ゴーティエ領に?」
「ああ、仔細は道中に話す。急ぎだ」

 リンハルトの肩を押しやり「貴様の出る幕はない」と、フェリクスが吐き捨てるように言った。

「フェリクスさん、」

 咎める意味で名を呼ぶが、フェリクスはに見向きもしない。
 フェリクスに睨まれたリンハルトはしかし、少しも怯んだ様子がなかった。大きな瞳を瞬いて、リンハルトがフェリクスを見つめる。

「まあそう言わずに」
「なんだと?」
「別にひとり増えたところで、どうというわけでもないでしょ。いいよね、

 返事を待つこともなく、リンハルトがの手を引いて歩き出した。呆気にとられていたフェリクスが、一拍置いてその後を追いかけてくる。怒気を孕んだ足音である。
 身を竦めるに対し、リンハルトがそれを横目に口を開いた。

「急いでるなら、言い争ってる場合じゃないんじゃない?」

 顔を背けたフェリクスが、舌打ちした。




 いの一番に馬車に乗り込んだリンハルトをもの言いたげにフェリクスが睨むが、やがて諦めたように口を開いた。

「マイクランの率いていた盗賊の残党が、ゴーティエ領で暴れ回っているそうだ」

 どくん、と心臓がいやなふうに跳ねた。は膝のうえに乗せた両手をぎゅっと握りしめる。
 「へえ」と、相槌を打つユーリスの顔には、皮肉げな笑みが浮かんでいた。

「頭を失った賊なんて、烏合の衆だろうに。辺境伯が手を焼くとは思えないがね」
「……内情は知らん」

 探るようなユーリスの視線を鬱陶しげに手で払い、フェリクスが続ける。

「とにかく、その討伐のためゴーティエ伯にシルヴァンが呼びつけられた次第だ。奴め、フレンの騒動があって、ひとりでマイクランの尻拭いをするつもりだったらしい」
「騎士団に頼めばよくない?」
「ええい、内情は知らんと言っただろう」

 首を傾げたハピを一瞥し、フェリクスが強い口調で言い切った。ハピがいまにもため息を吐きそうな顔をして、肩を竦める。傍らでそれを見るユーリスが、美しいかんばせを引きつらせた。

 マイクランが教団によって討たれたのは、前節の終わりのことである。
 角弓の節に入ってすぐフレン捜索が始まって、確かに自領の問題を口にできるような雰囲気ではなかった。シルヴァンがひとりで解決しようとするのは、致し方ないことかもしれない。
 彼は思いやりがあるし、ゴーティエ家の嫡男としての責任を、正しく理解している。

 は目を伏せる。
 いったい、どんな気持ちで馬車に揺られているのだろうか。思いを馳せようと、もう一台の馬車に乗るシルヴァンの様子を、が知るはずもない。

「それってが行く必要、ある?」

 眠っているとばかり思っていたは、驚いて隣を見やった。
 閉じられていたはずのリンハルトの瞳が、ひたとフェリクスを見据えている。「ハピだって行きたくないけど」と、唇を尖らせながらハピが襟巻きに顔を埋めた。王国出身ではない彼女には、飛竜の節が近いファーガスの寒さは堪えるのだろう。コナン塔でも随分と寒そうにしていた記憶がある。

「……領は、ゴーティエ領からそう遠くはない」

 腕を組んだフェリクスが、リンハルトから視線を逸らしたまま告げる。
 ガタン、とふいに馬車が大きく揺れて、リンハルトの手が素早くを支えた。向かいに座るフェリクスの手もまた、に伸びていた。は慌てて体勢を整える。

「す、すみません。ありがとうございます……フェリクスさんも」
「…………」
「なるほどなあ、じゃあシルヴァンのほうは”ついで”ってわけだ」
「ユリー? どういうこと?」

 ぽんと手を打つユーリスを見つめ、ハピが不可解そうに眉をひそめる。フェリクスは唇を結んだままだったが、合点がいったとばかりにリンハルトが頷く。

「ああ、の実家に寄るのが目的? なら仕方ないね」

 チッ、とフェリクスが舌打ちをして「そうだ」と唸るように答えた。

家には猪が先触れを出している」
「な……」
「いいか、。もう逃げ道はないぞ」

 それは、にとって死刑宣告にも等しかった。

 ディミトリの名を出された以上、に行かないという選択肢は存在しない。けれど、まだには姉と向き合う覚悟がない。
 ──あなたの顔を見たくない。
 そう言われたのはもう数節も前だというのに、まるで昨日のことのように、ひどく鮮明に声が蘇る。

「騙し討ちなんて卑怯じゃん」
「なんとでも言え。誹りなど痛くも痒くもない」

 フェリクスが小さく鼻を鳴らす。ハピがそれを責めるように見ていたが、尖らせた唇は開かれなかった。

「俺は賛成だね。みたいのには、荒療治が必要だ」

 はす向かいのユーリスが、わずかに身を乗り出した。
 ユーリスの指先が左目にかかる前髪を払って、輪郭を撫でていく。

「うん、ひどい顔だ」

 ユーリスが美しい笑みを浮かべて、呵呵と笑った。顔じゃなくて顔色だ、とコナン塔で咎めてくれたアッシュは、いなかった。






 自然に差し出された手を取ってから、はそれがシルヴァンのものであったと気づいた。顔をあげた先にあった榛色の瞳が、鮮やかに見開かれる。

「大丈夫かい、。もしかして馬車に酔っちまったのか?」
「え……」
「いまにも倒れそうな顔をしている」

 が戸惑っていると、傍らに立ったベレトが平坦な声で言った。わずかに眉尻が下がっているようにも見える。

「いえ……大丈夫です」
「無理はしないでくれよ? 火急だったから、人選がなあ……いや、ごめんな。ハピちゃん」

 馬車から降りるハピの手を取りながら、シルヴァンが苦笑を漏らす。「野郎だけで済ませるつもりだったんだが」と、シルヴァンが橙色の髪をかき上げる。外気に晒されたハピが、寒そうに首を竦めた。

「ま、来ちまったもんは仕方ねえ。さっさと片づけようぜ」

 馬車の入り口から顔を覗かせたユーリスが、シルヴァンを見て口角を上げる。

「ほら、美少年のお出ましだぞ。どうした、色男? 手を貸しな」

 そこらの女よりきれいな顔のはずだぜ、と藤色の双眸が愉快気に細められた。苦笑をそのままに、シルヴァンが手を差し出そうとした矢先、後方から声が掛けられた。

「シルヴァン様、お待ちしていました」

 騎馬兵隊が掲げる旗には、ゴーティエの紋章が記されていた。

君を縛る影のながさ